#5 幸せを感じる瞬間(とき)⑥
一月二〇日、土曜日。今日は今年の大学入試センター試験の初日だった。
時刻の針はすでに夜の十時を差している。
手術の話を出てから六日が経ったが、あの日以降、穂月の容体は日に日に悪くなっていた。口では「大丈夫」「平気」と言ってはいる。だが顔色も優れず、口数も少なく、目も虚ろだった。
今週、大星はそんな穂月を案じ、いつもの登校前に加えて下校後も病室に顔を出すようにした。そして毎日必ず自分が見ている目の前で兎大福、つまりは幸福の補充をさせた。
それでも穂月の容体は悪化の一途を辿り続けている。
「明日が最初で最後のチャンスかもしんねぇな」
自宅の電話、受話器を手に取っていた大星はそう話す。
「……そんな縁起でもないこと言わないで、って怒らなくちゃいけないところ、だよね」
受話器越しから聞こえる奈智の声は悲痛すら感じさせた。奈智も大星と同じことを思っている。
「いんや、怒られたって状況は変わんねぇ」
「そう、だね……。準備はどう?」
「ああ、もうできてる。オメェがあん時、ああ言ってくれてなかったら、多分こんなこと思いつきもしなかった。ここまでやれたんも全部オメェのおかげだ。けどよォ奈智、礼はまだ言わねぇぞ?」
「うん。穂月ちゃんが元気になってから、ね」
奈智がそう話す声と同時に、受話器からバタバタという音が聞こえてきた。
「ん、どうかしたんか?」
大星がそう尋ねると、
「あ、夜分遅くに失礼します。岬病院の岬です」
電話先から聞こえたのは岬先生の声だった。
「あ、先生っすか?」
「大星くんかっ? 穂月ちゃん、そっちに戻ってないかな?」
受話器越しの岬先生は明らかに焦っていた。
「えっ? 穂月、病室にいないんすかっ?」
「そうなんだ。すまない。完全に病院側の管理責任だ。十五分ほど前に当直の看護師が見回った際に穂月ちゃんの姿が確認できなかったらしい。院内は調べたんだが見つからない。もしかしたら自宅に、と思ったんだが……、大星くん?」
大星はすでに駆け出していた。受話器も戻さず、上着も着ず、玄関の扉すら開け放ったままで夜の寒空の下へと飛び出した。
頭の中は吐く息のように真っ白だった。
顔に刺さる冷たい空気。軋む心臓。そんなものを気にする余裕などなかった。
「穂月っ、穂月!」
大星は妹の名を叫びながら、何かに取り憑かれたように、ただ走った。
大星はまっすぐ、ここ卯上神社までやってきた。朱色の鳥居をくぐり、参道を駆け抜ける。
すると目に飛び込んできたのは、拝殿前にて大きなトラの背に乗せられる穂月の姿だった。
「穂月っ!」
その呼びかけに対し、穂月は真っ青な顔をして震えたまま、視線だけを大星へと向けた。
「ど、どうしよう、穂月が……、穂月がっ」
「大星さん、ごめんなさい。ごめんなさい……」
ウサギ姿のくろことましろが大星の元に駆け寄ってくる。
「なんだっ、なにがあった?」
「大星、アンタはその子たちから話を聞いてからきな。いいね?」
祈里はそう言うと、穂月を支えるようにこがねの背にまたがる。
「こがね、お願い。病院まで急いで!」
こがねは大星の顔を心配そうに一瞥し、二人を背に乗せたまま物凄い速度で走り去っていく。
「ちょっ、おいっ!」
いつもと違い、静寂が立ち込める境内には、大星の息を切らす音とくろことましろのすすり泣く声だけが響き渡る。
「……くろしろ、話せ」
大星はこがねが走り去った方向を見つめたまま言った。
「うん……、あのね、くろたちね、本殿の中にいたの」
「……そしたら、そしたら、穂月ちゃんの呼ぶ声が、聞こえたんですっ」
くろことましろは一生懸命に涙を拭いながらこう話した。
*――
一時間ほど前、卯上神社本殿。
くろことましろはウサギ姿で座布団の上に丸まり、話をしていた。
「ねぇ、しろ。アイツが言ってた穂月を助けられるかもって話、どう思った?」
「う~ん……、大星さんの考えてることはわかったけど、それでホントに穂月ちゃんが良くなるかどうか、しろにはわかんないなぁ」
「うん、くろも同じ。なんかさ、くろたちってホントに役に立ってるのかなぁ……?」
「どうかな……、大星さんの考えてる通りに穂月ちゃんが良くなってくれれば、もしかするとしろたちは要らなかったかも……」
「じゃあさ、なんで神様はアイツと穂月にくろたちのことを見られるようにしたんだろ?」
「聞きたくてもしろたちからは神様に話しかけられないよ」
「そうだけどさ、なんか理由があると思わない? それともくろたちが神様の期待に応えられてないだけ?」
「ええ~っ、そんなのヤだなぁ。しろは大星さんの役に立ちたいよ~」
「そりゃくろだってっ」
――
「あれ? くろちゃん、いま……」
「うん、聞こえた。穂月?」
二匹は本殿を飛び出した。
「あ、ホントにいた。くろこちゃん、ましろちゃん」
(なんで? なんで?)
(穂月ちゃんが神社にいるっ)
パジャマにコートを羽織っただけの格好。マフラーも帽子も、手袋さえも付けていない姿で、穂月は拝殿前に立っていた。かじかむ手に息を吹きかけている。
「おいでおいで~」
穂月はその場でしゃがみ、手を広げて二匹を呼ぶ。
くろことましろは穂月の胸の中に飛び込んだ。
「きゃっ」
頬にその身を擦り寄せると、冷え切った感触が伝わってくる。
(しろっ、穂月寒そうだからあっためないと!)
(うん!)
「もう、ホントに懐っこいなぁ、フフ」
穂月は強く二匹のことを抱きしめた。
「今日はね、どうしてもお礼を言いたくてきたんだ~。多分わたしはもうここになこれなくなっちゃうと思うから、そうなる前に、ね」
(えっ……?)
(穂月ちゃんってば、なに言ってるの……?)
「実はわたし、今年の初詣でここの神様に二つお願いしたの。その内の一つが、お兄ちゃんに友達ができますように、だったんだよ? お兄ちゃん、わたしのことを守ってくれるためにあんな言葉使いしたりしてるの知ってるんだ。だから、わたしのせいで友達ができないのがずっと気になってたの」
穂月は二匹をその場に下ろして立ち上がり、
「神様、お願いを叶えてくれて、ありがとうございます」
と、拝殿に向かって頭を下げた。
「それから、くろこちゃん、ましろちゃん、アナタたちも……、お兄ちゃんと友達になってくれて、ありが、とう……」
「穂月っ」
「穂月ちゃんっ」
二匹の叫び声と同時に、穂月は崩れ落ちた。
――*
「それで、それでね、急いで祈里を呼びに行って……」
「そ、そしたら、こがねさんたちが神社にきたんです」
拭っても拭っても、二匹の涙が止まることはなかった。
「……たち?」
大星が訊き返すと、
「せや、ワイもおるで」
虎丸一郎太だった。いつものマスクを付けた虎丸は拝殿の隅に背中を預け、一部始終を見ていたようだ。辺りが暗かったのもあるが、虎丸の存在に気付けないほど大星の心理状態は波打っていた。
「いまの嬢ちゃん、じぶんの妹だったんやな」
虎丸は肩を並べるようにして、大星と同じ方向に目をやった。
「テメェには関係ねぇ」
大星は微動だにせず、そう言い放つ。
「そうでもないで? 妹ちゃんをここまで運んだんはワイとこがねや」
その言葉を聞いた瞬間、大星は虎丸の顔を思いきり殴り飛ばしていた。
凍えていた拳はその衝撃で裂け、血が滲み出す。
「テメェ! 昨日の仕返しのつもりかっ、おい!」
大星は倒れ込んだ虎丸へ馬乗りになり、もう一発殴りつけた。
「ちょっ、違うわっ」
「違いますっ」
くろことましろが一斉に声を上げて、そんな大星を止める。
虎丸は大の字になったまま抵抗もせず、真っ黒な夜空を見上げていた
「あぁん? なにが違ぇんだよ……。もし、もし穂月になんかあったらコイツのせいだろうがっ。なんにも違わねぇ!」
大星は虎丸の襟元を掴んで叫んだ。
「なんとか言えよっ!」
すると虎丸は虚ろだった視線を大星に向ける。しかし、一言も発しない。
それに見兼ねたくろことましろが大急ぎで口を挟む。
「コイツはね、穂月がアンタの妹だって知らなかったのよっ」
「病気だったことも知らなかったみたいです」
大星は虎丸の襟元から手を放す。
「知らなかった……、だからなんだっつうんだ? コイツのせいで穂月は倒れた。その事実は変わんねぇ。そうだよな、虎丸一郎太!」
「いや、だからっ」
「違うんですってっ」
今にももう一発殴りそうな雰囲気の大星に向かってくろことましろが更に声を荒げるが、それを制するように虎丸が重い口を開いた。
「……すまんかった」
そう言うと、虎丸はおもむろにマスクに手をやり、それを脱ぎ去る。
「……オメェ」
マスクの下の素顔には大星に殴られたせいで腫れ上がる右頬とは別に、額の左部分から頬のあたりにかけて大きな火傷の痕があった。大星はそれ目の当たりにして、思わず馬乗り状態から身を引いてしまう。
「まぁせやな、コレ見ると大概のヤツがそういう反応しよるわ。生まれてすぐのことやったらしいからの、ワイは全然覚えてへんのやけど」
虎丸は再びマスクを被り直し、立ち上がった。
「じぶん、この痕見てワイのこと不幸やとおもたか?」
「…………」
怒り、焦り、動揺、様々な感情が渦巻いていた大星にはその問いに答えることができなかった。
「ワイ自身はな、この顔を不幸だとおもたことはないねん。せやからこの前、祈里はんにキライや言われたんがまぁ、初めての不幸やったわ。不幸の重みちゅうんを知らんかったから、幸福がどんなもんなんかもワイは分かってなかったんやろな……」
虎丸は、
「妹ちゃんにも悪いことしてしもた。知らんかったからって許されるもんでもない。殴られて当然や」
と、右頬を抑えた。
「コイツは穂月がここにきたいって言ったから連れてきたの」
「穂月ちゃんを心配してくれたんです」
夜道を一人歩く穂月を見つけた虎丸は、卯上神社へ行くということを聞いてここまで連れてきた。女の子が夜に出歩くのを危険と感じたからか、穂月のおぼつかない足取りを見て心配したのか、ともかく虎丸は穂月を助けようと、もっといえば、穂月に幸福を与えようとしたのだ。
「誰かを幸せにするっちゅうんは、えらい難しいことなんやな……」
今まで、さも簡単に人を不幸に陥れてきた虎丸は、その罪の重さを知り、同時に幸福がいかに尊いものなのかを思い知ったのだろう。
「……くろしろ、病院に行くぞ」
「えっ、あ」
「は、はい」
歩き出す大星。それに続くくろことましろ。しかし虎丸は動かない。
「いつまで寝てんだよ」
大星は振り向かずに声をかけた。
「テメェにも見せてやる。オレが穂月を幸せにする瞬間を」
それは、決して自信が物を言った言葉ではなかった。