三十話 七年後
『幸せだな』
私の平凡な日常が、ごくたまに俯瞰して見える事がある。
私もいるその空間を、その輪の一歩後ろに下がって見える事がある。
そこに見える光景は、岳がいて花奈がいて私がいる。時には私の両親が、岳と花奈と私と一緒に笑って話をしている。
凄く日常的で平和そのものの空間だ。
この状況がスローモーションで見える。
見ている私は泣きそうな気持ちになる。
いつかまた壊れるんじゃないかと不安にさえなる。
当たり前の様なこの時間は、私達にとってどれほどに難しくて、今がどれほどに奇跡的なのか。
この先もこの幸せを噛み締めて生きていくのだろう。
そしてその度に、あの時岳を信じて良かったと当時の自分に感謝するだろう。
あの時、岳が必死に努力してくれた事に感謝するだろう。
岳に出会えて良かったと心から思うだろう。
そして私達の元に来てくれた花奈は、私達にとって一番の宝物だ。
そんな花奈が笑顔で私の元に走ってくる。
さっきまで俯瞰して見ていた景色が、急に私の中に戻って来る。
岳と花奈のデートが終わったみたいだ。
「ママ、あれ何?」
三人で散歩をしている時、花奈が私に指差し聞いて来たのは小さな花屋さんだった。
すると急に岳は花奈を抱き上げ、言った。
「二人で花屋に行って来ていい?」
私はなぜ二人?私は?と思いながらも、岳は普段は仕事で花奈と二人きりになる事も無いしと思い、私はどーぞどーぞと二人を花屋に見送った。
「ちょっとブラブラして来る」
私は一人で反対側の広場に向かった。
その広場にはキッチンカーが店を出していて、列が出来ているのが実は気になっていた。
私は列に並びコーヒーは飲めないので、オリジナルジュースを注文し椅子に座って休憩した。
花奈が産まれてから、一人でゆっくり息をつく時間はあまりなかった。
慌ただしい日々だけが過ぎて行く中で、こうして昼間に青空の下でのんびりと休憩できる事は、凄く久しびりな気がした。
私は何味か分からない、それでも美味しくてお代わりしたくなるこのオリジナルジュースを飲みながらふと昔のことを思い返していた。
丁度目の前を、空手か柔道の格好をした小学生くらいの男の子がお母さんと一緒に手を繋いで歩いて行った。
その姿は私が初めて岳を見た日と重なった。
岳は多分、その日を覚えていないと思う。
私達が初めて会ったのは小学五年生の頃だった。
県のスポーツをしている将来有望な小学生が集まって、講義とトレーニングとそのあとは各自の練習場所に行って練習をする。
そんな強化合宿で私と岳は初めて出会った。
ほとんどが六年生の中、私と岳は五年生だったので、年に二回あるその合宿に私達は二年連続で参加した。
友達になったわけでは無いけれど、なぜかお互い顔見知りになり中学生になってからは挨拶をする仲になった。
初めて岳を見た時、小学五年生なのに背が大きく大人びて見えた。
あまり喋らず、黙々とトレーニングをこなしていて凄く真面目そうな印象だった。
合宿が終わる頃には、何人か仲良くなる人達がいる中で、岳は多分誰とも仲良くならずにその合宿を終えた気がする。
そんな岳を私は、少しだけ気になっていた。
好きとかそう言うのではなく、ただ大河内岳がどんな人なのか気になった。
岳が空手している姿を一度見たいなと、小学六年の頃に思ったのを今でも良く覚えている。
だからか中学三年の時、初めて岳の試合を見た時、私の心は奪われてしまった。
岳は小学生の頃から真剣に空手と向き合っていたんだ。
あの合宿は、別に友達を作る為に行われた合宿では無い。将来有望になる見込みのある選手が有望になる為に集められた。
岳はあの頃から、空手に真剣に取り組んでいたのだろう。
『性格はプレーに出る』
テニスをしていて、この言葉は本当によく耳にしていた。
でもこれ程に性格が試合に出ている人はいるだろうかと思うくらい、岳の空手は初心者の私でも真面目で空手を愛している様に見えた。
岳の性格を当時は知らなかったけど、岳の性格はこうだろうなと想像できた。
私は、そんな彼のことが凄く魅力的に見えた。
そして実際に会って、彼の性格はやはりあの時に見た試合で感じたまんまだった。
そうだと分かった時、私の気になる感情は好きへと変わっていった。
「ママ」
遠くから花奈の声が聞こえた。
振り返ると、走る花奈とそんな花奈を追いかける岳の姿が見えた。
さっきまで私の頭の中には小学生の頃の岳がいたのに、今ではもう立派な父親だ。
二人の走っている姿を急に写真に収めたくなった。
二人は笑顔で私の前に立っている。
岳が紙袋から小さな花束を花奈に渡した。
「これどーぞ」
花奈はその小さな花束を私にくれたのだ。
「これ、花奈が自分で選んだ」
岳は花奈の頭を撫でながら説明している。
花奈が持っていたのは、一輪の赤いバラとかすみ草の花束だった。
私はこの綺麗な花束を花奈が選んでくれたのかと思うと、本当に心が暖まった。
花束ごと花奈を抱きしめ、頭を撫でた。
そして顔を上げると岳がもう一つ花束を持って立っていた。
「これは僕から」
そう言って、岳はもう一つの花束を私に差し出した。
そこには見慣れた花が包まれていた。
この花は本当に私の心を満たしてくれる。
その花束にはそんな力があった。
「ありがとう」
私は立ち上がって、その花束を受け取った。
「そろそろ帰ろうか」
岳の合図で私達は家へと歩き始めた。
私の胸には、花奈が初めて選んでくれた赤い花束と岳がいつもくれるピンクの花束があった。
長年気になっていた事が一つだけある。
果たして岳は、なぜ私に花束をくれるのだろう。
それに、なぜ毎回同じピンクの花束をくれるのだろうか。
岳はこのピンクの花が好きなのかな?
「ところで、なんでいつもこの花なの?」
これまでに貰った全部の花束が、同じこのピンクの花だと三回目に貰った時にやっと気が付いた。
一番最初に貰ったのは高校生の頃だった。
両親に反対され、コソコソとしていたあの頃。
卒業式の前日、岳が顔を赤く染めながら、花束をプレゼントしてくれた。
大学の頃、私達が一度別れを選んだ日、岳は私の前から消えた。戻って来たと思えば、いつもの花束を片手に走って帰ってきた。
『ありがとう』と笑顔で、花束をプレゼントしてくれた。
祝いも別れも、どんな時でも私は岳から貰うこの花束を胸に抱いていた。
岳の返事が無く、岳の方を見ると凄く驚いた顔をしていた。
私がもう一度『なんで?』と聞き返すと、岳は慌てて答えた。
「これはガーベラって言う花なんだ」
「ふーん。ガーベラって言うんだ。
いつも四本だよね?」
岳の耳が少し赤くなった気がした。
「何か意味があるの?」
すると彼は少し恥ずかしそうに照れながら、小さな声でこう言った。
「あなたのことを、一生愛し続けます」




