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吉光里利の化け物殺し 第三話  作者: 由条仁史
第2章 昔の我が家
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 家の中には、何もなかった。そりゃあそうだ。住んでいる人がいない家に、家具なんておいてあるはずがない。冷蔵庫と流し台、コンロくらいはあるけれど、それだけだ。

 鍵を挿して扉を開けた瞬間によみがえってほしくもない思い出が出てきたけれど、紗那に助けられることもなく、一気に扉を開けた。

 開けた瞬間にも、私は四肢を硬直させていたけれど。


 私は中に入り、かつてのリビング――今は何一つ家具なんてない――をぼんやりとみている。紗那も同様であるようだ。

 ……なんだろう。この拍子抜け感は。


 こうも変わってしまうものなのか……思い出というのは。十年前……そりゃあ、変わるか。神田さんの話だと、どうやらこの部屋には吉光家が抜けた後に誰かが住んでいたらしい。そして、去年出て行ったばっかりで、今は空き家状態。とのことだ。

 ワンクッション、ちょうどおいているわけだ。


 ……床を見ても、染み一つない。私の血や、涙の跡があるかと思ったが、まったくそんなものは見当たらなかった。本当にここで、殴られていたのかと疑問にも思ってしまう。


「……どうかした? さとり」


「なんか、拍子抜けというか……こんなんだったっけ。私の家」


「知らないよ。でもまあ、十年経ってるからしょうがないかもね……三人家族か。うん、ちょうどいい広さじゃないかな」


「ちょうどいい広さ、ね……」


 三人家族、そうか。私のイメージだと二人しかこの家には住んでいないように思っていたが、本当はそうだ。お父さんもここが家だったのだ。お父さんの存在を忘れてしまうだなんて……なんというか、薄情か。

 でも仕方はないんじゃないか、と思う。お母さんからの暴力を受けた記憶くらいしか、幼い私にはないんだから。


「…………」


 深く、呼吸をする。ふむ。この部屋独特のにおいはするものの、昔の生活の匂いはしない。こんなにも覚えていないものか……いや、間取りはちゃんと覚えている。玄関から入って、右手側にトイレ、バスルーム。そしてもう一つ部屋。しっかり覚えている。その部屋の中にクローゼットと押し入れがあったことも。あ、クローゼットはなくなってるか。そりゃそうだ。

 椅子やテーブル、食器の棚。衣装ケース。そして毛布。いろいろあった気はするけれど、それらすべてがなくなってしまっている。呆然とするほかあるまい。自分の住んでいたはずのところが、こんなにも居心地の悪い空間になってしまうとは。

 居心地は、悪かったか。

 でも他人の家のような気がする。ワンクッション置いているというのもあるかもしれないが……。


「なーんだろう……」


 私はここにきて、何がしたかったのだろう。お母さんと毎日一方的な戦いを繰り広げてきたこの決戦の地で、私は一体何をしようとしていたのだろう。決別って、何をすればいいんだろう。


「喪失感っていうか、なんというか……」


 ん、と紗那が私のほうを向く。


「ここに来て、何か解決、したのかな……」


「五七五?」


「……うっさい」


 冗談はさておき。


「決別って言ったって、何をすればいいのか……分かんないなぁ」


「うーん……ここで宣言すれば? 私、吉光里利はこれからもがんばっていきます! って」


「宣言って。……でもそれが必要なのかな」


「どーだろ。さとりにまかせるよ」


「そー、だよね……」


 私が言いだしたことなんだ。私がどうにかしないと。しかしどうしようか……何も思い浮かばない。わざわざこんなボロいアパートにまで来て、何をしているのか、私は。わざわざ神奈川まで来て……。


「あ、ここに住むとか?」


「えー……そんな金ない」


「大家さんに頼んでキープしてもらって、関東のほうの大学に進学すればできるじゃん」


「そのまえにこのアパートがあと二年もつかのほうが不安なんだけどね……言っちゃ悪いけど」


「仮にここに住めるとしたら、住む?」


「……うーん」


 どうだろう。

 住めるか?


「……いや、やっぱり無理」


 ここは、やっぱり駄目だ。ここに、こうして紗那と一緒にいる分には耐えられるけれど……でも、いざここに暮らすとなったら、眠れる気がしない。眠る前に、いろいろ考えて、またあの情景が思い浮かんでしまう。

 だから、無理だ。

 ここにはどうしても――お母さんの霊が、いる。

 地縛霊なんて、私は信じないけれど。


「……掃除でも、しようかな」


「え?」


「いや、決別って、そういうことじゃないかな。掃除すれば、心もきれいになる……らしいし」


「ふーん……でも結構きれいだよ? 埃は若干積もりつつあるけど」


「せっかくここまで来たんだもん。何かしてやらなきゃ。何か」


「……この家のために?」


「うん」


 家自体には、私は何も恨みはないのだ。むしろ、お母さんが死んだと聞かされて――驚きのほうが大きかったのだから。


「分かった。じゃあ大家さんに、箒と雑巾でも借りようか」


「うん」


 部屋を後にする。靴を履いている紗那の後ろ姿を見る。人のこういう動きってあまり見ないから、新鮮だ。

 そのとき、私は――紗那に、お父さんを思い出していたのかもしれない。頭では何も覚えていない、暴力すら発生していないとき、お父さんが仕事に行く様子を、この玄関から見ていたかもしれない。そんな、自分ではまったく記憶にない、記憶。

 ただの妄想だと思われてしまうほどの。


「……? どうしたの、さとり、ぼーっとして」


「あ、いや……なんでもない。行こう」


 私も靴を履く。慣れていない場所で靴を履くのも新鮮だ。……でも、昔はここで毎日靴を履いていたんだ。

 そう思うと、なんだか感慨深いものがある。

 ――お母さんの、早く行けと金切り声が聞こえてくるようで。


 扉を開ける。眼前にさびた手すりとコンクリートの床。そう。これも毎日見ていた光景。すがすがしい気持ちになる。ふう、とため息をつく。

 このすがすがしさも、お母さんの暴力からしばらくの間解放されると思っていたからだろうか。だとしたら……なんだか、悲しくなってきた。ここからの景色は、決していいものであるとは言えない。けれど幼い私にとって、何物にも代えがたい素晴らしい景色のひとつだったんじゃないか。と、思う。


「……さとり、なんか、具合悪い?」


「え?」


 紗那が心配そうに私を見る。具合は、別に悪くないのだけれど。


「なんか、思い出した?」


「……まあ、ちょっとね。ここって、私が毎日見ていた景色なんだよね……記憶の片隅に、うっすら残っている程度だけど」


「十年前かー。私は引っ越ししてないから分かんないけど前住んでた場所って、なんか……感慨深い感じするよね」


「そうだね」


「……掃除道具、私が取ってこようか? さとりは待ってていいよ?」


「あ、いや……」


「大丈夫。すぐそこだって言ってたし、走ればもっと早いから」


「……じゃあ、お願いする」


「あいよ」


 紗那は駆けるようにして階段を下り、神田さんの車に駆け寄って、私に合図をして路地のほうへ行った。


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