蟷螂の斧
「申し訳ありません」
俺の横で、綾乃さんが店長に向かって深々と頭を下げた。それにつられるように俺も一緒になって頭を下げた。
正直俺は、自分達が付き合うことは他人には何も関係ないと思っている。仕事は仕事、プライベートはプライベート。仕事さえしてれば問題ないだろ?って。だけど、横で委縮している綾乃さんを見て、自分の考えが甘い事を思い知らされた。
社会人と学生のカップルは、社会人に責任が問われる。
いくら学生から言い寄ったとしても。
好きになったのも、彼女の幸せになるチャンスを阻んで繋ぎとめたのも俺。
綾乃さんのせいじゃないのに、綾乃さんに頭を下げさせている自分が情けなかった。俺が下げる頭には一円の価値すらが無い。それが、社会人と学生の違い。……何て無力なんだろう。
そして、それがとても嬉しいだなんて、尚更とても言えたもんじゃない。
謝罪しながらも凛とした姿勢を崩さない綾乃さんは、とても格好良くて美しかった。小さくて華奢な体が、何倍にも大きく頼もしく見える。
それが俺のためだと思うと、こんな場面だというのに顔がニヤけそうになる。つくづく自分本位な我儘男だと思うよ、自分でも。
―――力が欲しい。今すぐに、彼女を守れる力が。
店長は、俺達の残留を願い出たスタッフがいた、と言ってくれた。すぐにカズの顔を思い浮かべた。ところが、店長は首を左右に振って、森口さんだよ、と訂正した。
森口穂乃香。
俺のことを好きだと言ってくれた女。俺の服の裾を掴み、必死な目で行かないでと訴えかけてきた彼女の表情が甦ってくる。
森口さん、あんたって、本当に良い女だよ。本人にそう言ったら、何よ今頃気付いたの、そう言って怒りそうだな、と思った。
店長は二人ともこの店に居続けて良し、という最終結論を下した。いざとなったら辞める覚悟は出来ていた――実際、辞めようと思っていたし――けれど、心の底から安堵している自分がそこに居た。どうやら、自分でも思っていた以上にこの仕事が好きだったみたいだ。もしかしたら、〝綾乃さんが居る職場〟だから、かもしれないけどね。
そのまま仕事の綾乃さんと別れ、俺は一度帰宅し、夕方になってまた店に舞い戻った。制服に着替えて点呼を終え、レンタルフロアのレジへと赴く。
そこにはすでに森口さんの姿があった。春休みの繁忙期のため、昼過ぎからシフトに入っていたことはタイムスケジュールを見て分かっていたから、俺は「お疲れ様です。レジ代わります」と声を掛けて頭を軽く下げた。彼女はこれから1時間の休憩を取り、そのまま夜9時まで勤務の予定だ。森口さんは何かを言いかけ、そして口ごもり、結局「お疲れ様」とだけ言ってカウンターを出た。
「すみませーん。風の三宮くんが出てる新しい映画はどこに置いてありますかー?」
その時、高校生くらいの女の子が堀口さんに話しかけた。商品の問い合わせだ。
堀口さんはCDレンタルの担当なので、映画にはあまり詳しくない。案の定というか何というか、商品のタイトルに思い当たらなかった様で、少々お待ちください、と言うとカウンターまで戻って来ようとした。レジかネットで検索するつもりだろう。
俺はちょうど客の接客が終わったところだったので、堀口さんに歩み寄って代わります、と伝えると高校生に近づいた。お客様、と声を掛けると振り返った女の子が俺を見上げると、瞬きをして息を飲んだ。急に声を掛けたので驚かせてしまったのかもしれない。
「もしかして白金という映画ではないですか?」
「へっ?! あ、そうそう、そういうタイトルだった気がしますー」
「それでしたら先月映画の公開が終わったばかりですので、DVDが出るのは約半年後くらいだと思われます」
「えっ、そんなに遅いんですかー?」
高校生は俺の言葉に驚いた表情を見せた。映画がDVDになるのは公開から約半年後というものがほとんどだ。普段DVDを見慣れない人は、映画が公開したらすぐにDVDになるものだと思っている人が意外と多い、ということを俺はこの仕事を始めてから知った。
「はい。まだ具体的な発売日も決まっていないようです。販売の方のDVDの予約が始まり次第、店頭で告知すると思いますが……」
「そ、そうなんですかー。分かりました、ありがとうございますー」
ペコリと頭を下げてきた高校生に、いえ、また何かありましたらお声をお掛けください、と会釈してカウンターへ戻ると、森口さんがお礼を言ってきた。
「さすが徹くん。ありがとう」
「いや、たまたま知っている映画だったから」
ふと目を遣ると、先程の高校生が何か言いたげにこちらを見ている。まだ聞きたいことがあったのだろうか? そう考えたが、目が合うとパッと目を逸らされた。
「あーあ。徹くん、また幼気な少女の人生を狂わせたね」
「え?」
「あの子、徹くんに一目惚れしたみたいだよ? ほら、まだこっち見てる」
森口さんの視線を辿ると確かに高校生とまた目が合った。その頬がわずかに赤い。
「この男に惚れても無駄ですよ~。一人の女しか目に入ってませんからね~、って教えてあげたいよね。あ、別に厭味じゃないから。ちゃんと、納得してるし」
森口さんがカラカラと陽気に笑った。……何か居心地が悪い。話題を変えよう。
「店長に聞いたんだけど、ありがとう、皆を説得してくれて」
「あぁ、アレ? 別に思ったことを言ったまでで、二人のために言ったわけじゃないし。それにまだ諦めたわけじゃないからね? 心変わりしたらいつでも言ってよ」
ここは冗談で返すべきなのだろう。だけど俺は誤魔化さずに本心を打ち明けることにした。それしか出来ないと思った。
「……俺の気持ちは変わらないと思う、これからもずっと」
「うわー、言うね。かっこいー!」
森口さんが茶化すように笑う。少し強がっているように見えるのはきっと俺の思い上がりではない、と思う。
「そういうところ、……好きだったよ」
すれ違いざまに聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声でそう言って、彼女は今度こそカウンターを出て行った。
蟷螂の斧=弱いのに強い者へ立ち向かう(ことわざ)




