第10話 ミリーナ=ヴァイスの恋
「誇りと恋のあいだで」
――ミリーナ=ヴァイス視点
砦に初夏の風が吹き始めた頃、ミリーナは妙にそわそわしていた。
理由は分かっている。
近々、ラインが周辺領の視察に出かけるのだ。
テイシアは妊娠中で同行できず、エイミーは魔術師団の再編で忙しく、ラービンとユイナも別任務があるという。
結果、同行者の一人に選ばれたのが――ミリーナだった。
「視察、と言っても、一泊二日程度の短い旅になる。あまり気負わずにいこう」
出発前、ラインはいつもの調子で言った。
気負わないで、と彼は言った。だが。
(それが無理な話だということ、あなたには分かっていないのですね……)
心臓は早鐘のように鳴っている。視察にかこつけた、たった二人の時間。いや、もちろん護衛や従者はついてくるのだが、王城を離れ、自由な時間をともに過ごす機会など、めったにない。
(こんなに緊張するなんて、私らしくもない)
だが――期待してしまう。この旅で、ほんの少しでも、ラインの隣にいる意味を掴めるかもしれないと。
◆
視察先は、自由連邦の西端、かつて戦場となった村だった。
今は再建が進み、住民たちが自らの手で新たな生活を築きつつある。
ミリーナは、その様子を真剣に見つめていた。
そして、ふと気づく。ラインが、村人たち一人一人の名前を呼び、話を聞き、肩を叩いて笑っていることに。
彼は、剣だけの男ではない。人の言葉を受け止め、痛みを覚え、希望を繋げる力がある。
「……すごいですね」
「ん?」
「あなたは、剣で戦うだけじゃない。“王”のように振る舞っている」
そう告げると、ラインは少し驚いた顔で、そして――苦笑した。
「王には、なれないよ。俺の剣は、人を治めるためじゃなくて、守るためにある。だから……俺は“剣聖”でいたいんだ」
その言葉に、ミリーナの胸が不思議と熱くなる。
彼の目指す場所は、玉座ではない。民のそば、仲間の前、戦場の先――。
その背を支えられるなら、どれほど誇らしいだろう。
◆
夜。
視察を終えた一行は、村の集会所に泊まることになった。
各自が休む中、ミリーナは眠れずに外へ出た。
星が、空に瞬いていた。
そのとき、隣に気配がした。振り向くと、やはりラインだった。
「眠れないのか?」
「ええ……少し、頭が冴えてしまって」
「同じだな」
二人並んで、静かな夜の村を見つめた。
しばしの沈黙の後、ミリーナは意を決して言った。
「……私、怖いんです」
「何が?」
「このまま、あなたの“誰か”になれずに終わってしまうのではないかと」
ラインが目を見開いた。
ミリーナは、視線を外さず続けた。
「私は貴族です。誇り高く、誰にも媚びず生きてきました。でも、あなたのそばにいると、それだけでは足りないと気づいてしまった」
手が、微かに震える。だが彼女は逃げなかった。
「私は、あなたを――尊敬し、信頼し、……そして、きっと、好きなのだと思います」
言葉を告げた瞬間、胸の中にずっとあった靄が晴れていくのを感じた。
ラインは少しだけ黙り、やがて静かに微笑んだ。
「ありがとう、ミリーナ」
その声に、少しの温もりがあった。
肯定ではない。だが否定でもなかった。
彼の中で何かが、動いたのだと、確かに分かった。
「お前のその誇りは、ちゃんと俺にも届いてる。……でも、もっと自然でいてくれていい。鎧を外したお前も、きっと魅力的だ」
「そ、それは……っ!」
顔が、火照っていた。慌てて横を向くと、ラインは少しだけ照れたように笑っていた。
その笑顔を見て、ミリーナはふと気づいた。
自分が本当に欲しかったのは、「妻」の座ではなく、彼にまっすぐ向き合えるこの時間なのだと。
(私は、焦っていたのかもしれないわね)
隣に立つこと。比肩すること。それも大事。
でも、それ以上に――彼に想いを伝え、自分を知ってもらうこと。
そうしていつか、彼が必要とする“特別な一人”になれたら、それが何よりの幸せなのだと。
◆
帰還の朝、ミリーナは荷馬車に荷物を載せながら、ふとラインに声をかけた。
「ねえ、ライン様」
「なんだ?」
「次の視察にも、私を連れていってください。今度は、もっとあなたの隣で、堂々と歩けるようにしておきますから」
彼は少し目を見開いたあと、力強くうなずいた。
「ああ。頼りにしてるよ、ミリーナ」
その一言が、剣よりも強く、彼女の胸に突き刺さった。
(私は、まだ歩き始めたばかり)
でも、確かに。
この恋は、少しずつ動き出している。




