お局おばさん万歳103
私に取材など必要無い(^0^)/。
現代社会の反映である私自身の神経症?(笑)に冒されたボロボロの心こそが、真の取材対象であり、それは真っ黒い死の臭いのする悪魔の囁きに似て、陰性の美の極致なのかもしれない(*_*)ほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほ(^0^)/諸兄よどう思う?(^0^)/お笑い草か(^0^)/
重く暗い命題に向き合い、それをそのまま己自身の心に投影して行けば、そこにあるのはボロボロの心であり、世間の記号的名称を冠すれば、神経症と言う理になるわけだ(*_*)ほほほほほほほ(^0^)/
だが、全ての人間が一期一会として通過する現象のイメージ連鎖には当然違いが有り、そのイメージ連鎖が心に投影してそれぞれの喜怒哀楽を形作る理ならば、直面する差別偏見蔑視構造のイメージの差は個々にあるわけで(*_*)
そのトラウマを齎すイメージ連鎖が常に心の深層で流動し、その組み合わせの相互互換性が解明されていなければ、私の神経症は他の人の神経症と違い、その世界に私のような異端性があれば、その組み合わせの異端性故に、私はグロテスクな暗黒の死の中に捩れ相矛盾した桃源郷の夢を育むのか?
穏やかな狂気は目の前に広がる喧騒を噛み締め、己の魂を疲弊させ溶かすものでしかないのか?(*_*)
私に取材など必要無い。
私自身が差別偏見蔑視先入観の構造意識で塗り固められた心の持ち主ならば、私にとって私こそが正に最良の取材対象と言えよう(^0^)/
現代社会の反映である私自身の神経症?(笑)に冒されたボロボロの心こそが、真の取材対象であり、それは真っ黒い死の臭いのする悪魔の囁きに似て、陰性の美の極致なのかもしれない(*_*)
沈思すればする程に私は狂った微笑みを湛え、己の狂気を愛でているわけで(*_*)
私のトラウマ自体が私自身の肉体ならば、そのトラウマを噛み締めて、ひたすら己を嘲笑い、その嘲りを由として文章に投影し、狂気を我が友として生き抜いて行くしか道は無い(^0^)/
陰性の極致美としての死の概念を表裏一体として支えている生の概念を見据え、心のトラウマ自体の肉体に鞭打ち、よろめきながら、或はピエロのように戯れながら、生き抜いて行くしか無い(^0^)/
こんな文章を書く心の発露こそが我が生きる力を支える底力になっている事を信じて、私は歩くのみだ(^0^)/
うるせー、糞ジジー、絶望の頂点に希望などあるわけがねえーぞ(-_-メ)だからお前に生きる価値は無し、死ね(-_-メ)死ね(-_-メ)死ね(-_-メ)死ね(-_-メ)死ねー(-_-メ)
兄貴〜あちきは絶望という概念で叩かれ、鍛えられるマゾ的希望概念?(笑)なのでありんす、これこそが私阿呆ピエロの真骨頂、戯画の戯れ、神経症と戯れての真髄でありんす兄貴〜(^0^)/
ほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほ(^0^)/
諸兄よどう思う?(^0^)/
お笑い草か(^0^)/
ほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほ(^0^)/