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硝子の檻  作者: 松本 桂花
僕と彼女
2/2

普通にまみれてそれでいいの?

不本意な本を受けとって3日。読書が好きでも嫌いでもない僕は『世界残酷物語集』をなんとなく読了したが、印象はよろしくない。

生き血を浴びて若返ろうとした貴族夫人とか、愛人を箱詰めにした女性とか、とにかく狂った人々の話を現代日本の平和ボケした生温い脳みそにインプットするのは何かとつらい。いかに現代日本が正気を保つ平穏な世界であるか、骨の髄から感じる。

しかし――なんだかんだ言って読み終えてしまったのは、本能的にそういう背徳感的なものに魅力を感じてしまうからだろうか。僕はこの本を読むのはもう2度とごめんだが、それでも一気に読んでしまった。多分この本を読んでいた先輩もそんな感じなのだろう。

「なにやってんの?」

僕は頭と背後になかなかの質量を感じ、指に挟まれた本をするりと引き抜かれた。だいたい犯人は分かっている。そして奴が何をやらかしているかも分かる。

「…美雪、何回言えば分かるんだ。いきなり背中に体重をかけると腰を痛めるんだからやめろ。」

「人の体重を超重量みたいにいうな。」

天野美雪は昔から僕の家のご近所さんで、つまりは幼なじみだ。そんな間柄であるから、小中高と昼休みは暇が合えば僕の頭に彼女自身の顎をのせ、後ろから抱き着けるのだろう。だいたい9年間人前でこんな格好を晒している。

さすがに入学当初はこんな格好をしているものだから付き合ってると思われて恥ずかしかったが、1ヶ月たった今ではもう馴れた。日常の一コマと化して、もう誰も何も言わない。時々夫婦だのからかわれるが、基本的に多くの人間が僕等の事を『仲のいい幼なじみ(小学生レベル)』と認識している。

「珍しいね。明博が本読むなんて。」

美雪がパラパラと本をめくるのが頭の後ろで聞こえる。本を引き抜かれ、手持ち無沙汰な僕はペンケースからはみ出ていた消しゴムでスリーブの出し入れで遊んだ。

「難しいの読むのね。すごく意外。」

そう言って美雪はくっくっくと押し殺して笑っている。僕は何となく嫌な感じがした。僕の頭の上にある美雪の表情を窺い知る事はできないが――いやらしく笑う、そんな雰囲気だ。

「明博がこ〜ゆ〜の読むなんてね。ね、ホモとか興味あるの?」

ねーよ。

「おもしろいって言われて進められたんだよ、その本。」

微妙に真実微妙に嘘だ。

たしかにその本にはホモセクシャルとか生への欲望とか生々しい目次の文字が踊っていた。

「本当に?彼女いない歴=年齢ってのはホモだからじゃないの?」

「人を生粋のホモみたいに言うな。第一、人が誰を好きになろうとそれを笑っちゃいけないだろ。」

「じゃぁ、好きな女子いるの?」

いつもの会話にいつもの感じで入り込んだ、美雪の突発的な質問。

「…え?」

ふと、その本を渡してくれた先輩を思い出す。

明確に好き――とは言えない。でも、忘れられない。

普通の女子にカテゴライズされない魅力を持つ先輩。

それを言ったら――美雪はどんな表情をするのだろうか。

「ぁー…わっかんねぇ。でもいないと思う多分」

自分の事なのに、他人の好きな人事情みたいなものすごく中途半端な答えになった。

ふわりとうしろにあった重みが消える。

「…なにそれ。すごい中途半端じゃない」

不満げに言い、美雪は僕の机の前に立つ。僕は美雪と目を合わせずに言う。

「自分でもそう思うよ。」

その呟きに、美雪はまた押し殺した笑いで言う。

「まぁ、女子じゃなくて男子なら答えは違うかもしれないわね。」

「それはない。とりあえず僕は今誰も好きじゃない。悪いな美雪、お前が好きだとか言ってやれなくて。」

今度は僕が笑う番だった。美雪は急に真剣な表情になり、僕に食ってかかった。

「ちょっ、まっ、どうしてそうなるのよ!なんか私バカみたいじゃない!」

「バカだろお前。自分で掘った墓穴に自分から飛び込むもんだろ」

「墓穴なんて掘てないわよ!」かなりむきになった美雪はかなりの声量で吠えた。

「おーおー夫婦喧嘩ですかぃ?激しいねぇ」

教室の後方で、クラスメイトの野沢が野次を飛ばした。それはクラス中に伝染し、女子男子関係なく「栗林ー、お前彼女泣かせるなよー」「天野ちゃん、旦那に勝てなきゃ嫁は務まらないよ!」という声が飛び交うこととなった。

おいおい、分かってるだろ僕と美雪は幼なじみでそーゆー関係じゃないぞ、と言おうとしたが、昔から暴走しやすい美雪は矛先を僕からクラス全体に向きを変えて、陸上部で鍛えられた腹筋やらを使ってものすごい声量で「うっさい黙って!!」と恫喝した。

一瞬で教室が静かになった。

僕もものすごく驚いたし、クラスメイトはお互いに目を見合わせた。

そして当の美雪は落ち着いたのか、顔を真っ赤にしつつ肩で息をしつつ僕に告げた。

「…今日はもう戻る。明日も来るから」

僕は美雪が本を机に置いて少々ふらふらしながら教室を出ていくのを見送った。

「…おい、栗林。お前送っていかなくて大丈夫か?」

事の発端である野沢は心配そうに僕に尋ねた。僕は少々疲れたように返事した。

「大丈夫だ。一人にさせると勝手に元気になる。」

9年も付き合いがあると、自ずと分かっている。

けれども僕等は幼なじみのまま、友達のままなのだ。




眠たくなる古典、異国語を聞くような数学のような退屈な授業を終えて僕は図書室に本を返しに行く。

図書室に入ると案の定、不機嫌そうな先輩がすでにいた。

「遅すぎるわ。もっと早く読んで欲しかったのに。」

僕は司書のおばちゃんに返却手続きを頼んでいると、そんな小言が耳に飛び込む。

「ごめんなさい……読む時間が見つけられなくて…」

僕は細々と謝った。それを見て司書のおばちゃんはピッ、とバーコードをならして笑った。

「あぁら、気にしないで栗林くん。一紗ちゃんずーっと図書館で貴方が来るのを待っていたのよ。話が合いそうな後輩だーって」

「なに言ってるんですか先生。私が待っていたのは本です。」先輩――一紗先輩はなかなか冷ややかな声で司書のおばちゃんに反論した。司書のおばちゃんはころころと笑いながら「だって言ってたじゃなーい、一紗ちゃんってツンデレとかいう奴だったりするの?」と吐かしていた。

僕は一人蚊帳の外。居心地の悪さを感じて、あのー僕帰ってもいいですかと言おうとした瞬間、険悪そうな雰囲気を醸し出して一紗先輩は僕を見た。

先輩は「帰っても」以降の僕の声を遮った。

「…で、栗林くん、だっけ?そういう本が好きなの?」

一紗先輩は不機嫌そうな声で僕に尋ねた。僕は少し息を詰まらせてその問いに答える。

「えと、栗林明博です。えと、まぁ…おもしろかったです…よ?でも苦手…かな…あはは」

つい当たり障りのない言葉と本音が出た。しかし一紗先輩は驚いた目で

「よく読もうとしたわね…タイトルから分かりそうなのに。あぁ私は本堂一紗。一紗って呼んでね。私家を出た身だし本堂を名乗るわけにはいかなくて。」

「はぁ…」

果して世界残酷物語集を読む必要があったのか疑問になってきた。

そして名前で呼べといわれたものの、先輩は先輩であるから申し訳ないような違和感があるようなで躊躇いがある。事情も深そうだし。

一紗先輩は返却処理をされた世界残酷物語集を司書のおばちゃんから受け取ると、再び僕に読書は好きかどうか尋ねた。

僕が読書は好きでも嫌いでもないけれど人よりは読書をします、と素直に答えると一紗先輩は複雑そうな顔をして中途半端ね、と笑った。

――その表情に、僕の鼓動は一際強く打った。今日2回目の中途半端という言葉、一紗先輩の言葉が優しく耳に残った。美雪にはなかった中途半端という言葉に含まれた感触に、僕の鼓動は高く打ち続ける。

「好きか嫌いじゃないかも分からないって面倒よ。読書は人じゃないんだから好きになりすぎてもいいし徹底的に嫌ってもなにもないわ。まぁ読むならいいわよ、話が合うし。きなさいな」

一紗先輩は僕を手招いて誘う。そして文庫本の書棚に立つと、えーと等と呟きながら先輩は一冊の本を僕に渡した。

「読む本がないなら読んでみて、芥川龍之介の地獄変。私が芥川作品のなかで一番好きな作品よ。」

黒地に白でタイトルと作者名と出版社名だけが示されたシンプルなデザインの地獄変。

100年くらい前の作品なのにまぁここまでオシャレになってるなぁと変な感想を抱いて僕は先輩から地獄変を受け取る。

「内容は分かる?」

わかりません。

僕はエアーで一紗先輩に伝えた。さっきから先輩に醜態ばかり晒している気がする。

当の一紗先輩はそれを予測していたようで僕に少し微笑んだ。

「まぁ芥川作品なんて教科書くらいでしか読まないもの。私が初めて芥川作品読んだのは中三で蜘蛛の糸を勉強してからだもの。」

そして僕から視線をそらして一紗先輩は続けた。

「芥川龍之介の魅力はね、人間の欲望、エゴイズムを生々しくかつ美しく書いてる所だと思うの。」

現国担当のハゲの白河のおっさんさえ言わないような事を言った。

「……へぇ」

芥川作品に触れたことのない僕は分からずに適当な返事しかできない。しかし一紗先輩は気にしないでさらに続けた。

「蜘蛛の糸だって地獄変だって羅生門だってなかなかえぐい内容よ。カンダタは自分だけが地獄から極楽に這い上がろうとした。良秀は業火に苦しむ女を描くためだけに女を焼くことを殿様に望んだ。下人は他人を犠牲にしてまで生に縋り付いた。そして理想が叶ったも絶望して元に戻ることを願ったのが鼻と河童。そんなのが有名じゃないかしら」

あ、ネタバレかしらと一紗先輩はくすくすと笑う。

「でもまぁ、読んでないなら分からないわよね。短編だから、本当に近代小説、ここ10年に発表された作品みたいに長くないし、時間があったら読んでみてね。」

一紗先輩は僕にそういうと、エドガー・アラン・ポーのアッシャー家の崩壊を読みはじめた。

読書を始めた一紗先輩にほったらかしを受けて僕はふと思う。

一紗先輩と美雪、どちらも自分と距離の近い女子だが、僕はすでに彼女達を別のカテゴリに分類してしまったのではないかて思う。確かに美雪は明るく可愛らしいので回りからちやほやされる中心的立場に立つ存在、先輩は人を寄せつけずミステリアスで可愛いというより綺麗という言葉が合う。そういった違いはある。

しかし――それとは違って、僕は明らかに一紗先輩に惹かれている。美雪では感じない、本能的に先輩が焼き付いて意識してしまう、そういう魅力だ。

僕がそんなことを考えているとは露知らず、先輩はさらさらとした長い髪を耳にかけながらアッシャー家の崩壊を読み進めている。

その綺麗な横顔を見て僕は確信した。あぁ、僕はこの人を好きになる一歩手前だ、と。多分なにちょっとした衝撃を与えれば僕は一紗先輩を明確に『好き』になり、はれて片思い、片恋が成就する。一目惚れに近い状態だ。自分がこんなに軽い人間だったのかと衝撃を受けるも、惹かれているのはどうしようもない事実で――

急に終わりを告げるチャイムが鳴る。

僕の思考はぶつ切りにされた。一紗先輩は顔を上げ、本を棚に収めて腕時計を――なんかすごく高級そうな奴で時間を見て

「ボソッ(…げ。もう5時…あのジジィ6時半に店に来てくれって言ってたっけ…めんどくさいわもう…)、ごめんなさあ栗林君、私用事あるから先に失礼するわね。まぁなんだかんだ言ったけど時間があるときでいいのよ。私それもう読んでるし。貴方にとっていいものが得られればいいわね。あぁあとそれからね」

一紗先輩はすごく早口で二言三言告げたが覚えていない。

ドリーム状態から覚醒し、惹かれている先輩の口からなかなかの暴言が飛び出したのだ。僕はかつて中学の実験で見た圧力を受けてベコベコになった一斗缶のような心で図書館に取り残された。

「栗林くーん?閉めるわよー?」

能天気な司書のおばちゃんが、僕のへこんだ心を少しだけ復活させてくれた。


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