九話 いつもの日常が
月に二度ある日曜の午後オフ。
私は初めて岳の家に行った。
家には、岳とお母さんがいた。
「お邪魔します」
家に着けば玄関でお母さんが迎えてくれた。
「わざわざ来てもらってごめんね」
岳のお母さんとは何度か挨拶をしたことがある程度だった。
今日は少し話がしたいと岳のお母さんに誘われたのだった。
「先に僕が話をする」
そう言って岳に案内され、私は岳の部屋に行った。
岳は私にこれまでの会えなかった日に、何をしていたのか説明してくれた。
その内容はとても残酷だった。
私はその話を泣かずには聞いていられなかった。
警察署で何度も聞かれる事件当日の話。
でも岳には答えようが無かった。
だって何も知らないから。
ただ岳の鞄に『笹原の高価な私物』が入っていただけ。
「顧問にも説明したけど、
味方にはなってくれなかった」
岳はこの件のほとんどを諦めていた様子だった。
見た感じからして明らかに弱っていた。
毎日毎日、やってもない罪を慣れもしない警察署で押し付けられ、それでも自分自身の為にやってないと主張し続ける。
でもそれもそう長くは続かない。
岳の気力はもうほとんど残っていなかった。
事件の後、岳が警察で取り調べを受けたのは合計で五日間。それでもまだ取り調べは続きそうだった。
岳になんて声をかけたらいいのかも分からず、ただ時間だけが過ぎていった。
私の様子を見た岳のお母さんは、また今度話すねと気を使ってくれた。
結局私はお母さんの話を聞くことなく家に帰った。
「がっくん?久しぶり」
母が丁度買い物から帰った来た所だった。
私達が付き合っていることは高校一年の頃から知っていて、応援してくれている。
私の母はまだ、事件の事を何も知らない。
「お久しぶりです。それでは」
岳はそう言って、帰って行った。
少し逃げるように帰って行った気がした。
「何かあったの?
顔付きとかが前と全然違うけど……」
母にはいつか言おうと思っていた。
だから私はこのタイミングで私は母に全部話した。
とても勇気のいる事だった。
その話の中には私の意思も付け加えた。
岳を信じ岳とはこの件では絶対に別れない。
私は力強くそう母に伝えた。
「そう。大変だったね。
早く解決すればいいね」
母はそれだけ言ってご飯を作り出した。
夜ご飯は岳話題が出ることもなく、いつもの様に他愛無い会話をしてその日は終わった。
人の心は思っている以上に脆いみたいだ。
人の心は、本当にガラスで出来ている様だ。
人の心は想像以上に、割れやすい様だ。
人の心は簡単に……消えてしまう様だ。
引退をした私は、最近時間があれば岳の家に行って、二人で一緒に過ごすようにしている。
その頃、岳の精神は学校に登校できなくなるまで追い込まれていた。
人と会えなくなるまでに、メンタルは削られていた。
担任に聞くと、一応は解決して取り調べも終わったと、私は一週間前には知らされていた。
でもどんなに待っても岳が登校することはなかった。
だから私と岳が会うには、直接岳の家に行くしか方法は無かったのだ。
まさか、あの岳が...。
それほどに、ここ何日間かは過酷な日々だったのだろう。
そんな岳を支えたいと、使命感さえ生まれてきた。
しかしある日、いつもの様に岳の家に行ってくると母に知らせると、止められた。
母は近くにいた父の方を見てから少し話をしようと私をソファーに座らせた。
「岳君とは別れなさい」
隣に座り父は確かにそう言った。
その横を見れば母も黙って頷いている。……最悪だ。
私はすぐに否定した。
私の性格は父に似て頑固だ。
父もそのことは誰よりも知っているはずだ。
私は泣きながら自分の意思を訴えた。
「紬ががっくんに貢がせているって噂を聞いたの。
がっくんは最近お金に困っていて、だからがっくんが犯人で間違いないだろうって。
みんな紬を心配していたのよ」
母の口から出てくるその言葉に私は、驚きを隠せないでいた。
また噂に噂を重ねた作り話が実在している。
そうやって勝手に犯人だと決めつける。
情けなくもなった。
自分の母までもがそんな噂話を信じ、岳を犯人扱いする。
何でそんな、誰かが作り上げた話を間に受けるんだ。自分が見て来た事実だけを信じれば、そんな思考にはならないはずだ。
私は悔しくて涙が止まらなかった。
そんな事よりも早く岳の元に行きたかった。
「日頃から周りに信頼があれば、こんな噂話は生まれない」
父が言ったその言葉は何よりも残酷だった。
岳は誰よりも周りから信頼されている。
この噂話を信じているのは岳の事を知らない人だけだ。
岳は見た目は少し怖いが、それは人見知りをしているだけ。
言葉は少なく誤解されやすいが、話せばその良さが十分に伝わる。
岳は心から空手を愛している。
岳は何より空手が大好きなただの少年だ。
私がどんなに説明をしたところで父から帰ってくる言葉は否定的なことばかりだった。
「彼女の紬にはやってないと言うだろ」
父からその言葉を聞き、今は何を話しても無駄だと私は自分の部屋に閉じこもった。
岳から一通のメールが届いたのはその二日後だった。
『紬ごめん。もう誰も信用できない』
それは、まるで合図の様だった。
岳が完全に壊れてしまう合図。
学校の朝のホームルームで担任が、岳の退学を知らせた。
私はこの一ヶ月でたくさんの涙を流したからだろうか。
それとも私もまた人の言葉を信用出来なくなってしまったのだろうか。
悔しくて涙も出なかった。
そんな私を冷たい人間と思う人もいるかもしれない。それもこれも全部もうどうでもよくなった。
そして皮肉にも、一週間が経てば、岳を疑い犯人扱いしていたその人たちは、完全に岳を忘れ、何も無かったかの様に明るい普通の日常生活に戻る。
たった一週間だ。
あれほど好き勝手に周りが盛り上げていた話は、一週間も経てば、跡形も無く消え去った。
まるで、私と岳だけがあの日に取り残された様だった。
私達の波は収まったのだろうか。
私達は確かにたどり着いた。
でも、どうやら目的地とは真逆の砂浜だ。
ここまで来た道のりを思い返せば、本当の目的地に着くにはたくさんの時間と仲間と道具が必要だ。
そして私達は選択しなければいけない。
ここに残るか、前に進むか。
また、激しい波に立ち向かって行くのか、ここに留まるのか。
ここから眺める目的地の砂浜までに、たくさんの山が見えた。
これから、この山を一つ一つ越えるのか、別れるかの選択が私達には迫っていた。