#5 幸せを感じる瞬間(とき)④
翌、一月一四日、日曜日。
学校が休みの大星はいつもより少しだけ遅く家を出た。もちろん行き先は岬病院だ。
平日、登校前に穂月の元に顔を出すといつもテーブルには食器が並べられており、ちょうど朝食の時間に当たってしまう。いつもは遅刻するわけにはいかないので仕方がないが、休日とあればその時間を避けた方がゆっくりと話もできるだろう。
病院前に到着したのは午前九時頃だった。
「矢場くん、おはよう。筋肉痛とか平気?」
そう声をかけてきたのは奈智だ。祐佳を紹介したかったというのもあって、今日は一緒に穂月を見舞う約束をしていた。二人は連れ立って病院内へと入っていく。
「オレはそんなヤワじゃねぇ。それよか昨日の件よ、親父さんに訊いてくれたか?」
「あ、うん。ちゃんと前もって許可を取って、周りの患者さんに迷惑かけなければオッケーだって言ってた」
大星は昨日、ついに見つけた穂月の現状を打破するきっかけを奈智と祈里、そしてくろことましろに話した。だがそれはあまりにも漠然としており、むしろどう実行に移すかがカギとなるものだったのだ。
ただ、失敗したからといって現状が悪くなるような代物でもなく、それならば手当たり次第にやってみようという話になった上で、一つ奈智に確認を取ってもらっていた。
「なら予定通りイケるな。あっ、でもよォ、その日って今年のセンター試験二日目なんだよなぁ。やっぱ余計な心配かけちまうと思うか?」
「あ~、矢場くんって進路のこと穂月ちゃんに言ってなかったんだっけ?」
「……まぁな」
大星はその『余計な心配』をかけたくないが故に、自身の受験に関してはほとんど穂月に伝えていなかった。しかし、それは穂月が入院したからできた理由に過ぎない。
実は自分の進路をひた隠しにしている本来の理由は別にあるのだ。大星の進路は母も穂月もただ進学するということのみしか知らない。
悩む大星を見て、奈智は「フフッ」と微笑んだ。
「なんだよ?」
「まだ恥ずかしがってるの?」
奈智にそうつっこまれ、大星は思わず頬が熱くなった。
「あぁん? ワワ、悪ィかよ? ガラじゃねぇって自覚してんだっ!」
そう。大星が進路を隠す理由は『恥ずかしいから』という至極明快なものだった。それすらも奈智にはバレているのだ。
ちなみに家族以外で大星の進路を知っているのは担任教師と奈智のただ二人だけ。
生徒の進路を担任が知るのは当然のことだろう。だが、奈智には穂月と同様にそれを伝えていなかった。家族は漠然としか知らないし、担任がおいそれと他人の進路を口外するとも思えない。
にもかかわらず、ある日奈智は見事に大星の目指す進路を言い当てたのだ。
曰く「バレバレだよ?」だそうだ。そんな奈智には、なぜ大星が母や穂月を初めとして他の人に進路を打ち明けないのか、という理由すらも一目瞭然のことらしい。
「ったく、人がマジに話してんのによォ……」
「ゴメンゴメン。私はね、どっちでもいいと思う。伝えたくなったら伝えればいいし、恥ずかしくてもさ、決まっちゃえばどうせ話すわけでしょ?」
「あ~、まぁそうだな。んじゃちゃんと決まってからにすっか」
大星はそう言うと、到着した301病室へと入っていく。
「私にも分かったくらいなんだから、穂月ちゃんが気付いてないわけないのに」
ボソッとそう呟いた奈智も、大星の後を追って中へと入っていった。
「きたぞ、穂月。コレ、今日の分な」
大星がそう言って穂月に手渡した兎大福は昨日、笹原から分けてもらったものだ。
試合後、病院へ搬送されたチームメイトの元へ駆け付けた笹原たち野球部。そこに大星も生徒会室での話し合いが終わった後に合流した。
部員たちから様々な称賛の言葉が飛び交う中、笹原に奪われていた幸福をこっそりと返却し、大星は虎丸の件が解決したことを伝えた。それで幸福を増やすことができたようだった。笹原が深々と頭を下げた瞬間、くろことましろはそれぞれ兎大福の菓子折りを手にしていた。
もちろん大星は笹原だけでなく、他の部員と見竹マネージャーまでの幸福を増やしていた。
その皆からも分けてもらい、計十人から四十個の兎大福を手に入れた大星は、穂月を救えるかもしれない策まで思いついた。
感謝の意を口にする部員たちに、大星は逆に頭を下げた。本当に礼を言うのはこちらの方だ、と。
そんな、やっとの思いで手にした兎大福なのだが、穂月は大星からそれを受け取ると、「うん……、ありがと」と小さな声で呟くだけだった。
「あ~……、もしかして大福もう飽きちまった?」
「え、ううん。そんなことない。いつも美味しく食べてるよ?」
そう笑顔を返してくる穂月だったが、様子がおかしいのは一目瞭然だった。
「おはよう、穂月ちゃん。もしかして具合悪い?」
数歩遅れて顔を出した奈智も、一目で穂月の異変に気付いたようだ。
「あっ、なっちん。えっと……、大丈夫。アハハ、なんだろ~、朝ごはん食べ過ぎちゃったからそう見えるのかな?」
穂月が笑えば笑うほど、無理しているようにしか見えなかった。
「なぁ祐佳はどした? 奈智をアイツに紹介してやろうと思ったんだけどよ」
隣のベッドに祐佳はいない。
「そうなんだぁ。でもいまお薬の時間で、多分まだ三十分くらいは戻ってこないと思う。喘息の、ほら、あれ」
吸入薬のことだろう。
「そうか。まぁ奈智のことはいつでも紹介できるからいいんだけどな」
大星はベッド脇の丸椅子に腰を下ろし、穂月の顔をじっくりと見た。
「な、なに、お兄ちゃん?」
「具合悪くねぇんなら、なんでオメェはそんなツラしてんだよ?」
大星は穂月を見つめたまま訊いた。
「えっ、あの、だから朝ごはんを……」
穂月の目が泳ぐ。
「穂月ちゃん、矢場くんにも話せないこと、なのかな? もし私が邪魔なら席外すよ?」
「違っ……、わたし、なっちんのことを邪魔なんて思ったこと一回もないっ」
そう優しく声をかける奈智に、穂月は慌てて顔を向けた。
「どうしたんだ? なにがあった?」
「うん、ごめんね……、話すね。けどその前に、岬先生を呼んできてもらってもいい?」
「お父さんを?」
奈智が訊き返すと穂月は頷き、
「先生から話してもらった方がいいと思うから……」
と、言って俯いてしまった。
「お父さん、今日はお昼からお仕事って言ってたからまだ家の方にいると思う。私、呼んでくるね」
「ああ、頼む」
奈智はそう言って病室を出ていった。
静かな病室。時計の針がカチカチと動く音まで聞こえてくる。
俯いたままの穂月に大星は声をかけられなかった。胸のあたりがモヤモヤと、何やら嫌な予感を告げていた。