AI作品を嫌うひとは、物語と同じくらい「物語が生まれるまでの物語」を重視しているのかもしれない。
作品と対峙する時、筆者は作者には、あまり目を向けない。作品のみを味わい、評価する。それが作品を正当に評価する姿勢である、と考えるからだ。
筆者にとっては、当然のスタンス。なのだが、世の中には、そうでないひとも多いらしい。―― いわゆる、物語が生まれるまでの「作者自身の物語」を重視する人々である。
この手の人々は、伝統主義的に物語の周辺までもを、作品の一部として愛でる性質を持つ。感情移入を呼び起こすための装置の拡張。―― それが「物語の周辺」というわけである。
しかし、この姿勢には毒がある。
それは無意識にも近い、「門外漢」の排除である。
「寿司を握るのに、女や外国人は論外」
「素人のくせにプロの仕事に口を出すな」
周辺の文化の保護を大事にすればするほど、「弾かれる対象」も生まれる。
いま、この手の差別の矛先は、AIへと向かっている。
人間同士で差別を行っていた頃よりは、少しだけ健全になったようにも勘違いしそうだが、本質は同じ。
「苦労せずに手に入れたものには価値がない」
「苦労にこそ価値がある」
という、効率を嫌う人間たちの「祈りにも似た拒絶反応」に、筆者には映る。―― これには「AIにとっての一秒の意味」と「人間の一秒」との混同もあるのだろう。
学校を卒業すると「点数化されない努力」は、なかなかに認められない。だからこそ、私は努力する人をちゃんと評価する。―― そんなところか。
◇
ここまで書くと、気づくことがある。
それは「作品に対する向き合い方」は、おそらく「人間関係」においても同様に現れるのではないか、ということ。
初見の人間に対する態度。
対峙した瞬間、どれくらい相手を真剣に読み取ろうとするか、の意欲とも置き換えられる。
素性の知れない相手は、無視。
黙って、その場をやり過す。
そして、その相手が去った瞬間、大した理解もなく「変なひとでしたね」とか、口走ってみたり。
これは「一期一会」とは真逆の姿勢。
いわゆる「一見さん、お断り」にも、似た態度。
それは、それで構わない。
だが、こういった姿勢で「受信できる周波数」は、極めて狭いレンジにしかならない。
作家なら、もう少し好奇心旺盛に、とりあえず何でも味わってみればいいだろうに、というのが、やはり筆者のスタンスだろうか。
純文学を書く者なら、拒絶もまた美学となりえる。
しかし、ファストフード的に、テンプレ小説を書いている人間が、アンテナをたたむ姿には、渇いた笑いしかこぼれない。
◇
とはいえ、名言などにおいては「何を言ったか」ではなく、「誰が言ったか」が重視されるのも理解できる。
どれほどの名言であっても、詠み人が「イーロン・マスク」と「無職」であれば、意味の解釈がまったく違ってくるからだ(あれ、なんだこのオチ?)。
―― けっきょくのところ、こういった姿勢も「どこから線引きするか」の差でしかないのかもしれない。
ちなみに筆者は、ゴッホをあまり評価しない。
彼の評価は、作品そのものよりも自身の物語によって、拡張されているように考えるため。
視覚の変成や、耳の欠損、自殺の物語についても、近年、その中身がひっくり返りつつある。だが、そこに触れるのもタブー化されている。ここには「勘違いから与えられた権威」の保護という、評価の二重遭難が発生している。




