第6話 追う者たちの事情
「追う者たち」
王都から東へ向かう街道の果て、鬱蒼とした東の森を目前に、黒衣の男たちは足を止めた。
「……ここまで逃げ込むとは、正直、予想外だったな」
呟いたのは、追手の隊長――グラド・ハルゼン。
練度の高い近衛隊員であり、かつては第一王子クラウスの親衛直属部隊に名を連ねた男。
冷静沈着、容赦なく、任務を遂行する男。
その背後に従うのは、同じく近衛隊出身のエンツォとルディ。
どちらも歴戦の兵であり、軽装でありながら鋭い目つきを絶やさなかった。
だが、その瞳の奥には、焦りとも疑念ともつかぬ感情がわずかに揺れていた。
「隊長、本当にこの森に……?」
エンツォが慎重に問いかける。
グラドは、ちらりと後ろを振り返っただけで答えなかった。
――姫を連れ戻せ。
その命令は、第一王子クラウス直々のものだった。
婚姻の約定を無視して逃亡した姫君。王家の面目を潰しただけでなく、王国内の貴族間の均衡にまで影響を与えかねない問題児。
だが、それだけではなかった。
(あの子は……ただの駒ではない。あの“力”を制御できるのは、我ら王族の血筋のみ。……そう、陛下はそう仰っていた)
グラドは、ふっと息を吐いた。
アルテイシア姫――彼女の中に流れる“異能”は、代々王家に伝わる神聖術の一つ。王国の継承者にのみ現れる力。それは、時に未来を視、時に死を告げるもの。国を正しい道へと導く変革の力。本来なら次代の女王。
しかし、王位継承権をクラウス殿下が譲ることはない。この国の腐敗した貴族たちも変革を求めることはない。粛清が恐ろしいのだ。
だからこそ、その力を縛るために、国内の伯爵家との婚姻が定められた。女王にはさせない。
彼女の逃亡は、ただの家出ではない。
(彼女ならばこの国を良い方向にできるのか……いや、私情は捨てろ。任務を遂行しろ)
グラドは己に言い聞かせた。
だが、その胸の内で、昔、幼い頃に王宮の庭園で見かけた、純粋な笑顔の姫の面影がふとよぎる。
「グラドお兄ちゃん、これ見て! お花の冠、作れたの!」
――あの日の記憶が、なぜ今頃になって甦るのか。
森の入り口をくぐった瞬間、空気が一変した。湿り気を帯び、腐葉土の匂いが濃くなる。
「……気を抜くな。ここは普通の森じゃない」
グラドの声に、エンツォもルディも黙って頷いた。
だが、三人とも無意識のうちに剣の柄に手をかけていた。
その不安は、次の瞬間、現実となった。
木立の間から現れた、銀髪の男。
姫を連れて逃げていた男――何者なのか? 敵国のスパイ、それとも?
距離はまだある。戦えば勝てる。確信があった。
だが、男は戦おうとしない。むしろ、森の奥へと逃げるように姿を消した。
「追うぞ。あのまま逃せば、姫の命も保障できん」
走る。木々をかき分けながら、三人は奥へと踏み込んだ。
だが――その先に、異様な空間が広がっていた。
空気が、音を吸い込むように沈んでいる。
足元には、奇妙な根が無数に張り巡らされ、まるで生き物のように土をうねっていた。
「これは……まさか……」
グラドの目が、ひとつの根を捉えた瞬間、理解が走る。
「止まれッ! これはマンドレイクの――!」
だが、叫びは間に合わなかった。
「アルテイシア、耳を塞げ!」
銀髪の男の叫びが、最後の警告だった。
そして、抜かれた。
地面から現れた“根”――否、“命”。人の形をしたその魔草が、次の瞬間、咆哮した。
――ギイイイイイイイイイイイィィィィィィィンンンンンン!!
世界が砕けた。鼓膜を越えて、脳に直接突き刺さる音。
視界が歪み、立っていた足が宙を掴んで崩れ落ちる。
「う、あ……ああああああああっ……!」
「が、うぅっ……っぐああっ!」
「や、やめろッ! やめ――ろ……!」
もはや何を言っているか、自分でもわからない。
頭蓋が軋む。目が焼ける。心臓が凍る。
――これは、ただの悲鳴ではない。
命の叫び。魔そのもの。
そして、闇が、全てを呑み込んだ。
……。
――どれほどの時間が過ぎただろうか。
グラドは、濡れた土の上で意識を取り戻した。
辺りは静かだった。かすかに風が木々を撫でている。
「……失敗、したのか」
唇を噛んだ。
隣には、気絶したままのエンツォとルディ。二人とも命に別状はなさそうだが、酷く憔悴している。
マンドレイク。そんなものを、まだ人が使うとは。
いや、あの男――銀髪の男。あれは、只者ではない。
(……姫様を守る力を、あの男が持っていたということか)
あの男が何者なのかは今はどうでもよい。本当の王位継承権は姫様にあるのだ。ならば、天が彼女に味方したのかもしれない。
増税による増税で民衆は苦しんでいる。それでも貴族は、贅沢をやめない。王族にばれないように不正し、いや、一部の王族はわかっていてなお、自分たちの支持を得るために、知らないふりをしているだけなのかもしれない。
グラドは首を小さく左右に振った。
それは今はよい、それよりも先ほどの剣士だ。ただの剣士では説明できない“何か”があった。天に選ばれし剣士なのか? 天は姫様に味方しているのか?
グラドは、重く目を閉じた。
「……王子殿下、申し訳ありません。ですが、あれは“ただの逃亡劇”ではありませんでした。姫様は、護られているのです。……誇りある者に」
己の任務に忠実であろうとした。その信念が、今揺らいでいた。本当の国王とは!国を導くもの、天に愛される者。天に選ばれた者。
(……だが、それでも私は、王に仕える兵)
再び立ち上がったグラドの瞳には、もはや冷徹さではなく、何かを見定めようとする深い光があった。
追う者たちの旅は、まだ終わらない。
だがその先にあるのは、ただの捕縛劇ではなく、運命すら揺るがす“対峙”なのかもしれない――。