八話 何かが変わる瞬間
二学期に入った頃、クラスではみんなが注目する一つの話題があった。
それは岳と笹原の大学推薦の結末だ。
岳と笹原は奇遇にも同じ大学を志望していた。
丁度大学側からもスカウトされていて、空手部から一人だけその大学に推薦がもらえるそうだ。
笹原も空手の実力では岳と良い勝負をしていたので、どちらが推薦者に選ばれるか分からなかった。
あの日の前日、空手部の練習が終わり集合した時に、その推薦は岳に決まったと監督からみんなに伝えたそうだ。
私はそのことをすぐに岳からメールで知らされた。
その日の練習終わりはいつもの様に岳を待っていた。
一番におめでとうと言ってあげたかった。
岳の事で頭がいっぱいだった。
だから私は笹原の気持ちなんて考えもしなかった。
これは、あの日からしばらく経った時にあかりから聞いた話だ。
あかりはその日、たまたまみんなよりも少し後に部室を出た。
最後だったので鍵を閉めて誰もいない道を歩き校門に向かっていると、少し前に笹原を見かけたと言う。
あかりからすると笹原は少し元気がない様に感じたそうだ。
その日は推薦者に選ばれず、落ち込んでいたのだろうか。
でも笹原は、少し前を歩く私の姿を見ると、その顔は少し落ち着いた様な柔らかい雰囲気に戻ったそうだ。
この時にあかりは
『笹原はもしかして本当に紬のことが好きなのでは?』
そう思ったそうだ。
そして笹原は私の名前を呼び、私に話しかけようとしていた。
「矢波。おつか……れ……」
しかしその声は私には届いていなかった。
「岳、推薦おめでとう」
私は反対側から現れた岳にそう声をかけたのを覚えている。
その様子を見ていたあかりが、笹原の事をすごく怖かったと話した。
岳が現れ、私と岳が話している様子を笹原はずっと見ていたと言う。
見ているというよりは、睨んでいる様な今にも噛みつきそうな、でもどこか笑っている様な不気味な雰囲気だったそうだ。
あかりはその日に自分が見たままの状況を話してくれた。
これが関係あるのかどうかは分からないけどきっかけになった可能性は大いに考えられた。
そしてこの次の日、全てが崩れた。
嘘みたいに楽しい一日が訪れた。
その日はクラス内でも穏やかな時間が過ぎていった。授業だって楽しかった。
今日は何人かの先生が中々授業を始めずに、世間話をして盛り上がった。
いつもの様にお昼休憩が終わり、午後の授業を受け、終わりのチャイムが鳴り、みんなは生き生きと一斉に部室に向かって教室を後にした。
それに今日の部活は楽しかった。
監督は機嫌が良く、誰も怒られなかった。
平和に一日が終わった。
今日の一日は完璧だった。
後は岳を待って一緒に帰るだけだ。
それなのに、岳はいつまで経っても待ち合わせの場所に来なかった。
もうとっくに練習時間は終わり、自主練をしていたとしても帰る時間を過ぎている。
あまりにも時間が経ち、何かあったのかと携帯を開くと岳から、先に帰ってとメールが届いていた。
その日、岳からの連絡はそれきりだった。
私の世界が変わりはじめる。
朝、いつもの様に教室に入るとみんなが私の方を一瞬見て、コソコソと話始めた。
いつもと雰囲気が違った。
でも私はそんなことより、昨日から連絡が取れない岳が気になり教室を見渡したが、教室に岳の姿は無かった。
するとテニス部の何人かが、私を教室の外まで連れ出した。
「大河内から何か聞いてない?」
あかりの表情は真剣そのものだった。
ここまでの雰囲気を見て、何か問題があったんだろうなと想像できた。
「昨日の夜から連絡つかなくて……」
私は訳も分からずにいた。
「矢波」
声を掛けられ振り返ると、担任が私を見下ろしている。私はそのまま担任に、理由も分からないまま連れて行かれた。
着いた先は入った事もない様な薄暗い部屋だった。
私は担任からソファーに座るように指示される。
そして耳を疑うような話を聞かされた。
「昨日、空手部で窃盗事件が起きました。
犯人の可能性があるとして大河内が取り調べを受けている途中なんだけど、一つこんな噂が広まっています」
担任は淡々と話しているが、私は何一つ理解できないでいた。
「矢波は大河内岳と交際していますよね?
矢波に貢ぐ為に大河内は必死にお金を集めていた。
この様な噂がありますが事実ですか?」
呆れるほど、何一つ真実ではないその噂に私は戸惑った。
しかし、私がどんなに否定しても例え事実でないと目の前にいる担任に訴えても結果が変わることはなかった。
担任から聞いた身に覚えのない私達の噂は、教室に戻ればみんながそのことについて話をしていた。
「岳が警察署で取り調べを受けてるって」
涼の口から出た『警察署』という言葉は、一気に私を現実に戻した。
学校的には大事にしたくなかったそうだが、笹原の両親が激怒して警察に訴えたと担任から説明を受けた。
私はその場にしゃがみ込んだ。
一気に足の力が抜けた。
岳を疑っているわけではない。
岳は絶対にそんなことをしない。
そんなことは私が一番理解している。
それよりも、クラスの反応に私は頭を抱えた。
全員では無いが大多数がその噂を鵜呑みにしている。何で三年間も一緒にいて岳を信じれないのか。
その日の授業は全く頭に入らなかった。
中々収まらない私達の噂を断ち切るには、本人の口から説明しなければいけないと思わせる程クラスの空気は重たく感じた。
だから私は説明した。
岳はそんな事をするような人間では無い。
岳が私に貢いでいたという噂も事実では無い。
みんなは説明すれば理解してくれた。
この約三年間、一緒に戦ってきた仲間だからか信じてくれた。
私に謝罪もしてくれた。
それでも噂は一瞬で広まり、私一人の力ではどうすることもできない所まで来てしまった。
「大丈夫?連絡は?」
休み時間、隣のクラスから陽咲と健太がやってきた。
「まだ連絡つかなくて」
陽咲と健太は岳の味方だった。
岳がそんなことするはずないと分かっている。
でも周りがそれを信用しない。
そう言っていた。
その日の一日は長かった。
夜になるとやっと岳から連絡が届いた。
「どうなるか分からない。
ずっと否定はしていても警察側が納得してくれない。
しばらく学校にも行けない」
岳は電話で話してくれた。
私に迷惑をかけてしまい申し訳ないと謝罪もしてくれた。
「大丈夫。
岳は何一つ悪くないから下を向く必要はないよ」
私は今考えられる全力の励ましを岳に伝えた。
「紬、……僕は本当にやっていない」
電話を切ろうとした時、岳が力強くそう言った。
その声は少し震えていた。
私はその言葉を心の底から信じた。
「大丈夫。分かってる」
私はそう言って電話を切った。
明日から学校に行くと岳から連絡があったのは、事件から三日経った頃だった。
やっと警察の取り調べも終わり普通の生活に戻れると安心した。
岳の容疑も晴れ、堂々と校舎を歩けると。
何より岳に会えるのを楽しみに朝を迎えた。
教室に入るとそこにはいつも通りの朝が戻っていた。
「あれ?岳は?」
岳の姿を確認するまではそう思っていた。
でも教室に岳の姿は見当たらなかった。
私は涼に岳の居場所を尋ねた。
「今さっき、先生に呼ばれて出て行った」
涼の顔を見て、私の心はまた不安で一杯に変わっていく。
(まだ続くのか...)
そう、思った。
そしてその日は結局、最後まで岳抜きで授業が行われた。
私は岳の顔を見る事無く一日が終わった。
そして夜には、岳からのメールでまたしばらく学校に行けないという文章が送られてきた。
この悪の波はなんだろうか。
私達は一体、どの様な波に乗ってしまったのだろうか。
私達は確かに助けを求めていた。
砂浜に行きたいと。
そこに『この波に乗れば辿り着くよ』と私達に光が差し込んだ。
目の前にカラフルで落ち着いた穏やかな波が訪れる。
でもその波には直ぐ雲が顔を出し、グレーの雰囲気に纏われ、私達の周りには再び激しい荒い波がやって来た。
私達はいつになったら砂浜に辿り着けるのか。
私達はそもそも砂浜に辿り着けるのか。