Macao night
明日には帰国となる夕方、宿舎にやって来たのはサントス。
「お礼をして無かったから。」
そう云って差し出したのは粗い布に包まれた塊。
「あんたのお蔭で此処で暮らせるし、村まで付き合ってくれたから・・・俺が造ったチーズなんだ。こんな事しか出来ないけど良かったら喰って呉れ。」
お礼をしてもらえる様な事なんか何一つして居ない。
こんな事をされるようなことは何もして居ない。
黙り込んだダンテの手にそれを押し付けてサントスが呟いた。
「日本は良い国だと聞いた。ターニャには今度は日本に生まれて欲しいよ。」
何一つ返す言葉の無い男を置き去りにしてサントスは自分の宿舎に帰って行った。
「おい、どうしたんだ。」
妙に偉そうな、だが何処か幼い声は振り向かなくても判る。
だが眼を上げてダンテは薄闇が降りているのに驚いた。
かなりな時間ぼんやりしていたようだ。
「大丈夫か、お前。ホームシックにでもなったのか?」
明日帰国するのにホームシックも無い物だ。
「いや、色々と考えていた。」
苦笑しながら答えるとフレアが呆れたように呟く。
「こんな処で考え事か、呑気な奴だな。まあ良い、母ちゃんが呼んでるぞ。一緒に飯を喰えと云っていた。」
勿論異存はない。
キッドの料理はやはりメチャメチャ美味かったが、驚いたのはサントスの造ったチーズが絶品だったことだった。
「良いのか、これはお前が貰った物だろう。」
と尋ねながらもフレアもキリ-も当然キッドもぱくつくほどの味だった。
「持って帰る訳にも行かないし、俺が貰うのもおかしいだろう。サントスを救ったのは俺じゃ無い。」
それはフェニックス基地のG倶楽部だ。
キッドとフレアの進言を聞き入れた基地司令キリ-が下したのはサントスを畜産に回す決定だった。
今では一人になってしまったサントスにせめて好きな仕事をさせてやろうとの温情だった。
「俺は何もしていない。」
呟いたダンテにフレアが返した言葉は酷く怜悧なもの。
「今のお前に出来る事は多くは無いだろうな。だが、明日のお前には出来る事が有るかもしれない、来年ならもっと、再来年なら更に多くの事が出来る筈だ。今の自分の力の無さを知っただけでも良かったんじゃないのか。」
そう云いながら最後のチーズに手を伸ばしてにやりと笑った。
「サントスにチーズを造らせよう。これなら金になるぞ、母ちゃん。」
「いい考えだな。投資しても損は無さそうだ。」
「軌道に乗れば輸出も出来る。サンプルをディランに送って見るか。」
真面目な話の筈が何処までも商売絡みになるのは今ではダンテも慣れてしまった。
そう云えばフレアとの出会いは最悪だったなと今更ながら思い出して苦笑したダンテに、そのフレアから声が掛かった。
「この間フェニックス基地研修でサントスに会って来たぞ。」
やっぱり納得いかない、これほど以心伝心の筈なのに。
「元気だったか? チーズは製品化されたんだろう?」
隣のマシンでアップに入りながらフレアが頷いた。
「欧州には輸出する予定だがちょっと揉めてる。日本はまだだな、安全性だの添加物だのと小うるさい事ばかり言われるとぼやいていたがチーズはやっぱり美味かった。お前に宜しくだと。」
使っていたダンベルをフックに戻してダンテはおもむろに身を起こす。
「土産は? あのサントスの事だ、宜しくだけじゃないだろう?」
ダンテの言葉を全く無視するフレアに替ってモクが応えた。
「ああ、あれはダンテのぶんだったのか。ひとつ余っていたから、悪いな二人で喰わせて貰った。」
「・・・・・・・・・・フレア。」
返事の無い処を見るとこいつは確信犯だ。
横でニヤニヤ笑うオヤジもグルに決まっている。
「覚えてろよ、食い物の恨みは忘れないからな。」
フレアの眼がダンテに向けられた。
謝るのかと思いきや・・・
「仕方が無いだろう。あれから今まで取って置く訳には行かなかったんだし、黴が着いたらサントスに悪いしな。」
ニンマリと笑って、
「前より美味くなってたぞ、ディランもびっくりしていた。」
「確かにあれなら売れるな。俺も気に入った。」
ロリコンオヤジが妙な真顔で続ける。
「日本は欧州に弱いから向こうの日本人に広めれば道を付けられるぞ。ディランに云ってまずはドイツ、フランス辺りに流行らせろ、安く売るんじゃなく高くして勿体をつけた方が良い。」
フレアの顔がぱっと輝いた。
「そうか、富裕層を狙えば良いのか。そう簡単に手には入らないと思わせるんだな・・・それなら、なぁ。」
「九龍島だな。」
思わず出た言葉にフレアとモクは二人してダンテの顔を見た。
「ナイスだ、たまには良い処をついて来るじゃないか。」
「まったくだ。」
褒められてもちっとも嬉しくない。
ダンテの内心もお構いなしに二人は嬉しそうに笑っている。
(まったく、やれやれだ・・・)
サントスのチーズで盛り上がった三日後だった。
「マカオで日本外交官が消えた。」
ロブの緊急コールで集まったG倶楽部員達の耳に届いた第一声がそれだった。
表情を消した顔触れを見ながらナイトが補足して行く。
「木村祐一、48歳。日本時間で二日前マカオ入りをしたがその直後から連絡が取れない。荷物はホテルに置かれたままでフロントの目撃証言では薄いアタッシュケースを持って出たそうだ。」
「マカオは仕事か?」
ダンテの問いに応えたのはロブ。
「プライベートだ。この三年は年に二回の割合で行って居るらしい。」
と、ロブの眼がバルーに向けられた。
「調べてくれ。」
「承知。」
捜査に掛けてはバルーの右に出る者は居ない。
実に丹念に調べつくすが荒事には不向きだ。勿論一般兵士よりは高い戦闘レベルには有るのだが・・・ダンテの眼に映るのは彼より二年先輩のほっそりした体格と静かな表情だった。
「俺も行きましょうか。」
バルーは僅かに首を傾げたがやがて横に振った。
「状況を掴んでからで良い。動くなら一人の方がやり易いしな。目途がついたら呼ぶから待機して居て呉れ。」
頷いたダンテに替ってモクが告げた。
「九龍島に話を通して置こう。マカオはお膝元だし、いざとなれば手を貸して貰える。」
戦後の立川連隊G倶楽部の弱い部分は確かに幾つかあるが、中でも致命的だったのが九龍島は李家との繋がりに希薄な事だった。
李家の珀龍、蒼龍兄弟はキッドとキリ-とは立場を超えた付き合いをしていたと云う。
噂では珀龍はフェニックス基地のイヴに求婚し(振られたらしいが)、蒼龍はあのキッドを愛する余り独身を通していると云う。
余程の変わり者に違いないが、それでもあの李家を取り込めた人間が軒並みフェニックス基地に居座っている以上、立川連隊は当然蚊帳の外に置かれていた。
それが今期に入ってフレアが入隊し、遥か昔だがひと月以上の長い期間、珀龍のエスコートをしたと云うモクが復帰した事で九龍島との付き合い方に変化が出たのは歓迎できることだろう。
マカオに飛んだバルーを見送ってダンテは日本での調査に取り掛かった。
木村祐一は外交官として長いキャリアを持っていた。
特別な力量が有る訳でも無いが、そつの無い外交手腕と穏やかな性格の持ち主らしく悪い評判は全く出て来ない。
若手と呼ばれる頃から地道で粘り強く、中堅の今に至ってもその姿勢を貫いて来ている。
「おかしいな・・・」
何処をどう取っても問題など出て来ない。
公で問題が無いのなら私事か、もしくは犯罪に巻き込まれたかしかない。
考えながらも木村祐一の私生活を調べようとした矢先、モクに呼ばれた。
「リオウを連れて行け。もし荒事になったならお前とセットで出す予定だ。奴も知っておいた方が良い。」
驚いた。
ダンテが木村祐一を調べているのは特に指示されての事では無い。
元々がこまめなダンテの性格がさせている事だった。
ロブもモクも忙しく動いているし気がついているとも思えなかったのだが。
「お前の事だ、バルーのバックアップに入る心算だろう。」
薄く笑ったモクの言葉にダンテは頷いたが、
「リオウで良いんですか?」
モクがリオウを良く見ている事は気づいて居た。
そして担当伍長の眼からしてもリオウが只者では無い事も判っていた。
だが、それに応えた男は一つしか無い眼で平然と笑って見せる。
「問題無い。」
モクが自分の知らない何かを知って居るのならダンテに異存は無い。
そしてわずか三日で調べ上げた結果に、ダンテとリオウのみならずG倶楽部総てが驚く事となった。
木村祐一は未だに国交を閉ざした隣国、韓国の三世だったのだ。
「二世なら幾らでも裏は取れるが、さすがに三世となると厳しいな。」
だからと云って諜報員とは限らないが、その事実を隠していた背景と妻子の無い状況に薄いグレーは濃さを増した。
「ダンテ、リオウ。バルーの支援として出てくれ。俺からも情報は送るがバルーの身が心配だ。」
「承知。」
速攻で動き出したダンテ達では有ったが一足遅かった。
バルーに繋ぎを着けようとしたトーイが蒼褪めた表情で首を振る。
「連絡がつかない。」
端末は切れたままで滞在するホテルにも昨夜から姿を現さないと云う。
当然マークも途切れたままになっている。
緊張を破って立ったのはモクだった。
「トーイ、九龍島に繋げ。」
モニターに映ったのはモクでさえも久しぶりの顔、蒼龍の年相応に落ち着いた怜悧な表情だった。
『これは久しいな、復帰をしたとは聞いていたがなかなか貫禄が出て来たじゃないか。』
「ああ、お互いにな。早速だがマカオに飛ばした手が消えた。」
今までの状況を余す事無くモクは話した。
「ダンテとリオウを出すが援護を頼みたい。」
画面の中で蒼龍が笑った。
『全くキッド並みに人使いが荒いな。まぁ仕方が無い、幸いな事に珀龍も今日には帰国するから俺が動ける。任せてもらおうか。』
「宜しく頼む。」
通話が切れたと同時にモクの手はフェニックス基地を呼び出す。
やはり一連の事情を話し九龍島に援護を頼んだ事を付け加えるとキリ-が頷いた。
『良い判断だな。此方も動ける者を手配しよう。G倶楽部は仲間を見捨てないからな。だが、モク。あんたは出るなよ。』
モクの顔が不審そうになるのを見てキリ-は笑った。
『此処で死なれちゃかなわんからな。』
「・・・・・馬鹿を云うな、今更そう簡単に死ねるか。」
『どちらにしろ若手に経験値を積ませる方が良い。ダンテとリオウなら問題ないだろう。』
通話が切れてからもモクの苦い表情はそのままだった。
「ダンテ、リオウ。頼んだぞ。」
「承知。」
飛び出していく二人を見送ってフレアがモクの隣にやって来た。
「何時でも出れるようにして置こう。」
低い声は他の誰にも聞こえなかった。
木村祐一の色は今や濃い灰色に限りなく近づいていた。
ダンテとリオウがバルーのホテルに入ったのはマカオに着いて直ぐ。
其処に残っていたのは荒らされた室内。顔色を失った二人の背中に声が掛かった。
「ほう、これは大事だな。」
振り返った先にはモニターで見た顔。
九龍島は李家の蒼龍が其処に立っていた。
挨拶もそこそこにダンテは室内を指示した。
「木村祐一を探すのが先決になりそうです。バルーはその先に繋がる筈。」
「確かに。俺の調べでは木村祐一はマカオから出てはいない。勿論バルーもだ。手の者を放ったから直に足取りは知れる筈だ。」
年の頃はモクと同年代だろうが一見すると若く見える。
歳相応の仕立ての良いスーツに包まれた身体はやはり鍛え込まれて・・・此処で初めて気が着いた。
隣に立つリオウに眼を向けると・・・ダンテの無言の問いに僅かに頷いて肯定を示す。
「なるほど良い感だ。」
落ち着いた蒼龍の声が続いた。
「キッドもキリ-もモクからもお前の守備範囲は広いと聞いていたからな。ダンテ、甥が世話になっている礼を云おう。珀龍からも宜しくとの事だ。」
顔はそれ程似ていない。
だが並んで立った雰囲気はまさに近しい親族そのままで呆れるほどそっくりだった。
「驚いたな、書類の類は・・・珀龍か。」
自分がまるで馬鹿になったかのように思いながら尋ねたダンテに蒼龍は柔らかく微笑んだ。
「当然。珀龍はエラ-の師匠だ。彼よりも腕は良い。」
『九龍島の馬鹿兄弟はロクなもんじゃ無い。やることなす事いちいちふざけてる。』
何時だったか聞いたキッドの罵り言葉は今は黙って置こう。
「それにしてもコールネームがリオウとはな。知らないながらもトーイの眼は確かだ。珀龍も恐れ入っていたぞ。」
李家を恐れ入らせるとはさぞかしトーイも自慢できることだろう。
「それより良いんですか、李家の跡取りがG倶楽部で呑気に遊んでいて。」
応えたのはリオウ。
「父も叔父もG倶楽部で鍛えて貰わなくては後を継がせる訳には行かないと云い出してね。もっとも俺的には李家の後継者よりG倶楽部の戦闘兵士の方に魅力を感じてるから、フレアじゃないが一石二鳥だ。」
馬鹿兄弟の後継はやはり馬鹿だ。
蒼龍の手下の調べから解かったのは、木村祐一の交際する日本人女性が居る事だった。
マカオの『ホテル・インペリアル』に働く、日本人観光客の案内をするコンシェルジュとしてこの五年を此処で過ごしていると云う。
加賀見恵理と木村祐一は公にはされていない関係で知る者はまず居ない。
だが、秘かに確認した三十歳代のその女性は、ダンテとリオウ二人とも日本人では無いと断言した。
確かに顔立ちも立ち振る舞いも日本人として通用するほどだったし、言葉に至っては微かな東北訛りさえ残して完璧な出来栄えだった。それでも中国人でありながら同じように化けおおせているリオウと、潜入捜査を得意として各国を渡り歩くダンテを欺くことは出来なかった。
「彼女を頼んで良いですか。俺達は別行動を取ります。」
ダンテは加賀見理恵を蒼龍に任せリオウと共に姿を眩ませた。
蒼龍は素知らぬ顔でマカオでもトップクラスの『ホテル・インペリアル』のペントハウスに乗り込み、悠々とカジノを巡る贅沢三昧な李家の若様を演じていた。
蒼龍に優しげな声が掛けられたのはその日の午後であった。
「李家の蒼龍様ですね。」
振り返った蒼龍の眼に加賀見恵理の綺麗な顔が映る。
なるほど清楚な美人ではある。
だが仮にも李家の若様と呼ばれる蒼龍にすれば感激するほどでは無い。
ましてキッドを知る身とすれば。
「おや、何処かでお会いしたかな。こんな綺麗な方なら忘れる事は無いのだが。」
穏やかな声で尋ねるとまんざらでも無さそうに頬を染める。
「いいえ、初めてお目に掛かります。不躾で申し訳ないのですが・・・伺いたい事が有りまして。」
目線で促すと自己紹介をした後、おかしなことに彼女の口から月龍の名が出て来た。
「戦争前の社交界と世界中を虜にした月龍姫は、当時子供だった私でも忘れられるものでは有りませんわ。憧れていたのは殿方ばかりでは有りません。月龍姫に似せたくて成形する女性が倍増したと聞いております。」
中身を知ったら誰でも心臓発作を引き起こすだろうにと思いながら、蒼龍は柔らかく微笑んだ。
「それは嬉しい事を。伝えたらきっと喜ぶだろう。」
加賀見理恵の表情がぱっと輝いた。
「では月龍姫はまだ九龍島にいらっしゃるのですか。戦後復活した社交界にもお出ましにならないので何処かの御殿様に御輿入れしたのかと思っていたんです。」
確かに御輿入れはしたが御殿様じゃ無い。
牛や畑の管理人に嫁いで本人自体は無法者を牛耳っているが、月龍に関してはキッドとキリ-との打ち合わせは出来ていた。
「あれは実はかなり我儘でね。とてもじゃないが他人様の嫁になれるタイプじゃ無い。歳も歳だし九龍島で呑気に遊んで暮らしています。」
聞かれたら半殺しだと思いながら蒼龍は笑った。
「月龍は見た目は確かに綺麗だが、私としては貴方の様に淑やかな女性の方が好ましい。」
どちらが釣ったのか釣られたのか判らないが、蒼龍は実に穏やかに優しく釣竿を引き上げた。
「宜しければ今夜の晩餐におつきあい願えないだろうか。
独りの食卓はいささか淋しいものが在る。」




