お局おばさん万歳48
イエスキリストの生まれ代わりに出会った?ほほほほほほほ(^0^)/諸兄よどう思う(^0^)/お笑い草か(^0^)/
若い頃私は導かれるように友に連れられて教会に通った。
だが教会も所詮人間の集団であり、そこに蔓延るのは雛形としての偏見蔑視構造であり、小説家志望の薄汚い格好をしている私は根拠もなくよく蔑まれ馬鹿にされたものだった(*_*)
そして私はその人間達を通して、キリスト教の馬鹿馬鹿しさを感じ取り、逆差別キリスト教自体に反発したものだった。(*_*)
そんなある日、私はまばゆいばかりの素晴らしい天界の夢を見た後、その夢に導かれるように、イエスキリストの生まれ代わりだとする人物に出会った。
彼は私に天国の何たるかを語り、地獄の何たるかをも語って聞かせ、最後にこう言った。
「人は愛を成就する為にこの世に生まれて来るのだ」と。
私はその言葉に祖母の訓示を聴く思いがして、その話を祖母に話して、では一度祖母がその者に会ってみようという経緯となり、その人物も承諾したのだが、会う当日になってその人物は忽然と姿を消してしまった。
その細かい顛末は作品にしても面白いものとなるだろうから、再度どこかで描くつもりなのだが、先を続けよう。
今この齢となり思うと、私は彼の言葉に深い感銘を覚える。
祖母はよく言っていた。
「人生は金じゃない。愛情だ」と。
今現在、祖母の言葉と彼の言葉は同質であると私は感じ、キリスト教に対する先入観は消え失せた次第で。
彼がイエスキリストの生まれ代わり云々の話しを端に避けても、彼の言葉は美しいものであったと私は感じる次第で。
自分の魂を救えるのは、他者ではなく、自分の心を研鑽努力して美しくして行くその所作であり、その研鑽努力こそが真の信仰だという思いを新たにするわけだ。
そして徳を成し、様々な美しい心と出会えるのが人生の何にも代え難い宝だと私は思うわけだ。(^0^)/
うるせーな、御高説爺、あんたの説法なんか誰も聴いちゃくれねえと言うの、腐れド阿呆が(-_-メ)
ほほほほほほほ兄貴まあピエロの酔狂、堅い事もたまには聴いて下されでやんすほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほあちきもピエロ人間の戯画の端くれ?でやんすからほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほ(^0^)/
諸兄よどうだ(^0^)/
教訓じみていて、お笑い草か(^0^)/
ほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほ(^0^)/