第63話 テイシアの想い
「剣の影、心の影――テイシアの想い」
ダンバリー城が陥落したのは、三日前の朝だった。
陽が昇るよりも早く響いた戦の喧騒。矢が飛び交い、魔術が炸裂し、剣が交錯する音。死を告げる叫びと、勝利に湧く雄叫びが交じり合った混沌。
そしてそのすべてが、今は遠い夢のように思える。
昼下がりの城内は、まるで何事もなかったかのような静けさに包まれていた。
テイシアは一人、城の渡り廊下から庭園を眺めていた。
風に揺れる草花の向こうで、見張りの兵士たちが槍を構えて立っている。だが、それさえも絵の中の景色のように思えた。
――あの戦いの後、ラインは、どこか変わってしまった。
変わった、というのは正確ではないかもしれない。
けれど、彼の背中には、明らかに「重さ」が増していた。
彼は無事だった。傷も浅く、剣はなお冴え渡っていた。
だが、彼の眼差しは――痛みを隠すように、遠くを見ていた。
(……かつての仲間に、出会ったから)
そう。あの地下牢に、ラインのかつての仲間たちが囚われている。
グレイ、アイリス――彼を追放した、あの冒険者パーティ。
彼らを牢に入れたのは正当な処置だ。反乱軍に加担した以上、罰は当然。
だが、ラインにとっては、それが「正しい」では片付けられないことだったのだろう。
彼は……まだ、あの人たちに心を残していた。
「テイシア」
気づけば、背後からユイナが歩いてきていた。
「探したよ。ラインがまた城外の見回りに出たよ」
「……そう。ありがとう」
テイシアは微笑んで頷いたが、胸の奥が静かに軋んだ。
ラインは、この三日間ほとんど眠っていなかった。
食事もろくに取らず、兵士たちの間を巡り、見張りに立ち、街の様子を見に出る。
まるで――何かから逃げるように。
(あの人は、自分の心に向き合うのが……本当に、不器用なんだから)
テイシアは、ふと風を感じて目を細めた。
過去を捨てて前を向くと言ったのは、彼だった。
それでも、完全に吹っ切れたわけじゃないことくらい、テイシアには分かっていた。
ラインは、戦場では無敵だった。剣聖の異名は伊達ではない。
けれど、心の中では、誰よりも傷つきやすくて、優しい人だった。
人を信じ、裏切られて、それでも信じようとした。
だからこそ、裏切りは痛いのだ。
(私は……そんなあなたの、支えになれているのかな)
テイシアは、城の奥にある執務室へと足を向けた。
もしラインが戻ってきたら、少しでも温かい飲み物を用意しておきたいと思ったのだ。
――それから数時間後。
ラインは、執務室の窓から見える中庭をゆっくりと歩いていた。
彼の足取りは重く、疲れ切っているのが一目で分かった。
テイシアはそっと部屋を出て、彼に近づいた。
「……お帰りなさい」
「テイシア……」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。目の下にはうっすらと影が落ち、唇は少し乾いていた。
「少し、話せる?」
ラインは黙って頷いた。
二人は並んで、誰もいない中庭のベンチに座った。
風が吹き、木々がささやく。
「今日は、どこまで見回ったの?」
「城下町の南端まで。まだ混乱が残ってる。市民は不安で……」
言いかけて、彼は口をつぐんだ。
テイシアは微笑んで、彼の手をそっと取った。
「無理しなくていいのよ」
「……俺は、無理をしてるように見えるか?」
「ええ。とても、ね」
ラインは、ようやく苦笑した。
「だめだな……俺は、もっと強くなったと思ってたのに」
「充分すぎるくらい強いわ。でもね、ライン。強さって、剣を振るうことだけじゃないの」
「……じゃあ、なんだ?」
「弱さを認めることも、強さなのよ。過去に痛みを感じることも、誰かに頼ることも」
ラインは目を伏せ、長い沈黙のあと、ぽつりとつぶやいた。
「牢にいたアイリスは……まるで他人だった。あんなに近くにいたのに、もう言葉が通じない気がした」
「……うん」
「だけど、それが辛くてたまらなかった。どうして、もっと早く……って、意味のない後悔ばかりが浮かぶんだ」
テイシアは、そっと彼の肩に寄り添った。
「ライン。あなたはもう、前を向いてる。私は、あなたが過去を引きずっているようには見えないわ」
「本当に……?」
「ええ。あなたの目は、もう前だけを見てる。私と、一緒にいる未来を」
ラインがこちらを向いた。
その瞳に、わずかに涙の光が宿っていた。
「……ありがとう、テイシア。お前がいてくれて、よかった」
「私は、ずっとあなたの隣にいるわ。どんな過去も、どんな未来も、一緒に背負っていく」
風が、ふたりの髪を優しく揺らした。
夜が来る。けれど、その夜はもう、孤独ではない。
テイシアはそっと、ラインの頬に手を添えた。
「あなたは、もう独りじゃないのよ、ライン」
そして、その言葉を証明するように――彼女は、そっと彼に口づけた。
静かな庭に、ふたりの影が寄り添う。
過去の痛みも、涙も、すべてを包みこむ温もりだけが、そこにあった。




