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第7話 アルテイシア、剣士ラインという男

「姫の逃亡と祈り」



 風が頬を打つ。けれど、その風の温度すら感じ取れない。


 ――私は、どうしてこうしているのだろう。


 東の森へと続く街道。

 その脇に広がる河原で、アルテイシアは泥にまみれて倒れていた。

 身にまとうドレスは、もはや上質な絹ではなく、ただの濡れた布のように身体にまとわりついている。


 呼吸は浅く、喉はひりつき、視界の端は霞んでいた。


 (だめ……ここで捕まれば、すべてが終わる……)


 恐怖が、喉の奥にへばりついている。

 それを振り払うように、ふらりと手を伸ばした瞬間――


 「おい、大丈夫か!?」


 その声は、まるで遠雷のように耳の奥で響いた。

 視界に映ったのは、銀の髪、そして凛とした双眸。


 彼の名は――ライン。


 あとから思い返せば、奇跡のような出会いだった。

 この地に、彼がいたこと自体が信じがたい偶然だったのだ。まるで天の助けのような何らかの力があったとしか思えない状況だった。


 「……たすけて……お願い……いっしょに……にげて……」


 懇願だった。

 まるで幼子のように、縋るしかなかった。


 なぜなら――彼女を追う“あの人々”が、すぐそこまで迫っていたから。


 ◇


 王都を抜け出してから、すでに三日が過ぎていた。


 王子クラウスからの無理やりな婚姻話。

 それは政略であり、ライバルである王女の王位継承権を奪うためのものだった。


 アルテイシアに眠る《天啓の瞳》。

 未来を視るその力が目覚めたのだ。それは次期、王位継承権を得る資格であった。

 それを疎み、恐れ、なかったことにしようとしたのが、クラウスだった。アルテイシアの天啓の瞳が開眼したことが知られれば、自分は王位の座から転落する。


 「アルテイシアの力は、まだ本物かどうかわからない。虚言かもしれない」


 微笑の奥にあった、冷たい意志。

 それを感じ取ってしまったとき、彼女の心に芽生えたのは「逃げたい」という願いだった。


 (私は……消されるかもしれない)


 たとえ、生き残ったとしても、婚姻先の屋敷に幽閉され、ただ生きるだけの存在にされる。

 ここは危険だ!逃げろ!まるで天啓でも受けたかのように、アルテイシアは王宮を飛び出したのだ。


 だが現実は、逃亡劇など容易ではなかった。

 追手の影、道中の罠、そして貴族の視線……。


 そんな彼女にとって、ラインの存在は一縷の光だった。


 ◇


 東の森の奥。

 幾重にも入り組んだ樹々の下、彼女はラインの背を追っていた。


 「足、まだ痛むか?」


 彼は気遣うように振り返る。


 「……平気。もう……走れる」


 心はそうではなかった。

 鼓動は早く、身体はまだ震えていた。


 けれど――


 (この人がいるなら……まだ、大丈夫だ)


 不思議だった。

 初めて会ったはずなのに、ラインの背中はどこか懐かしい。


 (なぜ……こんなにも、胸があたたかくなるの?)


 森を抜けた先、少し開けた地に着いたとき、ラインはぴたりと足を止めた。


 「……ここだ」


 その場に根付く植物を見て、アルテイシアは息を呑んだ。


 「……まさか、これ……マンドレイク?」


 「そうだ。逃げ場がないなら、せめて“迎撃”するしかないからな」


 戦うつもりなのだ。あの追手たちと。

 いや、違う――戦って勝つのではない。殺さずに、逃げるための手段だ。


 (……この人は、誰も傷つけたくないのね)


 ふと、あの人――兄のクラウス王子を思い出した。

 彼なら、迷わず剣を抜き、追手を斬っていただろう。

 だがラインは、ただ一言――


 「アルテイシア、耳を塞げ!」


 そして、引き抜かれた“それ”から、叫びが響いた。


 ――ギイイイイイイイイィィィィィィ!!


 目を閉じて、耳を覆っていたはずなのに、頭が割れるような音が内側から響く。

 木々が軋む。空気が震える。心臓すら止まりそうだった。


 (……ライン!?)


 叫びの終息とともに、アルテイシアは恐る恐る目を開けた。

 地面には、追手たちが倒れている。


 そして――その中心に、ラインもまた、倒れていた。


 「ラ……ライン!?」


 駆け寄って、その顔を両手で包む。

 頬を叩き、何度も名前を呼ぶ。


 「目を開けてよ! お願い……いや、いやだよ……ここで……」


 言葉にならない。

 あふれてくるのは、ただただ、恐れと後悔と――悲しみ。


 そのとき、彼がゆっくりと目を開いた。


 「……え? よく聞こえない。あ、そうだ……これを取らなきゃな」


 耳から取り出したのは、小さな耳栓。


 「格好悪くてすまないな。剣ではこいつらに勝てそうもなかったからな」


 微笑むその顔が、なぜか眩しかった。

 アルテイシアは堪えきれず、ラインに抱きついた。


 「……良かった。本当に……良かった……死んだかと思ったんだよ……」


 声が震える。

 腕の中の温もりが、たしかにそこにある。


 (この人は、私を助けてくれた)


 私のために、命を賭けてくれた。

 その事実が、何より心を満たす。


 (あの王宮では、こんな気持ち……一度もなかった)


 アルテイシアは、ラインの背に顔を埋めながら、静かに誓う。


 (私はもう、あの世界には戻らない。たとえ兄が敵になろうとも――)


 心に芽生えたのは、かつて持てなかった“決意”だった。


 ◇


 森は静かだった。

 夕陽が木々の隙間から差し込み、二人の影を長く伸ばしている。


 その日、アルテイシアは確かに世界を変えた。


 誰かに従うだけの姫ではなく、誰かを信じるために選ぶ“少女”として。

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