花と夕日と六法全書
「あぁ、徹、もう起きたとね? ごめんなぁ、庭の手入れもうすぐ終わるからもう少しだけ待っとって」
早朝、物音で目を覚ますと、時子さんが庭の木や花に水やりをしていた。この前の葬式での装いが嘘のような野良着姿に僕は内心驚いていた。女の人って服装一つでこんなに変わるんだな。そう思いながら縁側の端っこに体育座りをして時子さんの作業をじっと見ていた。一つ一つ丁寧に水をやり、雑草を抜き、話しかけている。
「……どうしてそんなに一生懸命するの?」
「え?」
「話しかけても花には分んないのに」
「いや、それは違うばい。話しかけたら、花はそれはきれいに咲いてくれるばい。植物は手を掛ければ手を掛けただけそれに応えてくれると。人間も同じったい。一回でも手を抜くとそれを取り戻すのが大変とよ」
「……」
僕は少し納得できなかったけど黙って聞いていた。すると、時子さんは徹もやってみんね、と言ってきたので頷いた。玄関から自分の靴を持ってきて庭に降り、時子さんの指示に従ってじょうろで水をやり、雑草を抜く。東京よりも南に来たせいだろうか、今年の夏ももう終わりだというのに今日は朝から日が照りつけていて暑い。その代わり、と言っていいのか、影になっている部分はすごく涼しい。
「そんくらいでよかよ。あんまりやると根腐れするけん。じょうろば、そっちになおしてくれんね」
「……なおす?」
僕はじょうろを見たけどどこも壊れているようには見えない。しばらく固まっているのを見て、時子さんは突然思い出したかのようにあっと叫んだ。
「ごめんごめん、なおすっちゅうのは片づけるってことばい」
どうやら方言の一種らしい。ようやく理解できた僕はじょうろを用具入れに片づけた。
さ、朝ご飯ば食べようかね、と時子さんは服を着替えて台所に消えた。もう下ごしらえをしていたらしく、すぐに味噌汁のいい匂いがしてきた。
「徹、手ば洗ってこんね」
「……はい」
徹、手、洗っておいで。一瞬時子さんの言葉でお母さんのことを思い出してしまって、はっとした。ついこの前まで毎日のように聞いていた言葉。のどの奥がきゅっと狭まり、僕は慌てて洗面所へと掛け込んだ。
僕が戻ってくると、時子さんが今日は天気がいいから縁側で食べようと言ってお盆を運んできた。見ると、おにぎりと卵焼き、のり、おにぎり、そして飲みやすいようにだろう、マグカップに入ったみそ汁が載っていた。どうぞ、と言われて僕は迷わずおにぎりを手にして少し口に頬張った。
……おいしい。僕は、涙を必死で堪え、鼻をすすった。もう二度と食べれない、お母さんのおにぎりを思い出していた。時子さんも何も言わなかったので、僕はもくもくとおにぎりを食べ続けた。
午後には東京から弁護士がやってきた。高田と名乗った恰幅のいい優しそうなおじさんは、お父さんとお母さんの遺産について手続きしに来たらしい。代襲相続がどーの、法的手続きがどーの。僕にはちんぷんかんぷんだった。
すると高田のおじさんは僕に六法全書をくれた。
「徹くん、知識は力、力は知識になるんだよ。これはいつか必ず徹くんの力になるから」
この日から、僕の愛読書は六法全書になった。
夕方、高田のおじさんが帰って行くと時子さんは買い物へ出かけた。
その間、僕は縁側で日が傾いて行く様子を目をそらさずにずっと見つめていた。
僕はここで、生きていく。
もう、涙は流さない。
強くなるんだ、と夕日に誓った。
ただいま、と買い物から帰ってきた時子さんが玄関に行かずに庭から縁側に近づいてきた。おみやげ買ってきたばい、と言って足もとに置いたのは、僕の足に合いそうな庭用のサンダルだった。ここにいてもいいんだよと言ってくれている証のようで、それがたまらなく嬉しかった。
僕はありがとう、と時子さんにお礼を言った。
ちょっと声が、かすれていた。