終章 夜が明けたら
三月になった。
医師会から正式な文書が来た。
内容は、桐山義雄の過去の活動について「一定の問題は認められるが、その人道的意義と地域への貢献を鑑み、口頭による注意指導をもって処分を終了する」というものだった。今後は区の補助事業の一環として、届け出のある形で活動を継続できると書かれていた。
蒼はその文書を桐山に届けに行った。
桐山は文書を手に取り、眼鏡をかけ、黙って読んだ。
読み終えると、眼鏡を外し、しばらく目を閉じた。
「よかった」とだけ言った。
蒼は何も言わなかった。
しばらく経って、桐山は言った。「橘さんに報告しないといけないな」
「僕が行きます」と蒼は言った。
「そうか。頼む」
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橘のアパートに行くと、老人は縁側に座っていた。梅の鉢植えに、白い花が二輪ほど咲いていた。
「来たか」と橘は言った。
蒼は隣に座り、経緯を話した。口頭指導のみで処分が終わったこと。補助事業に乗せる形で、活動が公式に継続できること。川瀬が引き続き橋渡しを続けると言っていること。
橘は梅の花を見たまま、黙って聞いていた。
「……ハルコも、こういう人間に診てほしかったな」と老人は静かに言った。
それだけだった。しかしその言葉は、長い時間をかけて蒼の中に染み込んだ。
「春になったら、また診療所へ行っていいですか」と蒼は言った。
「いつ来ても構わない」と橘は言った。「ただ、わしも足が悪くなってきた。そのうちそっちが往診に来てくれることになるかもしれん」
「医師になったら、来ます」と蒼は言った。
橘は初めて、声を出して少し笑った。
「そのとき、ちゃんと生きとるかな」
「生きてください」と蒼は言った。
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病棟実習の最終日、蒼は最後に川瀬の顔を思い出した。
川瀬は今、区の補助を受けた活動の一端として、正式な「患者コーディネーター」に近い役割で関わっている。身分証も保険証もまだない。しかし少なくとも、夜中に病院を抜け出して、誰にも言えない場所へ一人で向かう必要はなくなった。
医師だった男が、医師でない形で医療の場に戻ってきた。
それが良いことかどうか、蒼にはまだわからなかった。ただ、川瀬の目から「遠さ」が少し薄れたような気がしたことは、何かを意味している気がした。
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文乃は精神科の実習で、患者の言葉を丁寧に受け取ることを体で学んでいた。
三上は医師家系のプレッシャーを、完全には解消できていないが、それと向き合う言葉を少しずつ持ち始めていた。
葵は卒業論文に「記録されない医療——地域の無届け診療活動の調査研究」というテーマを選んだ。指導教員は最初、首をかしげたが、資料の質を見て賛成した。
そして蒼は、実習を終えた夜、白衣をクリーニングに出した。
来年、研修医になったら、また着る。
今度はもう少し、自分のサイズに近いはずだと思った。
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夜が明ける前の時間が、一番暗い。
しかし、だから明けるのだと桐山は言った。
蒼はその言葉を、ポケットの中にしまっている。
白衣には、ポケットがいくつかある。
聴診器を入れるもの。メモ帳を入れるもの。
そういう言葉を入れるポケットも、どこかにあっていいと思っている。
後記にかえて
日本において、保険証を持たずに医療を受けられない人々が存在することは、社会的な課題として議論されています。無料低額診療事業や、NPOが運営するアウトリーチ型の医療支援活動は実在し、多くの医師や支援者が関わっています。
この物語は架空のものですが、「夜の外来」に集まる人々は架空ではないかもしれません。
桐山義雄のような医師が、どこかにいます。橘道夫のような人が、後ろで支えています。川瀬のような人が、橋を渡しています。
それを、記録に残したいと思いました。




