第一章 川瀬という患者
病棟実習が始まって、蒼はまだ自分の立ち位置を掴みきれていなかった。
白衣を着ることへの緊張は最初の一週間でだいぶ薄れたが、代わりに別の感覚が生まれていた。病棟には独自のリズムがあり、医師がいて、看護師がいて、実習生はその端に立って、見て、学ぶ。それはわかっていた。しかしその「見る」ということの意味が、日を重ねるにつれて複雑になっていった。
患者は人間だ。当たり前のことが、意外なほど難しかった。カルテの数字と、ベッドに横たわる体と、ときおり交わす言葉とが、うまく一つにならない。
川瀬が内科病棟に移ってきたのは、蒼の実習が始まって三週間目の月曜日だった。
搬送されてきた夜に体温を上げ、意識は翌朝には戻っていた。低体温症そのものは軽度で、点滴と保温で対応できた。身体的には数日で退院できる状態になる見込みだった。
問題はそこから先だった。
「身元の確認が取れていません。保険証もなし、連絡先もなし」と担当看護師が朝のカンファレンスで報告した。「ソーシャルワーカーに相談中です」
指導医の村松が「わかった」と言い、次の患者の話に移った。
蒼はそのやりとりを聞きながら、川瀬のカルテを見ていた。診察記録の「職業欄」には「不明」とある。「住所欄」には「住所不定」と記載されていた。
病棟で川瀬のベッドを初めて訪れたのは、その日の昼だった。
カーテンを開けると、川瀬は起き上がってベッドのふちに腰をかけていた。病院の薄い寝間着を着て、窓の外を見ていた。体は細かったが、背筋は妙にしっかりしていた。顔には深い皺があり、髭が伸びていた。目が大きく、どこか焦点の合わない遠さがあった。
「川瀬さん、具合はどうですか」と蒼は言った。「実習生の神田です」
川瀬は蒼を一瞥した。「学生か」
「はい」
「じゃあ、担当医じゃないな」
「そうです。実習で勉強させてもらっています」
川瀬は視線を窓に戻した。「そうか」
会話はそこで止まった。
蒼はバイタルを確認し、聴診器を当て、所定の所見を取ろうとした。川瀬は拒まなかったが、特に協力もしなかった。ただ淡々と、検査されるままでいた。
「外、寒いですよね。昨日から気温が落ちて」と蒼は言った。
「そうだな」
「どこで過ごされていたんですか、倒れる前は」
川瀬は少し間を置いた。「公園だ」
「ずっと?」
「最近は、そうだな」
蒼は何かを言おうとして、言葉を選べなかった。川瀬はその沈黙の間も窓の外を見ていて、別に困った様子はなかった。
「何か、必要なものはありますか」と最後に蒼は言った。
川瀬はわずかに目を細めた。「ない」
そう言い切った声には、「気を遣われるのが慣れている」という感じがあった。親切を受け取らない習慣が、体に染み込んでいるような。
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翌日の朝、三上から廊下で声をかけられた。
「川瀬の件、ソーシャルワーカーが動いてるらしいけど、施設の空きがないらしい」
「退院はどうなるの」
「村松先生は今週末を目処にって言ってた」
「今週末?」と蒼は言った。「どこに帰るんだ」
三上は少し眉を寄せた。「……それは、医療の問題じゃないって判断だと思う」
「でも、また倒れたら同じことになる」
「それはそうだが」と三上は言い、声を少し落とした。「蒼、感情で動かない方がいい。実習生が病棟の方針に首を突っ込むのは、立場を考えないといけない」
蒼はわかっている、と言おうとして、言えなかった。
わかっていた。でも、釈然としなかった。その「釈然としない」感覚をどう扱えばいいか、まだわからなかった。
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同じ病棟に実習に来ていた文乃は、その日の昼休みに蒼に言った。
「川瀬さんと話した?」
「昨日、少しだけ」
「あの人、変わってるよね」と文乃は言った。「医療のこと、よく知ってる。今日、薬の話をしたら、薬の相互作用について詳しくて驚いた。調べた感じじゃなくて、体で知ってる感じの詳しさ」
「どういう意味?」
「たとえば、医療職の経験があるとか、長く病院に通ってきたとか、そういう……なんとなく」
蒼は川瀬の大きな目を思い出した。あの遠くを見るような焦点。
「聞いてみたら?」と蒼は言った。
「聞いても、答えないと思う」と文乃は言った。「でも、ちゃんと聞いてあげることはできる」
文乃はそういう人間だった。答えを求めて聞くのではなく、聞くこと自体を大切にする。蒼は彼女のそういうところを、大学一年の頃から尊重していた。




