#5 幸せを感じる瞬間(とき)⑦
大星たちが岬病院までやってくると、外ではトラ姿のこがねが伏せていた。
「あ、大星はんっ」
「こがね、オメェもついてこい」
大星はそう一言だけ告げて院内へと入っていく。
ロビーでは奈智が待っていた。どうやら心配で下まで降りてきたらしい祐佳と一緒に。
「あ、大星お兄ちゃんきた」
「矢場くんっ、と、え、虎丸くん?」
奈智は虎丸の存在に驚きつつも、それどころではないと判断したのだろう。
「いまお父さんが診てくれてる。病室じゃなくてこっち、ついてきて」
階段は上がらず、そのまま一階にある外来用の診療室へと入る。
すると祈里が立っていた。どうやらまだ穂月は処置中らしく、祈里は席を外していたようだ。
「サト姉、穂月は?」
「あそこ。先生が診てくれてる」
「そうか」
大星はかまわず歩み寄ると、引かれていたカーテンをくぐった。
「先生」
「ん、大星くんか」
穂月はベッドの上に横たわり点滴を受けていた。意識もしっかりしてるようで、大星に申し訳なさそうな視線を送っている。
「どうなんすか?」
「ああ、大丈夫。抵抗力がだいぶ落ちてきてたからね、寒さに当てられて体がびっくりしたんだろう」
毛布にくるまれて暖が取れたからか、先程までの青白い顔よりはややマシになったように見える。
「少し話をしてぇんですけど」
「ん、ああ、少しなら。じゃあ僕は」
岬先生が席を外すと、大星は脇の丸椅子に腰かけた。
「……」
大星が黙って顔を見つめると、
「……ごめんなさい」
穂月は目を閉じ、そう言った。
大星は穂月に向かって一枚の紙を掲げた。
「見ろ」
大星は静かな声で告げる。穂月はそっと目を開け、その紙を見た。
「それ……」
「オメェの手術の承諾書だ」
その紙の一番下には、保護者として母の署名と捺印がされている。
「……わたし、手術するんだね?」
「してぇのか?」
大星がそう訊き返すと、穂月はキョトンとした様子で、
「え、お母さんはそうした方がいいって思ったってことじゃ……」
「穂月の意志を尊重する、おふくろはそう言ってコレにサインした」
穂月は顔色を曇らせる。
「えっと、で、でも、わたしにはわかんなくて……」
「わかんねぇってのは違ぇだろ」
大星がそう言うと、穂月はあからさまにギクリとした。
「手術すりゃ間違いなく受験には間にあわねぇ。まだ受験を諦めてねぇなら手術はイヤだっつうよな?」
穂月は何も答えない。
「受験よりも体が治る可能性を追うっつうんなら手術は受けるはずだ。でもオメェは『わかんねぇ』の一点張り。迷ってる? いいや違ぇ……」
穂月は何も答えない。
「オメェは、考えることから逃げ出したんだ」
それでも、穂月は何も答えなかった。
無言の肯定。
穂月は小さい頃からずっと努力してきた。病気に苦しみながらも、自らの境遇に決して挫けた姿を見せなかった。
そう。『見せなかった』のだ。
挫けそうになった時もあったはず。だが穂月はずっとそれを乗り越えてきた。乗り越えることで運を掴み取ってきた。
「ねぇ……、お兄ちゃん。お兄ちゃんから見て、わたしはいままで頑張れてたかな?」
穂月は不安に満ち溢れた顔で口を開いた。
「ああ、オメェはよく頑張ってた」
大星は答える。
「でも、もう疲れちゃったの……」
穂月は小さな声で呟いた。
「ああ、そういうときもある」
大星も小さな声でそう返す。
「じゃ、じゃあ、しょうがないよね? わたし、悪くないよね?」
穂月は青ざめた顔をして大星の手にしがみつく。点滴台がガタッと揺れた。
「……いいや、オメェは悪ぃよ、穂月」
大星は首を横に振る。
「どうしてっ」
穂月が声を荒げるのを遮るように、
「けどっ! けどな、オレはオメェの百倍悪かった……。兄貴失格だ」
大星は続けた。
穂月は確かに頑張ってきた。努力を怠らなかった。それゆえに乗り越え、幸運も掴んできた。
それも、一人きりで。
過去の穂月なら、今回のようなことでも一人で答えを出していただろう。手術を受ける、受けない。そのどちらを選んでも正解も不正解もない。自らがどうしたいか、それで決めるべき選択だ。
ただし、それを一人で決める為には凄まじい精神力が必要となる。どちらを選んでも更なる努力が必要となる未来が待ち受けているのでは、疲れて立ち止まってしまうのも仕方ないことではないだろうか。
だがそれは穂月にとって命に関わってくる問題だ。
穂月が抱えた最大の不幸とは『病気』であり、『立ち止まることが許されない』ことでもあった。
穂月を悪いと言ったのは、その苦しみ、辛さを誰にも打ち明けなかったから。
自分を百倍悪いと言ったのは、穂月にそうさせてやれなかったから。
「ごめん、なさい……、お兄ちゃん、ごめんなさい……」
震えながら涙を流す穂月は、再び詫言を口にした。
それは大星に心配かけたことに対してではなく、ましてや兄失格だと言わせてしまったことに対してでもなかった。
――それでも、わたしはもう立ち上がれない。
そんな悲痛な叫びだった。
「穂月」
大星は穂月の名を呼ぶと、手にしていた手術の承諾書をビリビリと破り捨て、パッと撒き散らした。
「……お兄、ちゃん?」
穂月はふわふわと散り落ちる紙吹雪を茫然と目で追っている。
大星は閉められていたカーテンをガラリと開けた。
少し離れた場所から、皆が心配そうにこちらを覗く。
祈里、奈智、祐佳、虎丸、こがね。
「くろこ、ましろ、アレ持ってこい」
そして、バニーガール姿のくろことましろが、その手に三十センチほどの箱を手にして近付いてきた。
「えっ、くろっ、しろっ?」
穂月が二人の姿を見て目を丸くしている。いつの間にか涙も止まっていた。
「穂月」
「穂月ちゃん」
二人は笑顔で呼びかける。
「あ、その声……、くろこちゃんとましろちゃん……?」
大星は穂月を支え、その上半身を起こして壁際に背を持たれ掛けさせると、くろことましろは持ってきた箱を手渡した。
それを確認し、大星は壁に掛けられた時計をチラリと見る。
時刻は23時59分、45秒。
「……なぁ、穂月」
50秒。51秒……。
「オメェはずっと一人で頑張ってきたよな」
55秒、56秒……。
「でも、一人はもう『今日で』終いにしろ」
59秒……、0。
「んで、『今日からは』オレたち全員が傍にいる。それを忘れねぇでくれよ」
大星は穂月が手に持っていた箱の蓋を開ける。
「……これって」
その中身は苺が綺麗に飾られたデコレーションケーキだった。
「ああ、オレの記念すべき第一作目だぜ?」
大星がそう答えると、離れて様子を見守っていた全員が穂月の周りを取り囲む。
すると『せーのっ』と、くろことましろが音頭を取り、
『誕生日おめでとう!』
という、皆の声が室内にこだました。
ケーキの中央にはチョコレートでできた黒と白の二匹のウサギが『Happy Birthday!』と描かれたプレートを持っている。
一月二一日 日曜日。矢場穂月、十五回目の誕生日。
「おめでとさん」
大星が穂月の頭をポンポンと優しく叩くと、
「お兄ちゃん」
穂月はケーキを見つめて茫然としながら呟いた。
「……わたしって、幸せ者だね」
穂月は顔を上げ、皆の顔を見渡した。その瞳には輝きが宿っていた。
「みんな、ありがとう」
満面の笑顔を共に、その輝きは雫となって零れ落ちる。
自分は一人ではない。自分は幸せである。
そう気付くことこそが、最も幸せで幸福な瞬間だと、この場にいる全員が思っていたのだった。