第55話 グレイが耳にした噂の剣聖
グレイ視点 ――「噂の剣聖」
その噂を耳にしたのは、北の街、ベルカスのとある宿だった。
剣を帯びた旅人たちが集まる酒場の隅、ぬるいエールを口に運びながら、グレイはその名を耳にした。
――“剣聖”ライン=キルト。
噛み締めていた塩気の強い干し肉が、やけに味気なく感じた。
「おいおい、あんた、その名前、知らねぇのか? 最近じゃ、どこに行ってもその名ばっか聞くぜ。南の要塞都市を救ったとか、王国軍をたった十人で蹴散らしたとか……」
「たしか、辺境伯の娘に見初められたとか言う噂もある。ああ、それに、魔王の眷属を斬ったって話もあったな」
笑い声と共に、卓の冒険者たちが口々に語るその言葉の断片が、グレイの鼓膜に容赦なく突き刺さる。
耳鳴りのように響く名――ライン。
剣しか能がなかったあいつ。
真っ直ぐで、融通が利かなくて、空気を読まない――だけど、どこまでも信じて、戦って、前を向いていた。
そのラインが、“剣聖”と呼ばれている。
胸の奥がズキリと疼いた。
痛みなのか、後悔なのか、あるいは誇りなのか、グレイ自身にもわからなかった。
(……そうか。あいつ、やっぱりやりやがったんだな)
椅子の背もたれに体を預け、ゆっくりと目を閉じる。
思い出すのは、かつての焚き火の夜。
火を囲みながら、誰よりも早く剣の手入れを済ませ、誰よりも遅くまで見張りを買って出た、あの背中。
自分は、その背中を見送った。
あの時、剣を取って止めることも、言葉で繋ぎ止めることもできなかった。
(あいつを手放したのは、やっぱり間違いだったんじゃないのか)
あれから、グレイのパーティは変わった。
デビリールの資金で装備は一新され、仕事の幅も広がった。だが、何かが欠けていた。
剣士は新しいやつを入れた。器用な男だった。だが、あいつの剣とは違った。
“魂”がない。
ただの技だ。鍛錬された動き、洗練された戦い方。けれど、なぜだろう――誰の心にも届かない。
(……あいつの剣は、届いてたんだよな)
誰よりも不器用で、誰よりも真っ直ぐで――
「なあ、グレイ。どう思う? “剣聖”ってのは、やっぱり生まれ持った才能かねぇ」
向かいの席にいた冒険者が、何の気なしに聞いてきた。
グレイは一瞬、答えに詰まった。
才能、だけではなかったはずだ。
あいつは血反吐を吐くほどの鍛錬を繰り返していた。
寝ても覚めても、剣のことしか考えていなかった。
「……いや、違うな。あいつは、“捨てなかった”だけだ」
「捨てなかった?」
「ああ。誰かを守るって意志と、信じた剣を」
何を言っているのかと首を傾げる相手をよそに、グレイはエールを飲み干した。
苦かった。
だが、それでも喉を通っただけ、あの夜よりはマシだった。
――あの夜。ラインに「出ていけ」と言った、あの瞬間。
あいつの瞳が、言葉にならない悲しみと怒りに揺れていたのを、グレイは今も覚えている。
(……もし、また会うことがあったら)
そう考えた自分に、グレイは苦笑した。
剣聖と呼ばれるようになった男と、今さらどんな顔で会えるというのか。
あいつは今、誰もが称える英雄。
一方、自分はただの中堅冒険者。金にも人にも翻弄され、守るべきものを見失った男。
対等ではいられない。
いや――初めから、あいつの方がずっと前を見ていたのかもしれない。
「お前は、ほんとに、すげぇよ……ライン」
ぽつりと呟いたその言葉は、ただ空気に溶けていった。
剣を握る手には、今も迷いが残っている。
だが、心のどこかでは、少しだけ誇らしかった。
“自分がかつて仲間だった男”が、こんなにも高く飛んだことが。
だからこそ、心の奥底では願ってしまうのだ。
(もう一度……会ってみたい)
罵られるかもしれない。
殴られるかもしれない。
それでもいい。
あの真っ直ぐな目を、もう一度、この目で見たい。
それが、罪滅ぼしになるとは思っていない。
だが――それでも。
「ローザ……俺さ、剣、まだ捨ててねぇんだよ」
長らく口を利かなかった相棒に、グレイはぽつりと呟いた。
ローザはいつも通り無表情だったが、少しだけ、目尻が和らいだ気がした。
「じゃあ、進めばいいじゃない。過去にしがみつかず、前に」
「……ああ。そうだな」
進もう。
もう、ラインとは並べないかもしれない。
でも、背中を追いかけるくらいなら、まだ、できるかもしれない。
そう思えるだけで、心が少しだけ軽くなった。
グレイは立ち上がり、腰に吊った剣の柄を確かめる。
まだ、重みはあった。
なら――
(……俺は、俺の剣で、もう一度、生きてみるさ)
かつての“本当の仲間”に、恥じないように。




