風邪
風邪を引いた。恐らく昨日、雨に打たれたことが原因かもしれない。通り雨だった為、何時降るか等は分からなかったのだ。
そう言う事も有り、今日は学校に連絡して、休む旨を伝えた。
ああ、今日はずっと布団の中に入っていられるのか。幸せだ。
――コン、コン、コン。
ドアがノックされる。
誰だろうか。お母さん……、は先程仕事に出たはずなのだが。若しかして何か忘れ物をして家に戻ってきて、再び出るついでに私の様子を見ておこうと思ったのだろうか。
「どうぞ」
私は入室を促す。
「お邪魔しまーす」
「お邪魔だ帰れ」
「酷いっ!」
何とやってきたのはコイツだった。確かに「風邪で休む」とメールを送っておいたのだが、まさか家までやって来るとは思いもよらない事であった。
「ねぇ、大丈夫?」
心配そうな顔と声色で伺ってくる。
「大丈夫じゃないから、こうして学校休んで養生しているんだろ」
「あはは、確かにそうだね」
苦笑い気味にコイツは答える。そして、「ねぇ」と話を続ける。
「何だ?」
「リンゴ、剥いてあげよっか?」
そんな事を提案してくる。
「どうして私が食べる事を前提に聞いてくるんだ?」
「え、食べないの?」
「剥くなら食べるが……。って、ちょっと待て」
私の返答に「よし、ちょっと行ってくる」と部屋を出て行こうとしたコイツを呼び止める。足を止めたコイツは「どうしたの?」と言っているような表情で私を見る。
流れが余りにも自然体過ぎで気が付かなかったのだ。
「お前、どうやって家の中に入って来たんだ?」
「あ、その事か。えっとね、私が家に到着した時に丁度小母さんが出てきて、通してもらったの。笑顔で迎え入れてくれたよ!」
お母さん……。
「そうか、分かった」
「うん。それじゃあリンゴ剥いてくるね!」
そう言って再び歩みを進めようとするコイツを「待て」と言って止める。
「まだ、何かあるの?」
「ああ、何か違和感がなさ過ぎて忘れていたさ」
「そうなんだ」
「そうなんだよ。それで気が付いたんだ――」
私は一拍置いて、コイツに尋ねた。
「お前、学校は?」
「……学校?」
コイツが聞き返してくる。そう、「なにそれ?」とでも言っているかの様な顔で。
「学校」
私は再びそれを口にする。
「学校……、学校だ!?どうしよう学校だよ、学校!!」
コイツは思慮し、そして自分の格好を見て、学校が有ることを思い出し、慌て始める。
「ああ、学校だな」
私は当然の様に答える。
「ねぇ、どうしたらいいかな!?」
「いや、如何するも何も、学校に行けばいいだけの話だろ。あと詰め寄るな、肩を揺らすな、コレでも一応病人だぞ私は」
私に迫って来るコイツを手で押し返す。
「うーん、学校かぁ……」
「何だ、何を悩んでいる?と言うか悩んでいる暇が有ったらとっとと学校に行け」
「そうなんだけど……」
そう言いながらチラッチラッと私の方を見る。
「私がどうかしたのか?」
「えっと……、私が居なくなって寂しくならない?」
……。
私は無言でコイツを家から追い出した。
「はぁ……」
コイツを家から追い出した私は、改めてベッドに潜り込む。
自分が風邪である事も忘れ、無理して身体を酷使した所為か、先程よりも若干ダルさを感じる。
「……おやすみ」
誰に言う訳でも無く、私はそっと瞼を閉じた。
「お父さん……」
昔、今の様に風邪を引いた。
父は丁度休みであった母に看病を任せ、「早く良くなれよ」と言って会社へ出勤していった。
「お母さん……」
しかし、私を看病してくれていたその母も会社から電話が掛かってきて、何やら外すことのできない案件の様で「ゴメンね、ゴメンね」と、私を抱きしめ、何度もそう言って会社に行っていまった。
そして私は一人になった。
「一人にしないで。置いて行かないで」
私はベッドの中で何度も呟いた。
父と母が帰ってくるまでずっと、胸の内に寂しさを募らせて……。
『大丈夫、一人じゃないよ』
誰かが優しくそっと囁く。
「……え?」
『一人じゃないんだよ』
「……誰?」
その問いかけの答えが返ってくる前に、私は温かな光に包まれ、そっと夢から覚めて行った。
「……ん……」
目が覚め、瞼を開ける。
「あ、おはよう」
「ああ、おはよ――」
ベッドの横から掛かる挨拶、それに私は答えようとする途中で止める。それもその筈、何故なら今私の内に居るのは私一人の筈なのだから。
その声の主を確認するため顔を少し横に向ける。
「あ、おはようじゃなくて時間的にこんにちはだったね。改めて、こんにちは」
笑顔で私に挨拶してくる、その主は――。
「こんにちは。そして最悪の目覚めだ」
「目覚めてからの第一声が罵倒!?」
紛れも無く、私の右手を両手で包んでいるコイツだった。
「おい、如何してここに居るんだ?」
「早退したからだよ?」
「何で早退したんだ?」
「心配だったら?」
「そこは語尾に疑問符を付けるところじゃ無いだろ」
「あはは、ごめんごめん。それで、お腹とか空いてない?空いてたらお粥とか作るけど」
その言われて私は時計を見て時間を確認する。時計の針は13時20分を指していた。
お昼過ぎなのを確認、意識した途端、若干の空腹感が私を襲ってきた。
「空いてる、食べる」
コイツの申し出を私は受けることにした。
「うん、分かった。じゃあ、ちょっと待ってて」
ベッドで大人しくしてるんだよー。と言い残して、コイツは部屋から出て行った。
「あれ、早退したのは分かったんだが、どうやって家に入ったんだ?」と言う私の疑問を残して……。
「はーい、お待たせ」
コイツがお粥の入った小振りの土鍋とコップをお盆に載せて入ってくる。
「ああ、結構待ったな」
「それが作った人に対するセリフ!?」
「いや、お前が「お待たせ」って言うから、時間的に50分位掛かって、結構待ったから言ったんだが?」
「それでもせめて、「悪いな」とか「気にするな」とか言って欲しかった」
「結構待ったが、30分ぐらい過ぎてからもう一眠りしてしまいそうになったが、40分くらい過ぎてからお腹が鳴ってしまったが、気にするな」
「どうしよう、気にするなって言われても凄く気にしてしまうような、少し申し訳なさを感じるんだけど……」
「気にしろ」
「そうする」
そう言ってコイツは近くの椅子を引き寄せ、座り、膝の上にお盆を載せる。
そしてレンゲでお粥を掬い「はい、あーん」と私の口元に持ってくる。
此処で少し話が逸れるが、コイツが作ったのは「あんかけお粥」という料理で、お粥にかつお風味のあんをかけ、その上に大根おろしをのせたものだ。
別に白粥でも良かったのだが、とは流石に作ってくれたコイツに言うのは酷く失礼なので言わない事にする。
話を戻す。コイツは何故か「あーん」としてくる。
私の「何だ?行き成り」という視線の問い掛けにも反応せず、レンゲは私の口元から動かない。
「あーん」と再びコイツが言う。
「……」と私は何も言わずコイツを見つめる。
「あーん」とめげずに言うコイツ。
「……」とそれでも私は何も言わない。
「あ、あーん」と若干腕も辺りがプルプルと震えてきて、筋力的にも危うくなってきた。
「……」しかし、私は反応しない。
「ね、ねえ?」
「……」
「分かるよね?あーんだよ、あーん。ここはあーんと口を開けてお粥を食べるのがセオリーなんじゃないかな?」
「……」
ここでコイツに言い返したい所なんだが、ここで口を開くとそこでレンゲを突っ込まれそうな気がするので、言い返さない事にする。
と言うか、何故「あーん」に固執するのか。私にレンゲを渡せばその腕の震えも治まるのだが。
「ねぇ、あーんってしようよ、お願いだから」
終いには声まで震え、目が潤んできた。
はぁ、仕方がない。
仕方がないのでレンゲを口に含む。「あ……」という声がコイツの口から漏れる。
まぁ、あーんとした訳だ。「あーん」と声には出さないが。
するとコイツは「えへへっ」と嬉しそうに笑う。それはもう満面の笑みだ。
そして、残りも全て食べさせられた私は「ご馳走様」と挨拶する。
「はい、お粗末様でした」
始終嬉しそうだったこいつは今も嬉しそうである。
「なぁ」
気になり過ぎた私は聞くことにした。
「ん、何?」
「どうやって家に入って来たんだ」
そう聞くと「あ、そうだった!!」と言ってコイツは鞄から一つの鍵を取り出す。
「はい、これ!」
そう言って私に渡してくる。
「若しかして、家の鍵か?」
「うん、そうだよ。小母さんが「お見舞いに来るならこれを使って。私はあの娘に家を開けてもらえば良いから」って私に渡してくれたんだ」
お母さん……。まぁ、お粥とか作ってくれたし、良いか。
「あともう一つ聞きたいんだけど」
「なに?」
「なんであーんなんてしようと思たんだ?」
「え?やってみたかったからだけど」
返ってきた答えは実にシンプル過ぎるものであった。
「そっか」
「そうだよ」
そう言ってコイツは「洗ってくるね」と席を立つ。「あ、そうだ。リンゴ食べる?」その問い掛けに「食べる。但しあーんは無しで」と私は答えた。
綺麗に切り分けられたリンゴを食べてる際に、ふと思いついた事が有った。
「なぁ、こうして見舞いに来て、看病してくれるのは嬉しいんだけど、こんなに長時間居て移らないか?凄く今更な事なんだけど。しかもマスクとかしてないし」
「うーん、どうだろう。でも、まぁ大丈夫なんじゃない?私あんまり風邪とか引かないしっ!前に引いたのも、引いたという事実は覚えてるけど何年前かは覚えてないし!覚えてないと言う事は、それほど前と言う事だから、大丈夫っ!」
そう言ってコイツはガッツポーズを決める。
「成程、馬鹿は風邪を引かないと言う事か……」
しみじみと、染み渡るように言葉を口にする。
「違うよっ!?私が風邪を引かないのは、ちゃんと手洗いうがいをして、風邪の予防をしているからなんだよ!しかも家に帰って来た時はイソジンでうがいしてるんだから!」
「そ、そうなんだ」
コイツの勢い迫る言動に私は少したじろぐ。
「そうなの!私は馬鹿だから風邪を引かないんじゃなくて、風邪を引かないように予防してるから風邪を引かないの!」
「う、うん」
「と言う訳で、私は帰ります!あんまり長居しても悪いので!」
「え……?」
突然の切り出しに頓狂な声が私の口から漏れる。その声には少し寂しさが感じられた。
それに気が付いたのか、コイツは先程の笑みとは違った、優しさを含んだ笑みを浮かべて、「大丈夫だよ」と言った。
「は?」
「大丈夫、一人じゃないよ」
その言葉は確か……。
『大丈夫、一人じゃないよ』
そう、夢の中で聴いた……。
「……なっ!?」
もしかしてコイツは。「お前、何時から部屋に居たんだ?」私の質問に対して、コイツは「えっとね、時計は見なかったんだけど「一人にしないで」って腕を伸ばして言ってたから「大丈夫だよ」って言って手をぎゅってしてあげたよ?」と答える。
「いや、ね?吃驚したよ。部屋に来たら寝てるのに目から涙が流れてるんだもん!!」
だから安心させなきゃ言えないと思って、ね!?と言って無駄に身振り手振りで此方に何かを伝えようとしてくる。
「ああ、分かった。分かったから安心して帰っていいぞ」
「そ、そう?本当に帰っちゃうよ?」
「どうして自分から帰るって言ったのに、態々私に聞いてくるんだ?」
「それもそうだね。じゃ、帰ります!」
「ああ、またな」
「うん、また明日!」
そう言ってコイツは部屋から出て行く、その前に「ちょっと待って」と私は呼び止める。
「どうかしたの?」
そのコイツからの問い掛けに、私はこれから言おうとする事が恥ずかしく、面と向かって言えなかったので、そっぽを向き、「……ありがとう」と言った。恐らくでも無く、体温が上がっているのが分かるので、私の顔はほんのりと赤くなっている事だろう。
私の言葉に目を丸くしたコイツだが、ふふっ、と笑って「どういたしまして」と返して部屋を後にした。
翌日、熱も下がり、私は風邪から回復した。
そして今、コイツの家に来て、コイツの部屋の前に居る。
ドアをノックし、入る。
「って、未だどうぞ―とも言ってないんだけど?」
「その前に問おう、風邪なんて引かないと言ったのは何処のどいつだ?」
「……私です」
「ほら、見舞いの品だ。有り難く思え」
「うん、ありがとう」
コイツは風邪を引いた。