第20話 テイシアとヴァルトの過去
アレクサンダー王国・王都グラン=ベルフィア
その中心にそびえる王城は、白金の尖塔と緋色の屋根を持つ、威厳と優雅さを併せ持った建築だった。だが、重厚な石壁の内側で、ひときわ明るく笑っていた小さな影がいた。
「ヴァルトお兄さま! こっちです、早くっ!」
金色の髪を陽光に揺らし、少女が走る。その手に持った籠には、庭園で摘んだばかりの小さな花が詰まっていた。
その後を、すらりとした少年が追いかける。黒髪に淡い灰色の瞳。整った顔立ちには、既に王族らしい冷静さが漂っていたが、今は珍しく柔らかい微笑を浮かべていた。
「待て、テイシア。走るな、転ぶぞ」
「だいじょうぶです! 今日は風が気持ちいいんですから!」
無邪気な笑顔が弾ける。兄ヴァルトは、軽くため息をついたあと、妹の頭をそっと撫でた。
この庭は、二人の“秘密基地”だった。
王族といえども、王宮での生活は窮屈だ。日々の教育、礼儀作法、護衛の監視、そして、常に人の目がある。だが、この南庭の片隅だけは、古い樫の木に囲まれた空間で、ふたりだけの時間が流れていた。
ヴァルトは、いつもこの妹の笑顔に救われていた。
王家の次男という立場は微妙だった。長男のレオニス王太子が父王の寵愛を受け、次期国王として育てられる中、ヴァルトには「その補佐たる者」としての役割が求められた。政治ではなく、軍事と統治。時には、外交のための“切り札”としても。
だからこそ――
「お兄さま、見てください。猫ですよ、白いの!」
「……ああ、本当だな。名前はあるのか?」
「まだ決めてません。お兄さま、何かいい名前ありますか?」
「そうだな……“ミルク”とかどうだ。白いから」
「かわいい! じゃあミルクにします!」
何気ないやり取り。その一つひとつが、ヴァルトにとっては宝だった。
テイシアは、王家の中でも特別な存在だった。金色の髪と翠の瞳を持ち、民にも人気が高く、「太陽の姫君」と呼ばれていた。その愛らしさ、聡明さ、そして人懐こさは、誰の心にも届いた。
だが、そんな妹が王宮から追放されたのは、彼女がまだ十四の頃。
王家内での権力争い、王太子との対立、そして“反逆の意志あり”とされた偽りの証拠――すべては、周到に仕組まれた陰謀だった。
その真実を知ったとき、ヴァルトは激しい怒りと無力感に襲われた。
「なぜ……父上は……!」
だが彼は何もできなかった。己の地位では、王の決定に逆らえない。
それでも。
最後の日、彼は誰にも見られぬよう、城門近くまで駆けた。
見送りすら許されないとされていたが、どうしても、一目会っておきたかった。
「……ヴァルトお兄さま?」
軽装の馬車の窓から、テイシアが顔を出す。
その顔には、涙の跡があった。
だが、彼女は笑っていた。
「来てくれたんですね。うれしい……」
「……テイシア。すまない。守ってやれなかった」
彼は拳を強く握り締め、声を震わせながら言った。
「違います。私は……私の意志で、行くのです」
そう言った彼女の目は、王宮にいた頃よりもずっと強く、そして優しかった。
「お兄さま。私、絶対に生きます。そして――」
その言葉は風にかき消された。だが、ヴァルトには分かった。
彼女は“何か”を守ろうとしている。
そして自分とは違う道を歩もうとしている。
その背を、ヴァルトは何も言わずに見送った。
それが、彼女と交わした最後の会話だった。
――それから幾年。
ヴァルトは知った。テイシアが生き延びたことを。ラインという男に助けられ、王国を倒す側に立ったことを。そして、彼と結婚し、連邦を建国したことを。
胸が、ひどく痛んだ。
裏切られたような気がした。
彼が命を賭けて守ろうとした王国を、妹が滅ぼしたという現実。
だが、それでもなお、ヴァルトの記憶には、あの庭で微笑む少女がいた。
「……お前は、本当に変わってしまったのか、テイシア」
それとも――
「俺が、変わってしまったのか」
問いの答えは、いまだ闇の中にある。
だが、彼の剣は迷わない。
血と運命に導かれ、ヴァルトは再び妹と対峙するその時を待ち続けていた。




