第9話 ライン、水鏡の門を越えよ
朝霧がまだ森の地表に残る頃、ラインとアルテイシアは静かに歩みを進めていた。
深まる緑の中、鳥のさえずりと風のざわめきが心地よく響いているが、その裏に潜む違和感を、ラインは敏感に感じ取っていた。
「人の気配が……どんどん遠くなっていくな」
「それだけ、隠された場所なんでしょうね。集落って、本当にあるのかしら?」
アルテイシアが草をかき分けて前を見る。道らしい道はすでに消え、ただの獣道すらも見当たらない。
「酒場で聞いた噂話によると“水鏡の門を越えよ”ってあったな。それが唯一のヒントだ」
「水鏡……ってことは、水の中に入り口が?」
「滝だと思う。あの地形からして、森の奥にあるはずなんだ」
二人はさらに奥へ進む。やがて、岩壁の向こうから水音が聞こえてきた。滝の音だ。
苔むした岩を乗り越えると、視界の先にそれは現れた。
それは、幅の広い見事な滝だった。高さは十数メートル。陽の光を浴びて流れ落ちる水は白銀に輝き、その表面には確かに“水鏡”のような光のゆらめきが生まれている。
「これが……水鏡の門?」
「可能性は高い。だが……」
ラインは滝の周囲を調べ始めた。岩壁に隙間がないか、後ろ側へ回れないか。だが、見たところ、ただの岩と水しかない。
「隠し道があるなら、この中だろうな」
「でも、ただ飛び込んでも意味はないわよね」
アルテイシアも慎重に水際を調べていくが、それらしい入口は見当たらない。
太陽が昇り始め、時間だけが静かに過ぎていく。
「くっ……なにか見落としてるのか」
ラインが苛立ち混じりに岩に拳を打ち付けたときだった。
「……あれ、見て」
アルテイシアが滝の少し下流を指差した。
そこに、小さな動物がいた。狐のようにも見える、だが尾が二股に分かれた不思議な獣だ。黄金の毛並みが日差しを受けて輝いている。
「珍しいな……野生じゃ見たことがない」
ラインが見つめていると、その狐はひょいと滝に向かって歩き出した。そして――ためらいもなく、滝の真下へと飛び込んだ。
「今の……滝の中に、入った?」
「信じられないけど……たしかに、見えたわ」
ラインとアルテイシアは顔を見合わせ、そっと滝に近づいていく。
滝の裏側に立つと、驚くべきことに、そこにはうっすらと岩と岩の隙間があり、わずかに奥へと通じる空間があった。
「見つけた……!」
「狐が、導いてくれたのね」
滝の水しぶきを浴びながら、二人はその隙間へと足を踏み入れる。中は思いのほか広く、ひんやりとした空気が満ちていた。
洞窟のような通路を抜けると、やがて一筋の光が差し込んでいるのが見えた。
「この先が……?」
ラインが歩を進めると、突然、目の前が開けた。
そこには――
木々に囲まれた広い空間。中央には澄んだ泉があり、茅葺きの家々が静かに並んでいる。どこか懐かしい、そして時間の止まったような景色だった。
「……村だ。本当にあったんだ」
「こんな場所、信じられない……」
アルテイシアが感嘆の息を漏らす。空には鳥が舞い、畑にはまだぬくもりが残っている。誰も見ていないはずの村なのに、まるでついさっきまで人がいたような雰囲気が漂っていた。
「でも、人の姿が見えないわね」
「……いや、気配はある。見られてる」
そのときだった。
泉のそばの木陰から、あの狐が姿を現した。そして、ラインたちの前にちょこんと座ると、すっと頭を垂れた。
「……お前が、導いてくれたのか?」
狐は一度だけ鳴くと、今度は村の奥へと歩き出す。
二人はそのあとを追いかけるように進んだ。
やがて、村の奥にあるひときわ大きな屋敷の前にたどり着く。
そしてその扉が、音もなく開いた。
中から現れたのは、銀髪を後ろに束ねた老人だった。目元は深い皺に覆われていたが、その瞳は驚くほど鋭く、澄んでいた。
「……よくぞ、辿り着いた。水鏡の門を越えし者たちよ」
老人の言葉に、ラインとアルテイシアは一瞬、息を呑んだ。
「あなたが……この村の長?」
「さよう。ここは“隠れ里フィエル”――王家に追われし民が隠れ住む、最後の避難所よ。森と水に守られし地に、ようこそ」
その言葉に、狐がぴたりと老人の足元に座った。
「この子が、導いてくれました」
「……精霊獣だ。この村を守る者のひとり。お前たちが心正しく、傷なき者と知ったからこそ、門を開いた」
ラインはゆっくりと頭を下げた。
「俺たちは、ただ……身を守る場所を探していた。争いを望む者じゃない。だから、せめてこの村の掟には従います」
「それでよい。だが、この村に住まうには、ひとつだけ……試練を受けねばならぬ」
「試練……?」
老人は頷いた。
「“森の心臓”を見つけ、精霊に問うのだ。この村に何をもたらすか――それが、お前たちの資格を決める」
滝を越えた先にあった村。それは終わりではなく、新たな運命の始まりだった。