17歳の決意
ドアがトントンとノックされ、はいと答えると障子が遠慮がちに開けられる。
「徹、勉強どがんね? 夜食持ってきたばい」
「ありがとう、そこ、置いといて」
俺は時子さんを振り返らずにそう言った。今、数学の問題集の中で一問だけどうしても解けない問題があって、夜食どころじゃないのだ。すると時子さんは、おやすみ、あまり無理して体ば壊さんようにな、と言って障子を閉めた。その言葉がなぜか耳に残って俺は思わず問題集を放置して廊下を覗いた。寝巻に毛糸の上着を重ねた時子さんの背中はとても小さく、儚く見えた。俺の身長がぐんぐんと伸びたせいか、時子さんは年々小さくなっている気がする。初めて出会った時は俺よりもだいぶ大きかったのに。
最近は食べる量も少なくなったし、何より庭に出る時間が短くなっている。具合が悪くて横になっている日も増えた。それでも食事や洗濯などは俺がやると言っても必ず起きて来てやってくれるんだ。
そして、あんなに似合っていた和服を着なくなった。
どちらかと言うと喜怒哀楽の激しい人だったのに、歳をとるにつれてどこまでも優しくなっていく。もう昔のように説教されることも無くなった。それが無性に寂しかった。
俺は17歳、時子さんは72歳、二人が一緒に暮らし始めてもうすぐ10年になる。お父さんお母さんと過ごした歳月よりも長くなった。
高校も3年生になり、受験一色になってきた。最初、大学に行かずに働くか、働きながら大検か、と思っていたけど、時子さんに反対された。俺を大学に行かせるくらいの金はちゃんとあるんだから行きたい大学に行きなさい、と。時子さんがお金持ちなのは分かっている。でも、その金を俺に使って欲しくはなかった。それでなくてもこの10年、時子さんには本当に世話になった。身の回りの世話だけじゃなく、親がいないといじめて来た同級生を追いかけまわしてげんこつで叩き、説教してくれたのも時子さんだ。祖母であり、母であり、父親であり、そして俺の唯一の味方だった。
俺は福岡の国立大学に進路を決めた。
国立なら出費も最低限で済むし、頑張ればここから通えないこともない。
学力的には問題なかった。
滑り止めに私立も何校か受けろという担任の言葉には耳を貸さなかった。
俺はそう決めた日から前にも増して一層勉強に励んだ。
―――そして翌日、時子さんは死んだ。
翌朝、時子さんが起きてこないので部屋に行くと、時子さんはすでに布団の中で冷たくなっていたんだ。まるで眠っているかのような顔だった。昨日までは普通に動いて、話していたのに。
「時子さん……ねぇ、時子さん……」
俺は氷のように冷たい時子さんの肩を揺すった。いつまでも、いつまでも。まるでそうしていれば今目の前にある現実が嘘になるかのように。
俺は、最後に何て言った?
時子さんは、どんな顔をしていた?
俺は、見なかったんだ。時子さんを。
分かっていたのに。
別れは突然にやってくるものだって。
もう、時子さんのおにぎりを食べることはできない。
もう、時子さんをおばあちゃんと呼べる日は永遠にやって来ない。
呼びたかったのに、どうしても呼ぶことができなかった。……これが最後だとは思っていなかったから。
俺は、また置いて行かれたんだ。
俺が愛した人は皆、俺を残して行ってしまう。
それなら……。
―――もう、俺は誰も愛さない。