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見知らぬ過去

遅くてごめんなさい。

何時から其処に居たのか判らない。


白い灰色はまるで十重、二十重に重ねた帳のようだった。


長い時間なのか、ごく短い瞬間なのか・・・解って居るのは今のままでは何処にも行けない、動けないと云う事だった。

では、何をしたいのだろう。何処に行きたいのだろうか。


周囲は相変わらず・・・まるで柔らかなガーゼを重ねた様な薄明の中。


だが、確かに私は其処に居た。



唐突に気付いた。

誰かが待って居ると云う、確たる認識。


でも・・・・・・・・誰。


そして再びの、いや、何度目かの混沌。


その揺蕩いの中にチカリと光ったのは何だろう。


確かに今、視界の片隅に映った小さいけれど強い輝きは。

意識もせぬまま魅かれる。

気付くと身体が動いていた。


驚いた。

眼の前に現れたのは女の子。

それも十四.五歳の痩せた、痛ましい程傷だらけの少女だ。

特に手首の傷は未だに血を流し続けている。

これは止めないと・・・だが傷を押さえようとした手は弾かれた。


<止めて。>

小さいけれどはっきりした拒絶の声が響く。


<でも、このままじゃ死んでしまう。>

慌てた私の声に返されたのは。

<私は死にたいの。あの人の居る処に行きたいの。>


見上げた視線をたどれば今まで見えなかった光が見えた。

暖かい優しい光が。


<お願い、これを外して。>


視線を転じれば少女の脚に絡みついていた細い鎖が映る。それが命の綱だと教えられなくても解かってしまった。

<こんなに若いのに死に急ぐ事は無いでしょう。>


だが、少女は泣く。

泣きながら鎖の絡まる脚を引きちぎらんばかりに引いた。


<もう嫌なの。こんな処には居たくない。お願いだからこれを解いて。>

<まだ死ぬ運命じゃないのよ。今ならやり直せ・・・>

<今なら追いつける!>

あまりに強い声に顔を見ると大きな瞳が見つめていた。

<あの人に、今なら追いつける。戻ってもまた同じ事をするだけ。なら今の内に行かせて、あの人の処に。>

傷は左手首。

先に逝ってしまった大切な人を追うために自ら切ったのか。

躊躇う事無く。

こんなに若く綺麗な少女にどんな過去が有ったのかは判らないが、その意思は本物だった。

生きて居れば良い事が有るなんて気安く言える言葉では無いのは確かだった。


<・・・待って、やって見るから。>


しっかり絡まった鎖はどうしたら解けるだろうか。


だが、手にした瞬間まるで待って居たかのようにするりと解ける。

そして手に絡みついた。

この手に。


<有り難う。本当に有り難う。>

見上げた眼に映ったのは総ての傷が消え、幸せそうに微笑む少女。

頬を染めて歓喜と共にまっすぐ上へと舞い上がって行った。


そして、鎖は私を恐るべき速さで引いた。





「・・・んぱく数、血圧ともに良好。覚醒します。」

視覚より先に音が戻って来た。

僅かに眼を開くと薄い灯りの中で白い天井をバックに幾つもの顔が覗き込んでいる。


「良かった。気分はどうだね。」

年配の・・・白い服は医者だろうが・・・綺麗に髪を撫でつけた年配の男が慣れない笑顔を向けて来る。

「これで安心だ。ゆっくり休みなさい。」

恐ろしい勢いの渦に巻き込まれた記憶が疲労として残っている。

頷いた私にやや若い医師がホッとした様に呟いた。

「すぐに良くなりますよ。」

眠りに引き込まれて行く耳に女性の声が僅かに聞こえる。

「ええ、若いですからね。」

若い・・・?



騒ぎになったのは次に眼が覚めた時だった。


「安心してくださいね。この濤琳大学病院はVIPの方に慣れています。」

優しげな看護士は婦長の名札を付けていた。

「公には決していたしませんし、おかしな記者の取材など許しませんから。」

若手の看護士に指示を出しながらにこやかに笑う。

「医師も病院長の野崎を始めとした五人体制で組んでいます。傷は深いけれど何より若いからすぐに治りますよ・・大丈夫ですか。」

黙ったままの患者に問いかけるが相手は黙って見返すだけだった。


「・・・・退院までにメンタルケアもして置きましょう。吐き出してしまえば楽になります。カウンセリングでも此処は優秀なドクターが揃ってますから。ね。」

「・・・・・・カウンセリング・・・って、何の?」

反対に黙り込んだ婦長の耳に入った言葉は、

「私は何の病気・・・怪我をしたの?」

身を起こす患者を二人の看護士は止める事もせず呆然と見つめる。

重い左手首の厚く巻かれた包帯を不審そうに見て告げた。

「事故にでも有ったのかな・・・覚えが無いけど。」


息を飲んだ婦長が低い声で尋ねた。

「覚えていらっしゃらない?・・・お名前は云えますか。」

「・・・・・・・・・・・・」

沈黙は永く、大きな瞳にやがて恐怖が浮かんだ。





「出血性ショックによる記憶障害です。会話、読み書きに問題は有りません。大半の物は判別でき理解しています。生活するには困る事は無い。ご自身とご家族、個人的な過去に関しては今現在失われておりますが、これは戻る事も多いです。焦らず気長にいつも通りの生活を送れば思い出すでしょう。」


病院長を筆頭とした担当医チームが下した診断は本人ではなく、そしておかしな事に家族でも無い五十代の男性に告げられた。問われた質問に答えられない患者を病室に取り残して看護士たちが医師を呼ぶ間にやって来た男だった。


「いったい何の騒ぎで・・・ああ、気が付かれましたか。」

きちんとしたスーツ姿の冷静な顔が微笑みかけたが、相手の凝視に合うと表情が変わった。

「お嬢様、芭瑠お嬢様? いったい・・・」

「・・・誰、それは?」

男が蒼褪めた。



西園寺芭瑠、西暦2055年九月生まれの十五歳。

西園寺尚之の第五子にして三女。生母は高任愛実、一昨年病没した後に西園寺家に引き取られる。が、十四歳から家出を繰り返していたと云う。



「なんで家出をしたんだろう。」

呟いた本人に応えたのは専属の付き人を名乗る五十代の男だった。名を後藤田司。


「お嬢様のお母様はきちんとお育てになられたんですよ。家事も仕込まれて、仕事で遅いお母様の替りに食事も作るほど・・・ただ、西園寺家の家風と云うか・・・それには合わなかったようですね。」

日本の財閥五指の中に入る西園寺家では産まれも育ちも完全に浮いていたと云う。確かに五人の子供にさえそれぞれ付き人が着くと云うのは尋常では無い。


「西園寺の家に入った当初の貴方はご自分に出来る事を精一杯なさってました。普通の家庭なら当然喜ばれたに違い有りません。掃除も洗濯も・・・厨房のお手伝いまで申し出てコックが困り返って居ました。」

だが、と後藤田は眼を落した。

「貴方が西園寺家を理解できなかったように、西園寺家も貴方を理解できなかったのです。

御長男の尚紀様はお父様の後継者として広く活躍なさっています。ご長女の尚子様は京極家の御長男と、次女の尚美様はイギリス王室に連なる貴族の方とご婚約が整いました。御次男の尚志様は来春東京大学を卒業後、やはり西園寺グループの一角を担うべく道が決まっています。」

まして、と眼を上げて低く告げた。

「貴方は西園寺家の外に出来たお子で、外で育てられた。もっと幼い頃に入って居たなら問題など起きなかったでしょうが。生活基盤が全く違います。お母様は産まれも育ちも私と同じ庶民の方で、当然貴方も同じように育てられた。

あの、西園寺家の生活レベルを理解するには余程の大人か頑是ない子供でなくては・・・」

「つまり、王様みたいな?」

後藤田が初めて素の表情でクスリと笑った。

「貴方がそう云ってらした。初めて入った夜に。『まるでお姫様になったようだ。』と。お母様を失くして笑うどころか言葉も無かった貴方が初めて私に云った言葉でした。」

「あの・・・」

言いよどんだ少女に男は優しく促す。

「私の事はどうか後藤田とお呼びください。さんも君もお付けにならずに。」

頷いて左手を上げる。

「これは何?」

一瞬の沈黙。

だが、男は静かに口を開いた。

「三度目の家出の折、貴方は有る男性と出逢ったんです。それまでの貴方は・・・良く云っても不良少女でしたが、その男性と知り合ってから変わられた。とても善い方に。それを知ったお父様は『野に生きるならそれも良い、今のままでは苦しいだろう。』そう仰っていらしたんですが、不幸な事故でした。男性のバイクが大型トラックと・・・即死です。それを知った貴方は手首を切りました。」

表情ひとつ変えずに聞いている少女に男は僅かに身を乗り出した。

「本当なら記憶の無い貴方には告げない方が良い事でしょう。それで過去が戻れば辛い思いを又しなくてはならない。ですが。どんな過去でもそれは貴方の物だ。周囲が知って居て貴方が知らないのはおかしい。」

長い時間ふたりは黙ったままだった。

少女は何を思っているのか。男は少女の表情を食い入る様に見つめていた。

やがて。

「貴方は私の事を良く知って居る。」

それは質問では無く確認だった。

「はい。お母様が御病気になってすぐ、貴方の付き人となるべく決められましたから。勿論、貴方が知ったのはご葬儀の折。貴方をお迎えに参じた時ですが、それ以前から私は貴方の近くに居りましたよ。」

チラリと腕時計を見て男は立ち上がった。

「お疲れでしょう、続きは明日に致しましょう。」




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