第四章 倉庫の灯り
その夜、蒼と文乃は見ているしかなかった。
川瀬は裏口から三人の患者を連れてきた。一人は四十代の外国人男性で、日本語がほとんど話せなかった。一人は七十近い女性で、生活保護の申請を恥ずかしいと言って拒んでいるらしかった。もう一人は三十代の男性で、足に古い傷があった。
桐山は三人を順番に診た。
血圧を測り、聴診器を当て、簡単な問診をした。外国人男性とはスマートフォンの翻訳アプリを使って話した。七十代の女性には丁寧に血糖値の説明をし、薬を処方した。三十代の男性の傷には処置をした。
蒼は端に座って、ただ見ていた。
医療行為そのものは、普通の診察だった。特別な処置があるわけでも、危険なことをしているわけでもない。しかしここには、通常の外来が持っているものが欠けていた。受付がない。保険証の確認がない。レセプト処理がない。電子カルテがない。
桐山は手書きの小さなノートに、患者の状態を書き留めていた。
患者が帰った後、桐山は蒼と文乃を見た。
「何から話そうか」と桐山は言った。
「ここは、何ですか」と蒼は聞いた。
「診察をしている場所だよ」
「保険診療ではない」
「そうだ」
「届け出は?」
「していない」
蒼はしばらく沈黙した。
「いつから?」
「もう十二年だ」と桐山は静かに言った。「最初は一人だった。近所に住む外国人の女性が、子供を連れて来た。熱が出ていて、でも保険がなくて病院に行けないと言った。それで診た。気づいたら、口コミで広がっていた」
「川瀬さんは?」
「八年前から来ている。最初は患者として。今は、患者を連れてくる役を引き受けてくれている」
文乃が口を開いた。「来る人は、どれくらい?」
「週に二日、来る夜もあれば誰も来ない夜もある。多いときで一晩に五人、六人。少ないときは一人か二人」
「薬の費用は?」
「わたしが出している。足りない分は……」と桐山は少し言いよどんだ。「橘さんが、ときどき足してくれる」
蒼の頭の中で、橘道夫の顔が浮かんだ。
「橘さんが」
「あの人は去年から知っていた。わたしが一人でやっていることを心配して、お金を出すと言ってくれた。受け取るのは気が引けたが、患者の薬代だと思って、ありがたく受け取った」
蒼は天井を見た。古い木造の天井に、裸電球が一つ下がっていた。
「先生、これは法律的には」
「グレーゾーンの外側だろうね」と桐山は言った。その声は穏やかだったが、逃げてはいなかった。「医師免許はある。しかし施設の届け出なしに医療行為を継続することは、医療法に抵触する可能性がある」
「可能性、ではなく」
「そうだ。抵触する、だ」桐山は静かに言った。「わかってやっている」
「なぜ」と文乃が言った。責めているのではなく、本当に知りたがっている声だった。
桐山は少しの間、裸電球を見た。
「五十年前、わたしは病棟で見て見ぬふりをした。それからずっと、後悔してきた。あのとき何かできたんじゃないかと。だから今度は、目の前の人間を診ないという選択肢が、わたしには取れない」
その言葉は、静かな倉庫の中に置かれた。
誰も何も言わなかった。
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帰り道、蒼と文乃は旧市街の通りを並んで歩いた。
冬の夜で、息が白かった。
「どうする?」と文乃が言った。
「三上と葵に話す」と蒼は言った。
「うん」
「それから、四人で考える」
「うん」
「答えは、すぐには出ないかもしれない」
「そうだね」と文乃は言った。しかし彼女の声は、不安よりも落ち着いていた。「でも、知らなかったことには戻れない」
「そうだな」
夜の路地に、二人の足音だけが響いた。




