戦闘中行方不明
内科の病気とは異なる、突き詰めて言えば切り傷だし、若く体力も十分。
まして都内でも最大手の濤琳大学病院が細心の治療に当たっている。
西園寺芭瑠の傷は確かに残りはしたがピンク色のすじとなっていた。
日参する後藤田は芭瑠の要求通りに彼女の個人記録を持ち込み―――ノートパソコンとUSBメモリ-だけだが―――、彼が知る限りの西園寺芭瑠をモニタ-に映し出した。
記憶の戻る一端になるならと。
「・・・駄目だな。全くの他人みたいだ。」
二週間が過ぎ、明日には退院と云うその日も西園寺芭瑠の記憶は欠片も戻ろうとはしなかった。
「焦らない方が宜しいと医院長も仰っていますよ。」
溜息と共にこぼれた呟きに後藤田は穏やかに続けた。
「これは私の私見ですが・・・辛い記憶を受け止められる時までの猶予期間と考えられた方が良いかと思います。」
落ち着いた大人の言葉は声だけでなく優しく感じられたが、芭瑠の表情はさして変わらない。
「芭瑠様。西園寺グループのお勉強は如何ですか?」
気を逸らしたのだろう。判ってはいたがそれも消えた記憶を促す別の手段になる。芭瑠はこれまでに調べた西園寺グループの履歴をすらすらと口にした。
決して少ない量では無い。設立は大正時代にまでさかのぼるのだから。
だが特に大きな岐路、三つの大戦や時代の節目、幾つかの危機と爆発する勢いで業績を上げた要因などを彼女は完全に網羅していた。
今現在の状況と西園寺家の簡単な内部事情まで。
「・・・驚きましたな。」
後藤田の顔にもそれは映っていた。
「こう云っては何ですが・・・以前のお嬢様とは別人のようです。」
芭瑠は僅かに笑った。
「多分、別人かも知れない。此処まで知識として入れたのに全く他人事なんだから。」
「いいえ。血液型もDNAも間違いなく西園寺芭瑠様です。・・・却って良かったかもしれませんね。」
芭瑠の目線を捉えて後藤田ははっきりと云い放った。
「今のお嬢様なら西園寺家でも受け入れましょう。以前の貴方は・・・野良猫と称されておりましたから。」
目白区内にある広い敷地に建つ古い洋館は決して華やかなものでは無い。が、正面玄関のある本棟の裏には幾つもの庭で仕切られた別棟がある。その庭にも四阿や華奢なテーブルとベンチが点在していた。
その内の一つは芭瑠が唯一気を抜ける場所だった。
滝のように小さい黄色の花がなだれ落ちて馥郁たる芳香を放つだけでは無く、その影に入れば滅多に人には遇わないのだ。
幾ら広大な屋敷であっても、だからこそ使用人の数は多く、過去の所業を本人はたとえ思い出せなくとも知る者も多い。
この屋敷に帰って・・・?・来た時から周囲の監視網はかなり厳しかった。
相当な迷惑を掛けただろう事は承知している。
これほどの名家で外に出来た子と云うだけでも良くは無いのに、家出を繰り返し不良と云うレッテルを貼られ、挙句に自殺を図ったのだから。
この屋敷に入って二週間が経つが未だに家族と云う人たちに会って居ない。それこそが彼女の立ち位置を如実に顕わしていた。
芭瑠が顔を合わせるのは専属らしい二人のメイドと複数いる執事の一人の宮下、そして後藤田だけだった。
(どうやら相当な厄介者だったらしいな。私は。)
二日前に何処だかの高校の転入試験を受けさせられたが、それに立ち会った教師だけが此処に来てから初めて会う外の人間だった。
『西園寺芭瑠様。ご機嫌は如何ですか?』
表情ひとつ変えない、まるで能面のような顔の背の高い男性教師は言葉だけは丁寧に尋ねたが、その夜顔を合わせた後藤田に慇懃無礼の見本だと告げると苦笑が帰って来た。
『やはり思い出されませんか。あの橋本教諭は中等時の貴方の担任です。貴方は・・・あ-、一度殴り倒した事が有ります。』
長い間をおいて彼女は呟いた。
『・・・・・・・・・・過去はそっとしておこう。』
注意深く情報を選んで見せているような後藤田に、いずれはどんな悪行を働いたのか聞こうと思っていたのだが。
(この分だと聞かない方が良いかも知れないな。うっかり掘り返すと奈落の底に落ち込みそうだ。)
想像もしたくない過去にうんざりしながら息をついた時、彼女を呼ぶ声が聞えた。
「芭瑠様・・・芭瑠様。旦那様がお呼びです。」
探して来たのではない。此処に居ると知っている声。
おそらくはこの屋敷内の何処に居ても・・・だが、芭瑠は穏やかに返した。
「此処です、いま参ります。」
さて、初めてお父様が顔をお見せになる。
父と云う名の天下人が。
芭瑠が案内されたのは案に相違して本棟では無く、そのすぐ裏に建つ別棟の小さな部屋であった。
執務を取る部屋では無いし、西園寺家当主の居間にも似つかわしくない。古く、だが何処か肩の力が抜ける其処は変わった香りに満ちていた。
(・・・あぁ、薬草・・・ハーブかな。)
ゆっくりと息を吸い込むと懐かしい、少しかび臭い匂いが呼気を満たした。
色褪せた写真の中に立って居る様だ。
古い家具。壁際の本棚も、飾り棚も、ソファも。
「ほぅ、初めての顔だな。」
視線を向けると逆光の中にシルエットが浮かんだ。
「そんな顔は初めて見る。なかなか良い顔だ。」
僅かに銀色の入った髪。長身。穏やかだが対する者には何となく居心地の悪さを感じさせる低い声。
驚いた。
もっと華のある人かと思っていたが・・・どちらかと云えばごく平凡な目鼻立ちで、眼尻の皺が優しげでさえある。とっくりと見つめて・・・・向かいのソファに座るよう促されるまでどれほどの時間が過ぎたのだろうか。
(・・・・・ああ、これがカリスマ性と云うものか。)
改めて見ても特に目を引くものは無い。だが、意識が其処に向かうのは抑えようも無い。
その本人は実にゆったりと・・・お茶を入れていた。
手伝った方が良いのか。
それでも妙に手慣れた動作に眼が止る。どうやら好きでやっているらしい。
ポットの中の茶葉が開いて行くのが見える様な、それに伴って香りが立ち上がって・・・優しい音を立ててカップに注がれた時になって芭瑠は席を立ち二人分のティーカップをトレイごと手に取った。
西園寺尚之は僅かに驚いたように芭瑠を見たが遮る事もせずゆったりと向かい側に座った。
金茶色のお茶に見とれていると湯気の向こうから声が掛かった。
「冷めないうちに飲みなさい。」
考えていたよりも穏やかな性格なのだろうか。香気の中で芭瑠は相手の顔を改めて見直す。
「私に何か言いたい事が有るか?」
茶器をテーブルに置くと芭瑠は真っ直ぐ眼を見つめて。
「ご迷惑をお掛けしました。」
黙ったままの男に続ける。
「今回も、それ以前も。幾ら記憶が無いとは言えきちんとお詫びをしようと思っていました。ごめんなさい。」
下げた頭に降りかかったのは、
「驚いたな。後藤田の報告の通りだ。」
苦笑交じりの声はやはり穏やかなもの。
「今夜の晩餐は一緒に過ごしなさい。多少はあたりは強いかもしれないが、今の君なら大丈夫だろう。」
「それが高任が西園寺芭瑠として初めて父親という者に出会った瞬間だったそうだ。」
キッドの言葉に香村は無言で額を押さえた。
立川連隊のG倶楽部に出張って来たのはフェニックス基地G倶楽部のキッドとキリー。
この決して暇ではないツートップが作戦中行方不明の一兵士の為にわざわざ出向いたのはそれが彼らの指揮下で起こった異常事態だったからだが、何より高任曹長を気に入って常に仕込んできたキッドの誠意の現れである。
それは判っている。
だが。
「つまり、高任は西園寺芭瑠とは別人と云う事か?」
香村の呟きに内藤が眉間のしわを深くした。
「意味が解りません。」
「だろうな。」
当然の様にフレアが続けた。
「誰だって疑うさ。『私は既に死んだ人間で、転生しました』なんて言われて信じる奴など居ないぞ。」
「そうだな。だが裏づけが取れた。」
低いモクの声に香村と内藤が視線を返す。
ごく薄い紙束を彼は振った。
「キッドから連絡を受けた時点で調べた事実だ。
確かに『小坂涼子』は神奈川で産まれ育ち結婚、その後二人の子供を育てて72歳で亡くなっている。当時の住所や学校名など該当箇所は多いが、死後40年以上の時間推移からして接点が有るとは考えにくいし、『小坂涼子』になる必然も無い。」
「悪かったな、モク。」
手が掛かっただろう、とのキリーにモクはそうでも無かったと応えた。
「戦争で失せた可能性もあったが、バックアップが残っていた。何より県境に近い山間部だ。」
それより、とキッドに一つしかない眼を向ける。
「お前はいつそれを聞いたんだ?」
「ああ、特区と初めて組んだ南米の後だ。アマゾンで遊んでいた時に聞いた。」
云いながら香村の前に立つ。
「済まない。私の管理下でこの失態だ。何と云って詫びても許されないが捜索は続けるから待って居て呉れ。ただ一つだけ、高任の情報だけはお前たちで抑えてくれないか?」
キッドが詫びる必要などない。
負傷や死亡とは異なるし、それさえ軍人として行動していれば一般人より遥かに高い確率なのだから。
香村も内藤も承知していた。
何より内藤は高任が消えたその場に同行していたのだ。
キッドが作り替えているアルゼンチン共和国の首都、ブエノスアイレスには年に数回国連軍の名で参加している。
今回もキッドからの依頼で香村が送り出したのは高任と内藤以下二十名。
初心者は当然いない。
フェニックス基地G倶楽部ともよく練れた連携を保ち周辺武装集団の排除に奔走していたさなかの出来事だった。
壊滅させた拠点の村を確認中、二人の部下の前で扉を出て行ったはずの高任の姿が忽然と消えた。
白昼の、特区隊員とG倶楽部員に囲まれたその中で。
「西園寺家と云えば日本の財界に名を連ねている。その三女だった高任が如何に籍を抜いたと云えども異なる人間であったとしたら・・・騒動では済まない。あれもそれを恐れて一切を語らずにいたんだ。」
キッドの視線が周囲を見渡した。
「高任の個人情報は箝口令を引く。」




