密かな愉しみ
その後、俺は前期の試験勉強のため、しばらくバイトを休んでいた。
それまで定期的にとは言えないが、迷惑にならない程度に送っていたメールも、あの日以来途絶えていた。
綾乃さんのことを思い出すと、彼女の下着姿まで鮮明に思い出してしまうから、何となく送れなかったっていうのが正直な気持ち。かと言って、忘れたくても忘れられないし、ぶっちゃけると絶対に忘れたくないというのがもっと正直な気持ちだ。オンナゴコロと同様に、オトコゴコロも複雑なものなんだよ、うん。
というわけで、試験もほぼ終了し、今日は久々にバイトに行った。
1階のドアから入ると「いらっしゃいませー」という掛け声とそれに追従する他のスタッフの声がする。会釈をしながら事務所に向かおうとすると、強烈な視線を感じた。綾乃さんだ。
彼女は鬼のような形相をしていて、目が合うと他の人には気付かれないように、だが、一目散に駆け寄ってきた。挨拶もそこそこに、この細腕のどこからこんな怪力が、というくらいの力強さで階段に連れ込まれる。目が血走ってて、ちょっと怖い。「今夜、この前行ったファミレスで待つ」といった果たし状のような内容を告げられ、了承すると彼女は安堵の表情を浮かべた。
一体、何の用事だろう?不思議に思いながら事務所に行き、制服に着替えた時にはっとした。もしかして、俺が下着姿を見たことを怒ってる?! でも、あれは俺が脱がせたわけじゃないし……でも、しっかり見てしまったしなぁ。全然見てない、っていうのは筋が通らないだろうな……。
気もそぞろで仕事を終えると、カズの飲みに行こうという誘いを速攻で断り、気が急く思いでファミレスに向かった。ドアの前で息切れしている呼吸を何とか整える。
綾乃さんはこの前と同じ席にすでに座って待っていた。遅れてすみませんと謝ると、大丈夫、私もさっき来たばかりだから、と微笑んだ。綾乃さんは風呂に入ったのか、シャンプーのいい匂いがして、俺の頭はくらくらした。服装もいつもと違って首回りが広く開いた女性らしいトップスとデニムで雰囲気がまるで違う。
そのきれいな鎖骨を見た途端につい彼女の下着姿の彼女が思い出してしまった。だって、そういうお年頃だからね、でもそれだけが目的じゃないから勘弁してほしい。
用件を尋ねると綾乃さんは口ごもり、しばらく逡巡した後、それを振り切るようにいきなり俺に頭を下げてきた。この前の醜態について、らしい。確かにあの夜の綾乃さんはちょっと酒乱ぎみだったな。といっても直接の被害者はバーのマスターだったけど。
その次に、綾乃さんは変なことを言いだした。俺をうちに連れて帰って無理やり……と。……無理やり? おんぶのことだろうか?
私が徹くんに犯罪まがいの行為をした、と言いながら頬を真っ赤にした綾乃さんを見て、やっと俺は彼女が言わんとすることにたどり着いた。
綾乃さん、もしかして俺と寝たと思ってる……?!
いやいや、したかしてないかくらい、普通分かるだろ。それが分んないなんて、もしかして、綾乃さんって、まだ……? そんなまさか。こんな可愛い人が。
考えを巡らせて何も言わない俺を見て不安になったのか、綾乃さんはジャンピング土下座でもスライディング土下座でも何でもするから黙っていて、と必死にお願いしてきた。
何だよ、それ? 俺は色々な土下座を繰り出す彼女をつい想像してしまって、笑いが止まらなくなった。あー、やっぱり俺、この人が好きだわ。
そう思った時には、無意識に言葉が出てしまっていた。
俺と付き合ってください。綾乃さんが好きだから―――。
それを言った時の綾乃さんの顔はちょっと見ものだった。赤くしていた顔が一気に青くなり、また赤くなり、を繰り返していて、混乱しているのが手に取るように分かった。笑顔や泣き顔だけじゃなく、困った顔もかわいいなんて、反則だな。俺は満面の笑顔で綾乃さんのめまぐるしい表情の変化を楽しんだ。
実は俺が訴えなくても、周りが訴えたら同じことなんだけど、それは黙っておく。
まぁ、そもそもあの夜は何もなかったんだけどね。これも黙っていよう。なぜなら、綾乃さんが面白いから!!
ずるいって思うかな? でも、惚れてる時点で俺の負けなんだから、ちょっとくらいいいだろ?
そして料理が届き、固まったままの綾乃さんにフォークとナイフを持たせ、二人で食事を始めたんだけど、綾乃さんは茫然としたまま何も刺さってないフォークを口元に運んでいた。何だこの可愛すぎる生き物は。
食事が終わるとフラフラと歩き出す綾乃さんをマンションまで送り届けた。今日は玄関まででしか入らなかったんだけど、綾乃さんは俺が言うまで部屋の電気さえ付けないほどに終始上の空だった。
……やばい、これ、超楽しくね?
俺はニヤニヤしつつ、上機嫌で家に帰った。




