第8話 ライン、アルテイシア、二人の逃亡劇!
「森の奥、逃避の夜にて」
倒れた追手たちを振り返ることなく、ラインはアルテイシアの手を取って森の奥へと走った。
深い深い森の中――
木々は風を防ぎ、足音すらも吸い込んでいく。
陽は傾き、やがて闇が全てを覆い隠していった。
「……ここなら、しばらく見つからないだろう」
やがてたどり着いたのは、苔むした大岩の陰。
木々に囲まれたそこは、外からはほとんど見えない天然の隠れ家だった。
ラインは焚き火の準備を始め、火打石でパチパチと火花を散らす。
やがて小さな炎が灯ると、アルテイシアの表情にもようやく安堵の色が差した。
「……あなた、すごいわ」
呟くように、アルテイシアが言った。
「なにがだ?」
「こんなに冷静でいられるなんて……さっきだって、私……怖くて、動けなかったのに……」
ラインは火を見つめながら、小さく笑った。
「怖くないわけじゃないさ。ただ、俺は逃げ慣れてるだけだ」
「……逃げ、慣れてる?」
「最近、パーティを追放されてな。大切な人に裏切られて、信じていた奴らにも捨てられて……。だから、逃げることはもう、慣れてるんだ」
ぽつり、と落ちるその言葉に、アルテイシアの胸が締めつけられる。
(そんな過去が……)
自分の境遇と、どこか似ていた。
閉じ込められ、縛られ、利用され――
そして、逃げた。
「……でも、私は……あなたに出会えてよかった」
言葉にしてから、頬が火照る。
けれど、それは彼女の本心だった。
ラインは少し驚いたような顔をして、それから照れくさそうに頭を掻いた。
「お前、王族の割に……いや、姫様ってのに、ずいぶん素直なんだな」
「姫様なんて、やめて。……今はただの、アルテイシアでいたいの。ううん、ラインには、テイシアと呼んで欲しいは」
それは、彼女の強い願いだった。今までのアルテイシアはもういない。これからはテイシアとしてラインと共に生きていこう。
◇
夜が更けるにつれて、森は冷え込み、焚き火の灯りが頼りになる。
アルテイシアは毛布を肩にかけて、ラインの隣に座っていた。
焚き火の炎に照らされる彼の横顔は、いつも以上に静かに見えた。
「……私、未来が少しだけ視えるの」
ぽつりと漏らすと、ラインは視線を向ける。
「それが《天啓の瞳》ってやつか」
アルテイシアは小さく頷く。
「子供の頃、夢で見たの。ある日、城が火に包まれて、兄が……兄が泣きながら私を睨んでいるの。死ぬ未来……。怖くて、誰にも言えなかった」
肩が震える。
思い出したくない記憶だった。けれど、彼には話せた。
「……兄王子のクラウスが、天啓の瞳が開眼したのは嘘だ。虚言だ!王位が欲しいだけだろうと言ったの。だから、私が邪魔になったから、辺境の伯爵家と婚約を結ばせたのよ。表向きは政略でも……本当の狙いは辺境の地でわたしを殺すこと……」
その言葉に、ラインはしばらく何も言わなかった。
ただ、静かに焚き火を見つめる。
やがて、ぽつりと。
「未来ってのは、変えられるもんだと思うぜ。少なくとも、“逃げた”お前が、今こうして生きてるんだからな。そして、俺がお前を殺させやしない。俺が守る」
その言葉に、アルテイシアの胸が、すこしだけ軽くなった。それと同時に熱い気持ちが、嬉しい気持ちが胸いっぱいに広がっていくのを感じた。
「ねぇ……もし、また追手が来たら、どうするの?」
「また逃げるさ」
即答だった。
「でも、戦えば……」
「勝てない。今の俺じゃな」
肩をすくめる彼に、アルテイシアはつい口を尖らせた。
「そんなにあっさり言わないでよ。私は……もう、誰も死んでほしくないの」
ラインはその目を見て、小さく頷いた。
「……わかった。お前は俺が絶対に守るから安心してくれ」
(――この人は、どうしてこんなにも優しいの?)
不器用だけど、真っ直ぐで。
剣を捨てても、人を守ろうとする――
そんな彼が、胸の奥に静かに、強く根付いていくのを感じた。
◇
翌朝、彼らはさらに森の奥を目指して歩き出した。
草木が深くなるにつれ、人の気配は消えていく。
鳥の声、木の葉のざわめき、そして互いの足音だけが世界を満たしていた。
「この先には、もう地図にも載ってない集落がある。魔獣も出るが、王都の兵はほとんど来ない」
「……じゃあ、そこが私たちの避難先?」
「一時的にな。ずっとは無理だ」
「でも……」
「お前が望むなら、俺はどこへでも連れていくよ」
まっすぐに言われて、アルテイシアは小さく笑った。
「……それって、すごく心強い言葉よ?」
「俺の口は軽いけど、剣は重いからな」
冗談めかしたその言葉に、アルテイシアは声を上げて笑った。
その笑い声は、森に溶けるように響いた。
◇
だが、その森の陰――
追手の残党が、倒れた仲間を確認し、唇をかみしめていた。
「マンドレイクを使っただと……?」
苦々しげに呟いたのは、クラウス王子直属の密偵《黒鴉》の男。
銀髪の剣士――何者なのだ?
「このまま放っておけば、姫様は“あちら側”に落ちる」
王子の命令は、「できれば生きたまま連れ戻せだった」。
だが、状況が変われば、命令の意味もまた変わる。
「必要とあらば――生死を問わずに変わるか」
小声でそう呟いた男は、静かに森の闇へと姿を消していった。
逃避行の先に待つのは、まだ見ぬ安寧か、さらなる試練か。
けれど、少なくともいま、二人は確かに“希望”の中にいた。