#3 野球部の事情⑤
その日の夜。
「穂月」
病室の扉をそっと開けて小さな声で呼びかける。
「わっ、お兄ちゃん?」
大星はそそくさと室内に入り、音がしないように扉を閉めた。
時刻はすでに夜十時。院内は消灯時間を迎えており、廊下も室内も電気が消されている。今朝、隣のベッドに入院してきた少女、祐佳はもう寝ているのだろう。間にはカーテンが引かれており、微かな寝息が聞こえてくる。
「夜に悪ィな」
「ううん、まだ起きてたから。今日は昼間もずっと寝てたからなかなか寝付けなくって音楽聴いてたの」
二人は祐佳を起こしてしまわないように顔を近付け、小声で話す。
「おやつの時間、ちゃんと大福食ったか?」
「うん。食べた」
「ならいい。また明日の朝に持ってくっからよ。で、いまは代わりにコイツらを持ってきた」
大星は着ていたコートの前を開け、そこからウサギを二匹取り出した。
黒と白、もちろんくろことましろである。
「あっ、この子たちってあの時の?」
「ああ、オマエが助けた二匹だよ。卯上神社に住みついてるらしくてな、とっつかまえてきた」
二匹は大星の手からベッドにピョンと飛び移ると、すぐさま穂月の胸の中に飛び込んだ。
「フフ、ふわふわでかわいい」
あの事故以来の御対面となる。あれだけ気にしていたのだ。やはり顔が見られて嬉しいのだろう。二匹はツンツンと鼻を穂月の頬に当ててじゃれている。
「なつっこいね~、この子たち。祈里さんによっぽどよくしてもらってるのかなぁ?」
祈里によくしてもらっているのか、祈里がよくしてもらっているのか。
それは定かではないが、神社の本殿でこの二匹の正体を知った時のやり取りを見る限り、仲は良さそうだった。
「多分、な。つか、オマエのことを気に入ったんだと思うぜ、コイツらは」
「そうなの? だったら嬉しいけど」
穂月はくろことましろを代わる代わるに抱き上げて頬擦りしている。二匹もくすぐったそうに顔を綻ばせていた。
「でもいいの? 病院に動物持ち込んじゃって」
実際に動物だったら大問題だが、院内に神使を持ち込んではいけないというルールはなく、むしろ御利益がありそうで患者も喜んでくれるかもしれない。が、今はまだそれを穂月に伝えることはできない。
「お、おう。バレたらヤベぇからこの時間にきたんだよ。けどあんま長居はできねぇ、か。見周りとかくんだろ?」
「うん、当直の看護師さんが見にくると思う。それに今朝入院してきた隣の祐佳ちゃんね、喘息なんだって。もしかすると動物とかあんまり良くないかも……」
祐佳には見ることもできないこの二匹なら大丈夫なはずではあるが、とりあえず目的だった顔見せは叶った。
「そうか、んじゃサッサと退散しておいたほうがいいな。くろこ、ましろ、もう行くぞ」
そう呼ぶと、二匹は名残惜しそうにしつつも再び大星のコートの中へと戻ってくる。
「あ、その子たち名前ついてるんだね」
しまった。大星はギクリとした。
「お兄ちゃんにもすっごく懐いてるみたいだし、もしかして名前つけてあげたの?」
「え、い、いや……」
大星が必死になんて答えようか迷っていると、隣のベットから「ん、う~ん……」と祐佳の声が聞こえてきた。
「お、ヤベッ、起こしちゃマジぃ」
「うん、そだね。くろこちゃん、ましろちゃん、会いにきてくれてありがと。今度は退院して、私から神社まで会いに行くからね」
コートから顔だけ出した二匹に優しく手を振り、穂月は言った。
「じゃな、また朝くる」
「お兄ちゃんもありがと。おやすみ」
大星は入ってきた時と同じように、音を立てずにササっと病室を後にする。廊下にもまだ見周りの影はない。誰かに見つかる前に足音を殺して外へと向かった。
そしてそのまま病院を出たところで再度コートの前を開けてやると、二匹は飛び出す動作でバニーガール姿に変わった。
「あぁん? なんだオマエら、泣いてんのか?」
一目でわかった。二人は目にいっぱいの涙を浮かべて肩を震わしているのだ。
「だって……、だって……」
「が、我慢してたんです……」
そう言ってくろことましろは「うわ~ん」と声を出して泣き始めた。あまりの大声にドキッとしたが、二人の声は誰かに聞かれることはない。
結局、二人は助けてくれたお礼だ何だと言いながらも、きっと心のどこかではその責任を感じていたのだろう。初め、入院していた大星の元にきた時も怒られると思って固まっていたのが思い出される。
だが、その二人を実際に助けたのは大星ではなく穂月なのだ。もちろん穂月がそんな風に考えるような人間ではないことを二人はわかっているからこそ好きになったに違いないが、もしかしたらその穂月の方に嫌われてしまっているかもしれないという不安もあったのかもしれない。
それもこれで拭えたはずだ。なにせ『今度』の約束まで交わしたのだから。
大星は泣きじゃくる二人の頭を撫でてやった。
神使といえどやっぱりまだガキだなぁ、などと思っていた。
だが、
「でもね……」
「うん……」
くろことましろは涙を拭いながら、頭を撫でる大星にその潤んだ瞳を向けてきた。
明らかに様子がおかしい。穂月に復調の兆しが見えたというのにもかかわらず、二人の表情は依然として優れない。むしろ穂月に会う前の方が元気が良かったくらいに思えた。
「な、なんだ?」
大星がそう訊くと、
「穂月ね、不幸の影響をまだ受けてるみたい」
「うん。悪い気がこの前よりも少し増えていました」
大星はしゃがんで二人と目線を合わせた。
「そりゃどういうことだ? 大福食えばとりあえず時間稼ぎになるんじゃなかったのか?」
「そのはずだったよ。でも、あれは予想以上に……」
「穂月ちゃんは、入院している間にもっと落ち込んじゃったんだと思います」
二人は完全に泣き止み、今度は真剣な表情で大星を見つめながらそう話した。
一日一個の兎大福を食べることで、その日は幸福が体を巡り、不幸による悪影響が食い止められるはずだった。なのに、それが現在も少しずつだが進行してしまっている。
一個で足りるという見込みが甘かった、というわけではなく、穂月自身が現状により失望してしまったことによって悪影響が出続けている。そういうことのようだ。
「つまり――、アイツは無理して笑ってたってことか?」
「そう。良くなってない。時間がないわ」
「幸福の確保も大事ですけど、穂月ちゃんの心の問題を何とかしないといけません」
幸福を補充することがイコール穂月の現状を改善することには繋がっていなかった。
大星は「話が違う」と口に出しそうになった。が、思い出してみれば最初からそういう話だったのだ。
つまるところ穂月が良くなるには穂月自身が希望を持つこと、また『運』というやつを自ら掴み取れるようにならなくてはならないのだ。
幸福の補充はいわゆる延命措置に過ぎず、大星が感じた復調の兆しもまた幻想に過ぎなかった。
「そうか、そうだったな……。穂月を救うには幸福を集めるだけじゃダメなんだ。オレはそれも見つけなくちゃなんねぇ」
「そうよっ。当然くろたちも一緒に探すけどさっ、アンタももっとしっかりしなきゃ!」
と、くろこは大星の頬に手を当てる。
そしてましろも、
「そうですっ。さっきの調子ではしろたち不安でしょうがないです!」
と、反対側の頬に手を当てた。
「あぁん? さっきってなんだよ?」
大星がそう顔をしかめると、当てられていた手が一斉に頬をつねる。
「いてててて、おいっ」
「なんだじゃないでしょ? 散々くろたちにはバレないように気をつけろとか言ってたくせに」「しろたちの名前呼んじゃっていましたよね? もし穂月ちゃんにバレていたら余計な心配かけちゃうところでした」
空気が一転して大星が責められる展開へと早変わりした。くろことましろの口撃は続く。
「なぁにが『オレはオレの役目をしっかりと全うしなきゃいけねぇな』よっ。全然ダメじゃないっ」
「ね~。大星さんてば結局は野球部の子たちにもイイお話、聞けませんでしたし」
放課後に集まった野球部一年たちからは、確かに有力な情報となりそうなものは得られなかった。
「おいおいおいおい、それは単に一年たちが何も知んなかっただけで別にオレが悪かったわけじゃねぇだろ。オマエらが口うるさく言うからよォ、喋り方にも気ぃ遣ってたじゃねぇか!」
大星としては、せっかく奈智が用意してくれた機会を無駄にしてはいけないと、細心の注意を払ってことに挑んだつもりだった。
「えっと、大星さん? 『おい一年、なんか気付いたことあったらオレに話してみろや』のどこに気を遣っていたんでしょうか?」
「最後に『あぁん?』って睨まなかっただろうがっ」
「アンタって本っ当にアホなのね~」
「なぁにぃ?」
夜の病院の前だというにもかかわらず、三人は完全にヒートアップしていた。くろことましろには先程の涙はもはや影もなく、大星はほんの少しでも心動かされた自分に腹が立つほどだった。
すると、そんな大星の肩がポンポンと叩かれる。
「傍から見ると一人で暴れてる完全に危ない人になってるよ、矢場くん」
「どぅわぉっ、おぉ……、奈智か」
そこにはいつの間にかやってきていた奈智の姿があった。いつぞやのようにマフラーを巻き、もこもこのコートを着込んでいる。
と同時に、病院内から懐中電灯を持った人影がこちらにやってくるのが目に入った。今の騒ぎ、というよりも大星の大声が聞こえてしまったのだろう。
「場所変えよっか。卯上神社までいこ」
「お、おう」
走り出す奈智の後を大星が追い、バニーガールたちもなんだかんだ言いつつ後に続いたのだった。