第2話 アイリス視点 ――「選ばなかった未来」
アイリス視点 ――「選ばなかった未来」
カウンターの上に置かれた木のカップは、もうずいぶん前に冷めていた。淡く甘い香りがするハーブティーだったけれど、今の彼女の喉を通るような優しさではなかった。
アイリスは、ふと指先でそのカップの縁をなぞる。
何度も繰り返した台詞が、胸の奥からせり上がってくる。
――「あなたには……未来がないもの」
言った瞬間、ラインの目が大きく見開かれたのが頭から離れなかった。あんなにまっすぐな目で自分を見つめる彼の姿に、背中を向けてしまいたい衝動に駆られた。けれど、それではダメだと思った。言い切らなくてはならなかった。きちんと終わらせるために。
(……本当に、それでよかったの?)
グレイが言ったように、“彼”の加入には条件があった。ダンバリー家の三男、デビリール。王都では有名な名門のひとつ。その男が直々にこの地方の冒険者ギルドにやってきて、資金提供と装備支援を申し出た。
代償は、ラインの排除。
理由はくだらない――「目障りだから」。
それだけだった。
(くだらない……でも、現実)
それを拒めば、ギルドから追い出されるのは自分たちだった。もしくは、彼の気まぐれ一つで命を落とすかもしれない。
ラインを守るために反発する――そんな選択肢も、心のどこかにはあった。
でも、それは綺麗事だった。
自分は、夢を見ていたのだ。
冒険者として、王都に戻って、名を上げて、魔術師として名声を得る。今のように薄暗い酒場の裏で依頼をこなす日々ではなく、貴族たちの前で魔法を披露する華やかな舞台に立つ自分を。
その夢の中に、ラインは――いなかった。
(あの人は、地に足がついた人。剣一本でどこまでも進もうとする、愚直な人……)
だからこそ、好きだった。
けれど、だからこそ、怖かった。
彼のまっすぐな在り方は、どこか自分のずるさを映し出す鏡のようで。隣にいるほどに、自分が薄汚れているように思えた。
「……アイリス。お前、泣いてるぞ」
グレイの声に我に返った。
指で頬を拭えば、確かに濡れている。いつの間にか、ぽろぽろと涙が落ちていたらしい。
「うるさいわね……泣いてなんか、ない」
「……あいつ、俺たちを恨むかな」
答えられなかった。
ラインはそんな男ではない――そう思いたい。でも、あれほどのことをされて、何も思わないわけがない。
彼の剣は、本物だった。
決して華やかではない。技巧に溺れることもない。ただひたすらに、地道に、積み上げてきたもの。
それが、今日、壊れた。
自分の言葉で。
(私が……あの人の未来を、断った)
それでも。
それでも、アイリスは「選ばなかった」。
ラインと共に歩む未来を、自らの手で閉ざした。
自分を選んだのではなく、“未来”を選んだのだ。
「これでいいの。これで……」
言い聞かせるように呟いた声は、空虚だった。
夜、宿に戻ると、ラインの荷物がなくなっていた。
いつも壁際に立てかけてあった剣も、粗末な鞘も、跡形もなかった。
ただ、机の上に一枚の紙切れが残されていた。
『ありがとう。楽しかった。さよなら』
それだけの言葉に、アイリスは崩れるように床に座り込んだ。
ラインの文字だった。あの、不器用で、真っ直ぐな文字。
それを見た瞬間、堪えていた感情が決壊する。
喉の奥が焼けるようで、息が詰まり、涙が止まらなかった。
もう遅い。
すべてを、自分で壊してしまった。
(でも……お願い、ライン。どうか、生きて)
この腐った街を出て、新しい場所で、新しい自分を見つけてほしい。
自分が捨てた未来を――いつか、取り戻してほしい。
(もしも……)
――もしも、どこかで再会できたなら。
その時こそ、ほんの少しでいい。笑ってくれたなら、それで――
アイリスは、声を殺して泣いた。
過ちを認めたとて、時は戻らない。
けれど、胸の奥に残るその人の影は、きっとこの先も消えることはないのだろう。
どれだけ豪華な装飾を身にまとっても。
どれだけ栄誉を手にしても。
その瞳に映るのは、あの男の背だった。
(さよなら、ライン……そして、ごめんなさい)




