第三章 夜の足音
文乃が気づいたのは、金曜日の深夜だった。
病棟実習は原則として日中だったが、文乃はその日、精神科の見学で遅くまで病院に残っていた。廊下を歩いて内科病棟の前を通ったとき、川瀬のベッドのある方向の非常口が、そっと閉まるのを見た。
気のせいかと思ったが、一応確認しに行った。
川瀬のカーテンを開けると、ベッドは空だった。
文乃はすぐに廊下に出て、非常階段の方へ向かった。外は冷えていた。階段を下りきった先の裏口の扉が、閉まりきらずに少し開いていた。
外を覗くと、川瀬が夜の駐車場を歩いていた。病院の寝間着の上に、薄いジャケットをはおっている。足取りはしっかりしていた。
追いかけようか、と文乃は一瞬迷った。
しかし代わりに、スマートフォンで時刻を確認した。深夜零時二十分。そして川瀬が向かっている方角を、頭に入れた。
病室に戻り、カーテンを元に戻した。
川瀬が帰ってきたのは、一時間半後だった。文乃は看護師の詰所の陰に座って、待っていた。川瀬はそっと病室に戻り、カーテンを引いた。
翌朝、文乃は蒼に言った。「今夜、一緒に来てほしい」
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土曜日の夜、蒼と文乃は病院の裏に立っていた。
川瀬は今夜も出るだろうという文乃の読みで、二人は病院の外から待ち構えていた。三上に声をかけようとしたが、「ちゃんと確認してから話す」と文乃が言い、二人だけになった。
午前零時を過ぎた頃、裏口の扉が動いた。
川瀬が出てきた。二人は少し距離を置いて、後を追った。川瀬は振り向かなかった。
旧市街の方角だった。
路面電車の走る通りを渡り、狭い路地に入り、さらに細い道を曲がった。蒼には見覚えのある道だった。
桐山診療所に近い、あの路地だ。
しかし川瀬は診療所の前を通り過ぎ、その裏手に回った。そこには古い木造の建物があった。倉庫か何かの跡地らしく、シャッターの上に「空き物件」の張り紙があった。しかし、その裏口には灯りがあった。
川瀬は裏口の前に立ち、二回ノックした。
扉が内側から開いた。川瀬は中に入った。
蒼と文乃は顔を見合わせた。
「入ってみる?」と文乃が言った。
「……入る」と蒼は答えた。
裏口の扉はまだ少し開いていた。蒼が押すと、抵抗なく開いた。
中は、診察室だった。
古い木の床に、パイプ椅子が十脚ほど並んでいた。簡単な処置台が一台。聴診器、血圧計、薬の入った鞄が棚に並んでいた。
そしてそこに座っていた人を見て、蒼は思わず声が出た。
「桐山先生」
白髪を七三に分けた老医師が、カーディガンを着て椅子に座っていた。
桐山義雄は蒼を見て、目を丸くした。それから困ったような、しかしどこか安堵したような顔をした。
「来てしまったか」と桐山は言った。




