二十二話 三年生の冬
私にはやらなければいけなにことが山ほどあった。
就活、アルバイト、テニス、岳――。
よりを戻したからには、もうこれ以上立ち止まってはいられない。
急がなくてもいい。
ただ、前に進まなければまた同じことを繰り返すだけだ。何かどんなに些細な事でもいい。
どんなに小さな事でも何かのきっかけに繋がる。
私にはまだ、越えなければいけない山がいくつもあった。
いつからだろうか。
実家に帰省する事がこんなに憂鬱になったのは。
高校生の頃、岳との事があってからは、逃げるように進路を決めた。
そして勢いだけで一人暮らしを始めた。
あれからもう三年が経とうとしている。
私は家族が好きだ。でも今はその感情が自分の中で凄く重荷になっている。
年末は実家に帰ると連絡したのは夏だったはずだ。
帰省するまでに一週間を切った今、どうしたらいいか分からない。
それでも帰らなければ。
逃げた場所に戻ることは、逃げれば逃げるほど、時間が経てば経つほど、再起不能になる事を私は知っているから。
いざ自分の家に着くと、結局は落ち着く場所ではある。お母さんの言葉を聞いて更に緊張が解けた様な気がした。
「おかえり、今日はお父さん出張でいないの」
今日の日付を指定したのは珍しくお母さんだった。
「お母さん、紬と二人でゆっくり話たかったのよ」
そう言いながら、久しぶりの母の料理を堪能した後、テーブルの上に置かれたコーヒーを飲みながら母は話し始めた。
少ししてから、私がコーヒーに手を付けてないのに気付いたのか母が尋ねてきた。
「コーヒー苦手だった?」
「ごめん、コーヒー飲めない」
「あら、いつもお兄ちゃんに出してる癖で」
中々家に帰って来ないから、好き嫌いを忘れてしまったと、少し無邪気に怒りながらもホットミルクを作ってくれた。
「お母さん、ごめんね」
母の動きが一瞬だけ止まった。
完成した熱々のホットミルクを私の前に置いて、隣に座り、母は自分のコーヒーを一口飲んだ。
そして母は微笑みながら私に言った。
「がっくんとはどうなの?」
私はなんて答えようか悩んだ。
でも、ここで誤魔化したところで何も変わらない。
今なら――、母になら――。
「一回別れたんだけど、
すぐによりを戻して...ごめん」
私は母の顔を見れずに、ホットミルクのマグカップから出る湯気を見つめていた。
両親に岳とは別れなさいと言われ、別れたと嘘を付いて逃げるかの様に大学生になった。
はっきりと付き合ってると断言したのは、あの日以来だった。許して貰おうと二人でこの家に通っていた時でさえも、私達は別れている設定だった。
正直母の返事を聞くのは怖かった。
だから母の言葉に驚いた。
「なんで謝るのよ」
そして母は続けた。
「お母さんはもうとっくの前に許してるんだけど」
私は視線をゆっくりと母の方に向け、もう一度聞き返した。
母は『やっぱり』と何かに確信しながら話し始めた。
「高校の時はね、やっぱり紬が心配だったし、事件が本当かどうかも分からないし。それでも悪い噂だけは広まるしで……時間が経てば二人は別れると思ってたの」
私は当時の状況を思い出した。
両親に心配され、反対され、それでも大学で家からは通わずに一人暮らしを許してくれたのは、そう言う事だったのかと。
そらそうだなと今なら頭で理解できる。
高校の恋愛がそのまま続くことは珍しい。
大学に入り今まで以上に出会いが沢山ある。
ましてや私達は特殊なケースで、別れろと反対されているカップルだった。
少しの気持ち、ただ好きと言う感情だけでは私達の関係は続かない。
それは大学生になって、少し経つまでは気づかなかった。
「がっくんから聞いてない?」
母は信じ難い表情で私に聞いているけど、私の方が信じられない。
母がその様に思ってくれていた事を。
そして岳は何でその事を私に教えてくれなかったんだろうと。
「これまでにもがっくんは、何度も一人で家に来てくれて。最近も来てくれた時、丁度お父さんがいなくて二人で話したの。その時にがっくんに言ったんだけどね」
岳が一人でこの家に通ってたなんて知らなかった。
私は何も知らなかった。本当に、何も。
一体岳は、どんな思いで、この家に通っていたんだろう。どんな思いで私と会っていたんだろう。
私は一体、岳に何をしてあげれるだろうか。
私は岳の横にいて、岳は本当に幸せなのだろうか。
私達の考えは、全ての行動は正解なのだろうか。
急に不安と責任感が私に降り注ぐ。
「あんなに毎回、スーツを着てきてくれるんだもん。最初だけかと、そう続かないと思っていたけど、あれはもう誠実以外の何者でもないね」
付き合いたてだった頃の岳の印象と、何一つ変わっていないと言ってくれた母。
岳の頑張りは、岳の努力はこんな所でも発揮されていた。
本当に岳の性格は誠実の何者でも無い。
それは私が一番分かっている。
それが母にも伝わったのが心の底から嬉しかった。
私は母に恐る恐る聞いた。お父さんの反応を。
すると母は横に首を振った。
でも母の答えは前向きな言葉だった。
「まだだけど、お父さんなりに何か考えてるみたいよ」
これは少しどころでは無い。
大きな進歩だ。
私達にもやっと、越えることのできる目的の山が見えてきた。
後はその山に目掛けてひたすら歩くだけだ。
その山に向かって進んでいくだけだ。
夜ご飯を食べてすぐに自分の部屋に戻った兄が、リビングに戻ってきた。
冷蔵庫を漁り、缶ビールを取りまた部屋へと戻っていく所だった。
「あとは、親父だけだな」
リビングのドアを閉める前に、捨て台詞の様に兄は言った。
兄は本当に空気の読める人間で、怖いくらいに私の事は全部お見通しだ。
感情や行動やその他全てが兄には分かるらしい。
私からすると本当に頼りになるお兄ちゃんだ。
「お兄ちゃんは?」
「俺は最初っからずっと二人の味方だよ」
兄はカッコ良くその言葉を残して姿を消した。
これまでに私達二人は、兄にどれほど助けられて来ただろうか。兄がいなければ、私はもっとこの家に居づらくて帰って来れなかった。
岳にとっては、私の家族に一人でも味方がいる事は、本当に大きな励みになっただろう。
私達が折れないで今日まで来れたのも、兄の存在は大きい。
以前兄に、もう別れてもいいのではと言われた時、兄も遂に家族の重荷である私達の味方をするのも限界が来たのかと思った。
兄の言葉は妙に説得力があり、全てを辞めてしまった方が良いのではと、今までの時間を否定された時でも、兄には感謝しかなかった。
今まで味方をしてくれてありがとう。
何より私達を信じて見守ってくれてありがとうと。
それだけで十分だった。
だから兄は、今は反対しているとばかり思っていた。また岳とよりを戻した事を、本当は良い風に思っていないんだろうなと。
兄の後ろ姿は逞しかった。
この背中で語る『味方』は本当に心強い。
この日は小さな山を何個も登り終えた気分だった。
頂上で見る景色の様に爽快な気分だった。
あとは一番大きな山をどう乗り切るかだ。




