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叔父の行方

「またお前らか、この時期に良くそんな元気が有るな。」

教員棟の便器を磨く神崎に声が掛かった。

「今日は独りです。」

間違いを訂正された二年生の担当教官は首を捻った。

「相方は無しか、終わるのか?」

そんな事は知らない。

真面目な顔で、真面目な声で、理論整然と人をこき下ろした朝倉に飛び掛かろうとした神崎は飛び掛かっても居ない間に便所掃除の罰則を喰らってしまった。

周囲の五人がかりで抑えられ、抑えていないクラスの連中の必死で笑いを堪える姿を見ながら唯一自由になる口で怒鳴った言葉のせいで。

『ほざきやがったな、この野郎! やってやろうじゃないか! 吠え面掻くなよこのクソガキが!!』

クソガキは自分の事だと承知している。

高橋に云われるまでも無く投げ出していたのも自分だった。

ましてや担当教官の指導にも従えないなら軍人など務まる訳が無い。

間一髪で救ってくれた朝倉は決してガキでは無かった。


「くそったれっ。」

思わず出た声に返事が返された。

「そりゃ気の毒だ、便器に罪は無い。」

見上げた先には雑巾を持った朝倉。

「何をしに来た、これ以上の助けは要らんぞ。」

唸るような恫喝が自分でも嫌になるが、その言葉を全く無視して朝倉は隣の便器を磨きだす。

「何だ、気づいて居たのか。まるっきりの馬鹿じゃないな。」

呆れるほどさらりと言われて頭が冷えて行く。

溜息と同時に出た言葉は珍しく素直な物だった。

「・・・いや、俺は十分馬鹿だ。」

「いまさら何だ、便所掃除が特技な段階でお互い馬鹿は決定だろ。それよりスピードアップしようぜ、班長。腹を減らして寝るのは御免だ。」

「・・・お前、本当に女か?」

「まったく残念な事に女だ、母ちゃんもがっかりだ。」

意味の解ら無い事を云いながら朝倉の手が素早く動いて行く。

見る間に綺麗になって行く便器だが、順番待ちを多く残していた。

最上階の三階のトイレは使用頻度が少ないため一か所しかないが、辿り着いた時点で食堂の閉鎖時間10分前となっていた。

入口に立ったまま朝倉が呟く。

「なぁ神崎、此処は綺麗だよな。」

「・・・ああ、磨き上げた様に綺麗だな。」

多分どちらも同じ事を考えていた。

腹を減らして寝るのは必要以上に情けない気持ちにさせられる。

「じゃぁ・・・ばっくれるか?」

朝倉に答えたのは神崎では無かった。

「ばっくれるな。」

後ろからの声は恐ろしくてすぐには振り返れない凄味が有った。

普段は聞かない声、だが一度聞けば絶対に絶対に絶対に忘れたくても忘れる事が不可能な声だった。

ぎくしゃくと振り向くと其処には・・・やはり・・・

「校長に礼。」

カツっ、と踵を鳴らす筈がズック靴では無理が有る。それでも二人は揃った綺麗な礼をとった。

真っ直ぐ伸びた背中、正面に向けた視線、左手の雑巾は笑えるが陸軍短期大学 伊達校長は表情ひとつ変えずにそれに応えた。

「お前らのケツより綺麗に磨き上げろ。終わらせたら報告に来い。」

叩き上げの貫録を十二分に発揮しての言葉に猿と犬の答えは一つしかなかった。

「はい!」

校長が消えると二人は我慢していた用を足すよりも凄い勢いで便器に飛びついた。

まさか此処であのおっかない鬼曹長とでくわすとは思いもしなかった二人の一年生は、もはや食事も悪態も忘れて一心不乱に便器磨きに取り組んだ。


入学して僅か三日のうちに一年生全員に驚くべき速さで伝わった噂は大半が伊達校長の逸話、戦前から戦中、戦後に至るまでの華々しくも恐ろしい伝説は、話半分に割り引いたとしてもガキ共をビビらせるには十分だった。

『定年までに育て上げた士官下士官は万単位だと。』

『今の軍司令部も頭が上がらないそうだ。』

『副校長以下の全教官には曹長と呼ばせてるらしいぞ。』

『戦時中は立川連隊の旗を護って練兵場で仁王立ちしてたと聞いた。』

『それって弾が避けて飛んだ時の話だろう。』

『弾が避けたのは南米だろ。』

『特殊部隊も創ったそうだな。』

『・・・あ、あれって本当なのか?』

『あれって・・・G・・?』

『しっ、口に出すな。行方不明者リストに乗りたいのか。』

多々ある噂話がただの噂で無い事は教官たちの態度が示していた。

滅多に表には出て来ない校長だが、神崎朝倉の超絶おっかない担当教官でさえも校長にはきちっとした礼を執っている処を見ていた。

何と云ってもこの二人は生徒が立ち入る筈の無い教員トイレに常々出入りしているのだから。


「やばいな、まさか出くわすとは。」

「明日の便所掃除も覚悟して置こう。」

「ああ・・・」

気落ちした溜息と共に出た声は間違ってもクラスの仲間には聞かせられない物だった。

どの棟、どの便所よりも丹精込めて磨きに磨いたトイレを後にして二人は校長室のドアを叩く。

どれほど怖くてもどれほど嫌でも直接言い渡された報告義務は果たさなくてはならなかった。

唸るような応答にドアを開けると・・・

(ごめんなさい、母ちゃん。もう大人を殴ったりしません。)

(お母さん、助けて。)

其処に居たのはおっかない伊達校長。

そして、超絶おっかない森田担当教官だった。

思わず浮かんだ内心を隠した二人の清掃業務終了の報告を聞いた校長が頷いて手招きする。

(うわぁ、いやだなー。)

ひたすら無表情を保って中に入ると担当教官が前に立った。

「神崎はともかく、朝倉には命じて無い筈だ。此処で何をしていた?」

感情を消した低い声と表情は、(生まれてから一度も笑った事が無い)との噂をも納得さる。

「はい。神崎一人では一晩掛かりそうだったので手伝いました。」

「誰が命じた。」

温度がまた下がって一気にマイナスまで落ち込む。

「命じられてはいませんが止められても居ません。」

横の神崎が蒼褪める。

生徒同士なら大概の暴言は許されているが、自分たちの担当教官は教官に向かっての言葉使いには実に細かい規定を設けている。

朝倉の自爆は止めなくてはならない。

「教官、朝倉に手伝って貰ったのは自分です。申し訳有りませんでした。」

「神崎・・・」

「お前は黙れ。教官、明日は自分一人で片付けます。」

森田担当教官のひとつしかない眼が神崎を見つめて呟いた。

「そんなに便所掃事が好きだとは知らなかったが、今の段階で命じる気は無い。その代り校長の夜食のお相手を務めろ、二人ともこれは命令だ。」

(絶対イジメだろ、それ以外に無いだろ・・・)

何が悲しくて怖い親父が夜食を喰う処を眺めなくてはならない。

ましてこちらは腹減りまくり状態なのに。

仮面の様に表情を固定したまま、それでも二人は鬼親父の後に続いて隣の部屋に入った。


広いテーブルに用意されていたのは実に良い匂いのするカツカレー、サラダとセットで二人分だった。

こんな時間に夜食を喰うか? 

しかもカレーを。

まして大盛りを。

「多いな、森田教官食えるか?」

何でこの校長は熊のように唸り声で話んだ。

「いえ、見ただけでモタレますな。」

「俺もだ。それでもせっかく用意したものだし・・・其処のガキども、これを片付けて行け。」

神崎にも朝倉にも熊語は難しいが担当教官の通訳が入った。

「有難く頂戴しろ。喰いたくないなら構わんが。」

「戴きます。」

即答したのは朝倉、当然神崎もそれに倣った。

この時ばかりは神崎も朝倉を習ってきちんとした挨拶を告げて実に綺麗に食べ始めた。

横目で見ると担当教官が校長に珈琲を淹れて渡している。

宿舎の食堂では決して拝めない厚切り肉は揚げたてで美味い、夢中で喰う朝倉と眼が合った。

初めて見る嬉しそうな顔に思わず神崎も笑い返していた。

至福のひと時が過ぎて、

「御馳走様でした。」

手を合わせて締めくくり席を立とうとすると教官がふたりを止めた。

「校長がお前達の話を聞きたいそうだ。消燈時間には間に合わせるから座れ。」

こうなると腹の括りが良いのが朝倉だった。

背筋を伸ばして座ったまま真っ直ぐに校長を見つめている。

「朝倉か、ご両親はご健在か?」

「はい、息災です。」

「君は兄弟は居るか?」

「母が子供を拾うのが趣味なので義理の兄弟はたくさんいますが、私が産まれてから母が患ったので両親の血を引くのは私だけです。」

神崎には意味の解らない会話であるが校長と担当教官には理解できた様であった。

「今はお元気なのか?」

担当教官の問いにまた判らない返事が返った。

「はい、異常に元気で父や周囲を振り廻しております。」

何とも云えない沈黙が流れる。

チラリと見た担当教官の表情は何かを堪えているような気持ちの悪い物であった。

それを切り替える様に校長が神崎に尋ねた。

「神崎、君の叔父上は立川連隊所属の軍人だと届けられていたな、今は何処におられる?」

「判りません。私が二歳の時に入隊しましたが、一年戦争時に戦闘中行方不明の知らせが最後でした。」

担当教官が聞いた。

「姓名は?」

「はい、神崎悠里です。」

隣の朝倉がピクリと反応した。

無理も無い、朝倉の名は悠里。読みも字も同じだから。

「神崎、お前がもし軍に入るなら反対意見は多いだろうな。」

これにはすんなり答えることが出来た。

「いいえ、父は・・・叔父の行方を知りたいと考えています。祖母の体調が思わしくありませんので。」

なるほど、と呟いたのは担当教官、黙ったままの校長はやがて二人を解き放した。


「なんだか疲れたな、あれは何だったんだろう。」

宿舎に帰る道で呟くと朝倉は神崎の顔を見返した。

「お前、叔父さんを探しているのか?」

「・・・探せるとは思わない。実を云えば所属も階級も判らないんだ。親父が問い合わせたけど極秘任務とかでシールされていると云われた。」

「ばあちゃん、病気なのか。」

珍しい程小さな声だった。

「ああ、多分来春まではもたない。歳だから癌細胞の進行は遅いが、俺がもたもたしてたから・・・責任は感じてる。」

黙った朝倉に何故話そうと思ったのか。

「俺は軍人になる気は無かったんだよ。大学を出て就職も決めていたんだ。ただ・・・笑うなよ。」

真顔の神崎につられた朝倉がこくりと頷くと、

「ただ、噂を聞いたんだ。陸軍特殊部隊G倶楽部の。叔父は体格も良いし頭も良い、しかもめっちゃ強かったらしい。親父は悠里なら其処に入ってもおかしくないと云っていた。俺が其処に入れば叔父の行方が多少でも判るかもと考えたのは確かだ。時間的に無理が有るのは解かって居るが、長い人生の少しぐらい割いてもガキの俺を可愛がってくれた婆様に最後ぐらいは良い思いをさせてやりたいと思った。ずっと末の息子の帰りを待って居るのを知ってたし、楽な人生じゃ無かったからな、婆様は。」

でも、と続ける。

「今の俺じゃ厳しいな、便所掃除の係りだし・・・」

朝倉は何も言わなかった。



九月一日からの新たな班編成は気味が悪い程巧く作動していた。

朝倉が喧嘩上等を封印しているからだと全員が云い、朝倉も憮然としながらも認めている。

神崎班は遊撃班らしく脚も利くし銃撃にも強い、何より防御は鉄壁だった。

神崎の出す指示に反応は速く大概それは朝倉が先頭切って従ったからだろう。

班を二手に分けても片方を朝倉が見れば見事な連携が取れるし、少ない手勢を割いてもバックアップを欠かさない指示出しや広範囲をカバーする朝倉の技量は群を抜いている。

まして事細かにフォローして自然メンバーもつられる様に腕を上げて行った。

十二月末の冬休み前には恒例の対二年生戦が行われる。

これが学校行事、一般大学の学祭と聞いて笑ったのは神崎と朝倉だけだった。


真夏の暑さが無くなって短い秋の半ばの頃には身体も馴染んだのか、そう簡単に顎を出す事も無くなっていたし班としては最良のコンデションになりつつあった。

「神崎と朝倉が揉めなければ大概うまく行くんだよ。」

森の言葉に頷いたのは遠藤だった。

「最近はおとなしいな。恒例の便所掃除も無いから教員棟から問い合わせが来たらしい。朝倉は元気かと。」

笑いが上がった。

「奴の手は速い、俺もそこそこイケると思うが便器磨きでは一歩譲るな。」

「超過勤務で鍛えた腕か。」

「でも最近は鈍っただろう。」

神崎が笑った時だった。

「朝倉は居るか?」

振り返った先には森田担当教官・・・と見知らぬ二人の男。

だが、その濃紺の制服を知らない者は居ない、例え一般人であっても。

陸軍関東地区司令部付特務機関 軍隊憲察部、俗に軍憲。

日本陸軍の内部調査を取り締まる公的機関で、一年戦争後に新たに発足したそれは容赦ない取り調べで名を馳せていた。

「朝倉は?」

声も動きも止めた学生たちに担当教官は再度訪ね、神崎に眼を向ける。

「シャワーです。」

云った傍から後ろのドアが開き女子学生が数人入って来る。

「朝倉、来なさい。」

感情のこもらない声が何時もより冷たく聞こえる。

「はい。」

軍憲の姿に静まり返っていた教室がざわめく中、神崎の眼は朝倉では無く軍憲の二人に注がれていた。

森田担当教官どころでは無い冷たい眼差しが朝倉を捉え視線を離そうともしない。

「教官。 朝倉が何をしたんですか。」

神崎の声は無視された。

「教官!」

「黙ってろ。」

それは朝倉。

「すぐに帰る、後でノートを貸せよ。」

不思議な物を見た。

軍憲の一人が朝倉に近付くとその両手に手錠をはめる。

何が起こったのか理解できない内にもう一人が朝倉の机の中身を手荒く袋に詰め込んで行く。

「朝倉・・」

「大丈夫だ。」

あの喧嘩っ早い朝倉が奇妙に静かに答えたがそれを圧して、

「朝倉悠里、反政府活動の疑いで取り調べる。以後の発言は証拠としてみなされる、黙っていた方が良いぞ。」

手錠を掛けた男が冷ややかに告げ朝倉はそのまま連れ去られてしまった。

「教官・・・何で・・・」

森田担当教官の眼にはほとんど憎悪の様な光が浮かんでいたが固く喰いしばった唇から出た言葉は、

「自習していろ。」

言い捨てると踵を返して出て行った。


自習どころでは無い。

湧き上がったのは怒りと憤怒。

神崎班は特に血相が変わり軍憲を罵り倒した。

「おい、俺達は軍憲なんか関係無いだろ。」

「そうだ、まだ学生に過ぎないんだ。入隊もしない内に軍憲のクソが手を出せるはずが無い。」

「何で手錠なんか掛けるんだ、ふざけるなよ。あれじゃ罪人扱いじゃないか。」

「横暴すぎるぜ。朝倉はまだ未成年だぞ、クソ野郎どもが。」

「神崎、何とか云えよ。これからどうするんだ。」

「森田教官が動いた、今は騒がず様子を見よう。」

それに被さったのは高橋の声。

「反政府活動と云ったな。当分帰れないぞ、政治犯扱いじゃな。」

何処か嘲る響きを込めて続けた。

「おかしいと思ったんだ、あんなガキには釣り合わない腕だし、高校では習うはずの無い軍史を網羅している。

緩い日本とは違って他国では諜報活動に当たり前に子供や女を投入するしな。」

「高橋!お前、何を云ってるのか判ってるのか!」

「馬鹿を云うな!! 朝倉をスパイ扱いするな!」

森と遠藤の怒鳴り声にも高橋は余裕で笑う。

「神崎、お前なら判るだろう。奴が尋常じゃ無い事ぐらい。あれが高校卒業したばかりの小娘の力量か? 徹底した教育を受けたからこその実力だろう。今までのバカ騒ぎも単なる目くらまし。なあ神崎、お前利用されたんじゃないのか?」

「つまりお前は朝倉は敵だと云うのか?」

それは酷く冷静な声だった。云った本人さえ驚く様な。

勝ち誇ったように高橋が告げる。

「すぐに解かるさ。軍憲の取り調べで落ちない奴は居ない。」

背中がひやりとした。だが、

「俺はそうは思えない。朝倉は俺達の敵にはならない。」

「根拠は?」

「無いな、ただの感だ。」


以前のように神崎は独りで教員棟へ赴いた。

誰からも命じられた訳では無いが、迂闊な話の漏れやすいのも便所ならではだと一人で笑い、後は集中して便器を磨く。

確かにそれは見慣れた光景であっただろう。

黙々と掃除をする神崎を誰も気にせず今日の一大ニュースはダダ漏れ状態だった。

軍憲が何故朝倉に眼を付けたのか、何故反政府活動と云い切ったのか、はたまた朝倉個人の過去と未来から周辺のプロフィールに至るまでを、あくまで噂の域では有ったが聞き取るには大した時間はかからなかった。

噂には当然尾ひれが着く。

それを取り去って事実を確認するには三階の便所が一番だろう。

張り込む積りは無かったがおかしなもので申し合わせたように鬼曹長(校長よりは似合っている)が実に堂々と入って来た。

堂々と用を足し、堂々と手を洗い、おもむろに直立不動で待機していた神崎に向き直った。

「どう思う?」

神崎は直立不動のまま答えた。

「在り得ません。」

笑った顔もおっかない。

が、頷いて一言。

「では動じるな。」

堂々と退出する背中が朝倉の潔白を信じていた。

(これで良い、奴はすぐに帰ると云ったんだ。)

今の神崎には何の力も無いが信じて待つのなら出来る。

いまさら噂に振り廻される気にもならない神崎だった。


宿舎に帰った神崎は全くいつもと変わらない態度を貫いた。

午後の講義が軒並み自習となったので日課としている予習をガッツリ詰め込み、その後二か月を切った学祭もどきの陸短名物一年生対二年生のフラッグ戦に備えて地図を前に作戦を立てて行く。

食堂も休憩室も廊下まで大半の一年生は朝倉の有る事無い事を騒ぎ立てていたが、神崎はノックの音が聞こえるまで気にもしなかった。

「おい、どうする。」

それは森と遠藤。

如何にも不安げな表情に神崎は落ち着いた眼を向けた。

「どうもこうも無い、朝倉が本当に諜報員なら此処に来るのはおかしい。軍は18歳から入れるんだ、陸短で二年も時間を潰すはずが無いと思うがな。」

「ああ、確かにそうだな。」

「学生じゃ情報も無いしな、軍内部の話なんて噂程度にしか耳にしないよな。」

「それに喧嘩上等の爆弾女のキャラならそれで通せばいいのに、真面な仕事まで見せつける必要は無いだろう。高橋が云ったような高い能力はふつう隠す筈だ。」

納得がいったのかふたりは頷いた。

「あれだけ喧嘩して来た俺が云うのも可笑しなものだが、あの喧嘩騒ぎで救われた処も有るんだ。四大出ての陸短は変わり者にしか見えないだろう、いちいち家庭の事情を云う気にもならんしな。本気でむかっ腹立てての殴り合いはお前達との壁もいつの間にか壊していたしな。」

「結構楽しかったぜ、次は何時だと賭ける奴も居た。」

遠藤の言葉に肩を竦める。

「奴も浮いていた。俺を引きずりこんだのが手段なら確かに諜報活動も勤まる頭だが、其処まで目立つことは普通はしないと思う。」

「結論は?」

遠藤から森を見て笑って告げた。

「ただのお騒がせのクソガキだ。」

ふたりの肩から力が抜けた。

「今の台詞は黙って居てやるよ、又騒動になる。」

遠藤の言葉に神崎も笑って頷いた。



翌日、一限目の講義に森田担当教官は現れず、代理の教官が立ったがやはり何処か落ち着きが無く、クラス内も浮き足立っていた。

二限目が始まる前、高橋とその一党はこれ見よがしな態度を隠そうともせず、特に神崎に対しての物腰も横柄を通り越した物だった。

「神崎、相方が居ないとおとなしいな。」

「喧嘩相手でも仲は良かったからな、この頃は。」

「よせよ、それじゃ神崎も奴の仲間と疑われるぜ。」

「クラスに一人で十分だぞ、あんなものは。」

吐き出すような言葉に答えたのは、

「あんなもので悪かったな。」

ドアの向こうに朝倉が立っていた。

「よう、待たせたな。今日の一限目は何だっけ?」

全くいつもと変わらない表情、言葉に神崎でさえ眼を見張った。

「どうなったんだ、取り調べは。」

クラスの全員が聞きたい質問を代表して神崎が尋ねたが、

「・・・どうもこうも、最低の奴等だぞ軍憲は。勝手に引っ張って置いて飯も呉れないし、ふつうカツ丼出すだろ、カツ丼を。馬鹿野郎の集大成だぞ、それこそあんなものって奴だ。」

「いや飯の話じゃ無くて・・・」

思い出したように怒り出した朝倉に冷静な声が掛かった。

「朝倉、授業を始めるぞ。お前の為にこれ以上の遅れは出せないんだ。」

森田担当教官が疲れ切ったようにドア口に凭れていた。

神崎を初めとして全員が思い至った。

救いの神は森田担当教官、きっと軍憲と渡り合って可愛い生徒を救ったのだろう。

ごめんなさい、怖いだけが取り柄とか思ってて。

50歳のオヤジでも何て頼もしく見えるのか。

まるで後光がさして居る様だ・・・

「教官、有り難う御座います。」

神崎の言葉は実にすんなり出され遠藤たちも、

「ご迷惑を掛けました、有り難う御座います。」

うるさそうに手を振る仕草さえ大人の魅力が山盛りだった。

それなのに、

「教官、朝倉の嫌疑は晴れたんですか。自分はクラス内に不安の種を残したくは無いです。」

高橋の声はことさらスパイ容疑を強調している。

「仮にも軍憲、これほど早く容疑者を放すとは思えません。まして反政府活動ならば余計に。まさか裏取引とかじゃないで・・・・」

「授業を始める。」

誰もが従わざるを得ない響きを持った声に高橋は口を閉ざしたが、朝倉を睨み付ける眼が何時までも神崎の記憶に残った。

次を狙っている、そんな予感が有った。



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