Ⅲ
「…………」
我が家を目の前にして、私は数分間、この階段に座っている。隣には紗那がいる。
神田さんが鍵を取りに行ってくれている間、ここで待っている……のだったが、その鍵はすでに私の手の中にある。
神田さんはすでに車の中だ。
隣に、紗那がいるだけ。
いまだ、家の中に入ることは、できていない。
……決心が、つかないんだ。
「……紗那」
「どうしたの?」
「……ちょっと、歩こうか」
「……うん」
私は立ち上がる。紗那は私の前を速足で過ぎる。神田さんの車のほうに行き、話をしているのが見える。待ってくれるように言っているのか。
「お待たせ」
「ありがと、紗那」
私は一度、アパートに背を向ける。
……神田さんの言うような責任感は、私にはないんだ。いや……まだ怖いのか。あの場所にはもうあの人はいない。あの人はもう死んだんだ。空き家になっているとも聞いている。けれど……やっぱり入りづらかった。
心って、こんなに強いものだったんだ。
ここまで、身体を束縛するのか。
私は、幼稚園や小学校に行っていたときの道を、ちょっと遅めに歩く。紗那もその速さに合わせてくれる。
紗那は何も言わない。何も言わないっていうのが、こんなに頼もしいとは……なるほど、縋りたくなる、依存したくなるというのがよくわかる。お母さんの気持ちが、分からないでもない。
でも……このままじゃいけないんだ。
向き合う。神田さんも言っていた。そう、私は向き合うことに決めたんだ。過去に、向き合う。それが私の決別なのだから。
だから……この場所とも、決別したい。
そう言いだしたのは、私なのだから。
「……紗那」
「ん、どうしたの?」
「紗那は……私のお母さん、どう思った?」
なんとなく、聞いておきたいことだった。
「うーん、そうだね……私はその、さとりが……どういう感じだったのかわかんないけど。かわいそうな人に、思えてくる」
「……だよね」
「なんだろう……自分の好きなもの、っていうのがあんまりないように感じる。こう、漫画が好きだーとか、アニメが好きだーとか。まあオタク系に偏るのは私だから許して……。もっと他にも好きなものがあって、そこに自分を見出していかないと。だから……そう、だね。居場所が、なかったのかもね」
「居場所……」
なるほど。確かにそう考えればそうかもしれない。お母さんがお父さんが死んだときにあそこまで狂ってしまったのは――本当に狂っていた。思い出したくもない――心のよりどころが一つしかなかったから。お母さんにとって居場所は、お父さんのそば以外になかったから。
そう考えることもできる。
「だから、さ。いっぱい居場所をもっていれば、簡単にはへこたれなくなるってことだよ。って、まあ私もそんなにいっぱい持ってるわけじゃないんだけどね。あはは……。神田さんがかっこいいのも、多分居場所をいっぱい持っているからじゃないかなーって思うよ。やっぱり年をとって経験が増えると、自然とそういうのも増えていくのかもね」
「年を取ると、自然に……。どうだろ」
私のお母さんは、居場所をたった一つしか見つけられなかった。だから、お父さんが死んで、後を追うように自殺した。
「それって、意識しないと増えていかないと思う。自分が認められる場所……だから、認められるように頑張らないといけないと思うんだ。……うん。そうだね」
結論は、出た。
なんだ……結局、紗那に教えられてばかりじゃないか。まったく。
具体的にどうするのかは分からないけれど……とにかく、居場所を作ること。自分がここにいてもいいと認められた場所。それを、これからの人生で作っていくこと。そうすれば、誰か一人――紗那――に依存するなんてことはない。
大丈夫。
私には、最高の友人がいる。
「……行こっか、紗那」
私は、足を止める。引き返そう。まだまだ、十分に間に合う。
「ん、分かった」
「あと、紗那」
「ん?」
「……友達になってくれて、ありがとう」
「……ぷっ。なにそれ恥ずかしい! もうとっくの昔に親友だって。友達になるのに、そんな儀礼じみたもの、いらないよ!」
紗那がいきなり噴き出した。私も我に返って、自分が言ったことがいかに恥ずかしいセリフだったのかを反芻する。うわー! うわー!
「ちょっ……それを言うなら紗那もでしょ! こっ恥ずかしいセリフ並べ立てて。かっこよかったけど普通に聞くと恥ずかしいからね?」
「ふっふーん。私は漫画を描いていたので恥ずかしいセリフを言うのに何ら躊躇はないのだ」
「ぐっ……」
赤くなってるくせに。ちょっと冷汗もかいてるくせに。
よく言うよ。
……まったく。