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Game

作者: u2la

極彩色の海が永遠に広がっていた。そう言ってみれば、それは幻想的で美しい景色なのだろうと思われるかもしれない。しかし、その有り様を実際に目にすれば、その考えもきっと変わることだろう。それは水平線まで罫が伸び続ける途方もない大きさの盤に、無限の色を持った石が敷き詰められた光景なのだと知れば、これはグロテスクでさえあると思われるはずだ。


淡い青の隣に濃い赤、濃い赤の隣に薄い紫。盤上には1マスごとに異なった色の石が敷き詰められ、不規則なスペクトル、不連続なグラデーションを湛えている。そのように時化た石の海を見渡すと、所々に人型にくり抜かれたような影が見えることが分かる。人間の形とは決して単純ではないが、この色の混沌の上では、人間は自分たちが思っている以上に規則的で秩序ある色形をしているのだなと思う。


彼らは盤上でかがみ、そのポケットから何色とも言い難い、鈍い色をしたおよそ7センチメートル四方の石を取り出して、無限の色面上に点在している無色、つまりまだ他の石が置かれていないマスに黙々と自分たちの石を置き続けていた。


「ほら、他の人に取られる前に置いてしまいなさい」


眺めに意識を奪われていると、隣にいた彼女は私にそう促した。私は重い手付きで右ポケットから、赤とも青とも紫とも言えるような、言えないような、そんな曖昧な色の石を1つ取り出す。


足元の盤を見ると、今立っている右前方に自分の石が一つ置ける場所を見つけた。半刻ほど前に置いた場所から、まっすぐに斜めに伸びてきた地点にあるマスだった。


私は手に持っていた石を、わざとらしく勢いをつけて、そのマスの上に置いた。盤と石が接する時に軽く響くコツという小気味よい音にも、いい加減うんざりしていた。


視界の先に半刻前に置いたマスの位置を確認して、そこから足元まで伸びている罫線を滑っていくように目で追いかけ、そのルートを確認する。まっすぐに伸びているとの確信を得た後、今置いた石の隣のマスから、ルートに沿って一枚、また一枚とひっくり返していく。ひっくり返した石は、元々の種々の色、これまたどれも何色とも言い難い微妙な色合いであったのだが、それらは赤とも青とも紫とも言っても差し支えないような色に染まっていく。


足元に置かれた周りの石をズラしてしまわないよう真上から踏みつけながら、ルートの終着点に向かって石をひっくり返しながら歩を進めていく。この煩わしい歩き方も既に習慣となりつつあり、今ではもうほとんど意識する必要がなくなっていた。


最後の一枚をひっくり返し終え、先ほどまでいた地点を振り返ると、不規則な色の海の上で浮き上がるように一本の私色の線が真っ直ぐという秩序を持って伸びているのが分かった。


直線という秩序は、この混濁した世界にある、数少ない崇高なものの1つだと私には思われた。しかし、この直線もまた近い将来、その上を誰か色の線が横切って上書きされていき、少しずつ途切れて細切れに短くなっていくのだと考えると仄暗い気持ちになる。これは、いつかは上書きされる運命にある私色の線の境遇に対する同情、もしくは失われる尊さへの寂寥か、自分の線を上書きする人間に対する憤りなのかは、私にもよくは分からない。


この鬱屈とした感情が私の口をついて出た。


「もうこんなゲーム降りたいよ」


石を置いてはひっくり返し、置いてはひっくり返し、これを繰り返し続けるというこの活動。これをゲームと呼ばずしてなんと言えばよいだろう。近頃の私はそれに対する不満をよく口にするようになっていた。


「打ち続けないと、あなたの石の全部が誰かに取られて、もう二度とどこにも置けなくなるわよ」


彼女は戒めるようにいった。この世界で私が生まれて、文字通り右も左も分からない私に、偶然に出会った彼女は、何かと私の世話を焼いてくれていた。


「それに降りるって言っても、一体どうやって降りるのよ」


彼女の指摘は当然だった。無限に広がる盤と石、そして私たち。これがこの世界の全て数時間ほど続けて罫線に沿ってひたすら真っ直ぐに歩いてみたこともあるが、あまりに変わらない景色に、自分が果たして本当に歩いているのか、色の波が流れているだけなのか、あるいは色の波に私が流されているのか、もはや自分というものが一体何をしているのか、わからなくなりそうだった。


皆が口をそろえて言う。気がついたら、この世界にいた。誰もが初め、広大な空間と眼下に広がる色の奔流を前に全く事情が飲み込めない。


しかし、近くには他の誰かがいて、屈んで黙々と石を置き続けている。それをじっと観察しながら、どうやら石を置けるのは、自分の石で相手の石を挟める場所だけなのだと理解する。場合によっては、親切な人が丁寧にその規則を教えてくれることもある。


以降、遅れを取り戻そうとするように、負けてしまわないために、盤上の自分の石がゼロになってしまわないないよう、我先にとポケットに入っていた石を取り出しては必死に並べ続けている。ここの誰もが大概こんな形で生き始める。


私も例に漏れず、なぜか自分のポケットにも石が入っていて、なぜかポケットの石と同じ石が既に幾つか盤上に置かれているのを足元に見つける。なぜかその色だけは、言い表わそうとすれば他の色とも区別できないようなありふれた色でありながら、その他の無限の色とは明らかに違っているように思われた。なぜかこの色だけは、自分の石と全く同じだという確信があって、その石から伸びたルートの上に最初の石を置き、以来このゲームを続けている。


本当にこの世界が無限に広大なのか、石の色は無限に存在するのか、そんなことは本当に無限なら私たちに確かめようがあるはずもないのだが、恐らくそうなのであろうと信じるに足るだけの途方もなく、果てしない空間だった。


「それを言うなら、上がりもないのにどうして打ち続けているんだ」


「そんなの負けないために決まってるわ」


「でも、負けたらどうなるかなんて誰も知らないだろ」


彼女は自分が石を打っていることについて、なぜ石を打たなければいけないのか、自分の色が増えるとどんな良いことがあるのか、盤上から自分色の石が無くなると何が起きるのか、それらについて疑問には思っていないようだった。


無限の盤の目がある、誰がどれだけ石を打っても永遠に終わらない。なので実質的にこのゲームの終了は、正確には「私にとってのこのゲーム」の終了は、打ち手である私が死ぬ時ということになる。石を取り出しては並べ、取り出しては並べ。取り出しては並べ。死ぬまでその作業を続ける。


「じゃあ、あなたが負けてみればいいんじゃない」


彼女は意地の悪い笑みを浮かべている。私が時折漏らす不満にも慣れ、彼女はそれをあしらうのを少し楽しんでいるようにも見えた。こう言われてしまうと、返す言葉に詰まってしまう。この石しかない世界で自分の石の置き場が無くなるということは、当然に大きな意味を持っているのではないか、と思えて仕方がなかった。


それが一方通行であるならば、二度と同じ地点に戻ってくることが出来ないとするならば、そこから踏み出すことにもっともらしい理由を求めてしまう。しかし生憎とこの世界にはもっともらしい理由など生まれる余地がない。なぜなら、ここには人と石とその色しか存在しない。それだけの単純な世界であるから。そうであるならば、理由がこの単純な世界以上の複雑さを持ち得ることは無いだろうから。


それらの石が無限の色を持つならば、それが盤上に描くパターンも組み合わせも無限であり得るのだろうが、それらの一つ一つの色もろくに区別が出来ず、それらを「無限」と呼称して一纏めに扱うことしかできない私にとって、それが実現するであろう複雑性や可能性は空虚な影だった。私にとってこの世界は単調そのものだった。


---


このゲームの必勝法として、人々の間でまことしやかに囁かれているのは「角を取る」という方法だが、無限の盤にそもそも角なんて存在するのか、存在したとしてその角にたどり着くまで自分が生きていられるのか、角に置けたとして、それを挟むルートの反対側のマスに自分の石を置いている確率は一体どれほどなのか、湧いてくる疑問は尽きない。


それらを鑑みるに、単にこのゲームの途方もない非情さにちょっとした諧謔性を加えずにはいられなかった現実逃避的な言だとしておくのが適当だろう。決して真に受ける必要はない。


私たちは彩流の作り出したトレースに沿って歩いていた。視界の両端には混沌が、そしてその混沌の間には、石の置かれていない露出した無色の盤の目が遥か水平線に向かって次第に細くなっていくように伸び続けている。また遠くにはぼんやりと地平線に平行するような影が見えていた。


色彩と無色の境界は複雑に入り組み始めており、既にその境界には石が置かれ始め、比較的前に彩流が通った場所なのだと分かる。彩流の通り道にあった石は流されてしまい、また新たに石を置ける場所が生まれる。一体なぜそんな現象が存在するのか、流された石はどこに行くのか、そんなことは知る由もないが、この世界が持っているその作用によって、広がり続けるこのゲームの戦域のために、石を置く場所を求めて無限の端から端までを開拓して歩き続けるような事態にならずに済んでいる。無限の往復ほど骨の折れることは無いだろう。


しかし、この所々に現れる盤上の空白地帯によって、あまりに空白が広大だと、今自分たちがいる場所がもしかすると、まだ誰も来たことがない世界の端なのかもしれないと思わせたり、空から眺めれば、この彩流には誰かの意志が働いていて、その線が描く線が、実は遥か空から見下ろせば、何かの一定のパターンを示したり、地上絵のように何かを描いているのではないだろうか、ということを期待させたりもしていた。


先ほどから遠くに見えていた横たわるような細い影が近づくにつれ次第に大きくなり、それが白骨化した死体であると分かった。首は体から半分切り離され、あり得ない角度に曲がっている。屍肉も全く残っていない純白で滑らかな骨の色は、混沌との対比を前にして艶めかしくさえ見える。首落ち自殺体。かなり前に死んだのだろう。


死体のもとに進み出た彼女は首を真っ直ぐ正しい位置に直し、死体の両腕の尺骨と橈骨を優しく掴んで、胸の前に合わせるようにそっと置いた。彼女は時折り遭遇する死体を見つけるとそのようにするのが常だった。いつも「ほんの気持ちだけど」と彼女は言っていた。


眼の前で人が死ぬ瞬間を目にしたことは無いが、こうした盤上に残されている死体に巡り合うことも珍しいとも思わなくなった。空腹もない、眠る必要もない。寿命も無い。だから死ぬことはない。そして行くべき場所もない。だから、ここでやることと言えば、石を並べるか、自殺することくらいだ。石を並べるのにも飽きたから、ちょっと興味本位で死んでみようか、という気軽さがあったとしても不思議だとは思わない。


私はその死体の少し横に石が置ける場所を見つけた。記憶を思い起こして、前に自分が石を置いた方角を見る。このルートの見立てもほとんど誤らなくなった。両方のマスが視界に入っていれば良いが、それらの距離が離れてくるにつれて、それらが本当に盤上で一直線に結べるのかを確認するのは途端に難しくなってくる。


はじめの頃は、石を置いてから、元の石に向かって、間の石をひっくり返しながら帰っていくと、正しい直線から二列ほどズレていて、きまり悪く戻りながらひっくり返した石を一つずつ戻す羽目になったり、ひっくり返さずに先に一回歩いてルートが正しいことを確認してから、もう一度戻ってからひっくり返すという手間のかかることを繰り返していた。


時には、先に歩いてルートを確認した上で戻って安心してひっくり返し始めたら、元あった場所にたどり着くと、私の石が別の人にちょうど上書きされていたなんて事もあった。上書き犯との鉢合わせは、双方とても気まずかったが、その様子を見ていた彼女だけは楽しそうに笑っていた。みんな最初はそんなもんよ、と。


積み重ねた試行錯誤から培われた見立てから、間違いなくルートは伸びていると確信する。水平線の先から足元までそのルートを目で追っていくと、その線上をこの死体が横たわっていた。


面倒に思いながら、私は死体を動かそうと、両足の大腿骨を掴んだ。腰を上げて引きずろうとしたが、少し持ち上げると同時に、股関節の辺りで骨盤から外れてしまい、腰から落ちた死体は、地面にぶつかった衝撃でカラカラと音を立てて、全身の骨が辺りに散らばった。


「何やってるの、大事に扱いなさいよ」


あり得ない、という表情で彼女は目の色を変えて私を睨んだ。


「時間が経って脆くなってるんだ、雑にあつかおうとした訳じゃない。しょうがないよ」


彼女は死体の元に駆け寄り、散らばった骨を拾い、元の人の形に戻そうとしている。これは彼女の死人に対する優しさなのだろうが、私にはその行為にあまり意味があるとは思えなかった。


「もう死んでいるんだ。そんなことしても仕方がないよ」


「仕方なくないわ。これはこの人が生きていた証、世界との縁なのよ」


「でも、その人はもうここにはいないんだ」


私には、彼女の言うことの意味がよく理解できないことがあった。それは生来の彼女のたちなのか、長くここに生きているとそうなってしまうのかは分からない。


「生きていた証なんて、死んだ彼自身がそれを受け取ることが出来ないんだから、一体それに何の価値があるんだ。別にこの彼が自分の骨に優しくしてもらっても、彼はもう感謝することも喜ぶことも出来ないだろ」


「私たちにとって価値があるのよ。みんな、いつかは死ぬのよ。ここでは、それは向こうから訪れるものではなく、私たちから決断して赴くものだけれど。それでも、きっといつかは死ぬ」


死体に向かいながら彼女はそう言った。それは自分に言い聞かせているようにも見えた。彼女が拾い集めて、およそ元の人の形に戻りかけていたが、一部分は骨自体が衝撃で折れてしまって、再びはくっつかないようで、その部分は地に人型に沿うように並べていた。彼女は言葉を続ける。


「死ぬっていうのは、誰にとっても未知のことなの。それが死ぬということ。私たちが死について知っているのは、他人の死でしか無い。でもここでは、その限られた想像から、自分自身の死を決断しなければいけないの。だから、少しでも死は恐ろしいものではなく、安らかで受け入れやすいものであってほしいと思うの。だから、これは生者からの願い。この人もその中で決断した。その勇気に対しても、私は敬意を払うわ」


そういう彼女の言葉は信仰的で、どこか偽善的な響きに聞こえ、その回答に私は苛った。


「じゃあ君は、ここで死ぬことを選んだ彼のためではなく、今まだ生きている自分たちのために、自分が安らかに死ねるために、死者である彼に優しくしているというんだね。そんなの自分のために他人を、それも死人を利用している、弄んでいるだけじゃないか」


そう口にした直後、嫌味たらしいことを言ってしまったことを少し後悔した。彼女も私の言葉に腹が立ち、叫ぶように言い返したいことがあったのだろう。しかし、喉元まで出かかったそれを飲み込むようにして、息を吐いてから、静かにこう呟いた。


「そうであるしかないのよ」


私はこれ以上言葉を返すのをやめた。死体はいつも彼女にそうされるように両手を胸の前に合わせられていた。頭蓋骨にぽっかりとあいた二つの黒い穴が無色の空を見上げていた。その黒は静かで何も語らなかったが、全てを吸い込むような奥行きがそこには感じられた。


彼女はしゃがんだまま死体を眺め続けている。死体はルート上から退いたので、私は再び石をひっくり返し始めようと腰を落とし、1つ1つと石を裏返しながら進んだ。振り返ると彼女はまだ先の場所から動かずにいた。変わらず死体をぼんやりと眺めている彼女の姿に、私は先の誹りに対する後悔を強めていた。


その時、私は彼女の後方に異常を捉えた。


水平線の一部が盛り上がっているように見えた。それが次第に大きくなっていく。迫りくる色の波。これは彩流だ。その隆起は視界のほぼ両端近くまで達している。今回のはかなり大きい。気がつくのが遅れた。


盤上の石が、舞い上がりかちあい、波打ちながら近づいてくる。いつもの澄んだ軽い石の打音も、この規模となれば、その濤声はこの空間に轟くようだった。


以前に遭遇した時は、大した規模ではなかったから、気づいた後その軌道上から退避するだけで済んだ。しかしこの彩流は大きい。今から逃げても到底間に合わないだろう。私は彼女に向かって叫ぶ。


彼女も後ろから迫る波に気がついて、状況を察したようだ。私が彼女めがけて駆け出したのに一歩遅れて、彼女もこちらに向かって走り始める。波はもう目前まで来ていた。


伸ばした手が彼女の肩を捉え、抱きかかえようとした瞬間、彩流の方が私たちを捉えた。その膨大な質量が私と彼女のつながりを無慈悲にも引き剥がそうとする。


前後上下左右に視界が揺らされ、視界に飛び込む色の暴力。赤青緑黃橙紫灰藍、目まぐるしい色の奔流が混ざり溶け合い始めるかのように視界はやがて黒く染まっていく。それは混色の結果なのか、意識が遠のき始めているのか、もはや私には分からなかった。


意識の端で私は彼女の存在を捉えた。彼女は波から突き出した私の手に何かを押し込もうとしているようだった。轟音の中その無限を貫くように、私と彼女の間にだけは静寂があるように、私の耳には彼女の発した言葉が届いていた。


「これを持っていれば、きっとまた会える」


その言葉と共に、波に包み込まれていくように、彼女の存在は消えていった。そして、私も色に包み込まれていく。黄赤紫水赤青緑黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒。今の私に一切拠り所となるようなものはなく、抵抗することも出来ず為すがまま、無限へと飲み込まれていった。


---


世界に再び色が戻っていた。右を見ると、垂直に割られた無色と濁色の2つの世界。左を見ると、垂直に割られた濁色と無色の2つの世界。こうして、私は地に横たわっているのだと、状況を理解する。


体を起こし、辺りを見渡せば、いつもと何も変わらない世界。無限の色濁と無色の空。それだけ。単一な景色、いや確かに色が無限のパターンを示している。むしろ単一などあり得ないのだが、その無限自体を一つの単一とみなすことによって、それは同語反復的でもあるのだが、無限を「無限」とみなすことによって、それはたしかに単一なのだった。


この単一な世界では、彩流に飲み込まれて、元いた場所からどの程度離れたのかは全く検討がつかなかった。しかし、どこに居ても同じなのだから、そんなことはどうでも良かった。


あたりを見渡しても彼女はどこにも居なかった。ふと私は自分の左手を無意識に固く握りしめていたことに気がつく。その手をゆっくりと開いていくと自分の色ではない石があった。彼女の石。青に近い淡い緑とでも言えば良いだろうか。これまで彼女の石の色をはっきりと見たことなどなかった。


自分の色以外、他人の石の色の違いは微妙なもので、むしろその微妙な違いが分かれば良い方であった。それらの色相や彩度、明度が近い場合もはや同じ色にしか見えず、同じに見えるものを違う色だと言われても、そのように扱うべき根拠も、区別すべき動機も自分の中には存在しなかった。そんな中で他人の色に興味が湧くはずもなかった。


たしかに十人十色、それどころかここでは無限人無限色であり得るのだろうが、それらの色一つ一つを明確に区別できない以上、私にとって色とは、自分の色、とそれ以外の色、の二色しかなかった。


だから、これが本当に彼女の石なのかさえ、自分には確信を持つことは出来なかった。一度はぐれてしまっては、この世界の性質上、再び会うことは恐らく難しいだろう。この石が彼女との再会の手がかりになることはない。仮に彼女と似たような色の石を盤上に見つけても、別にその近くにいるとも限らないし、そこから伸びるルートに彼女がいるということにはならない。ならば、この石の存在に、この石を私が持っていることに一体意味などあるだろうか。


しかし、整然と石の並ぶ盤上に自分以外の石を並べたり、辺りに捨て置くというルール外の行為をすることに抵抗を感じた私は、ひとまず自分の石が入っている左ポケットとは、逆側のポケットにその石を入れることにした。


辺りを見渡せば、盤上に敷き詰められた石、これはいつも通り。しかし、意識を取り戻してから、これまでとは違った存在に気がついていた。上に向かって積み上げられた盤上に点在する石の塔。そして遠方には、それとは全くスケールの違う地平線から高く突き出だした色の山。


一体これはどうやって挟むのか。どういうルールでこれはひっくり返せるのか。石を縦に挟めば良いのだろうか。平面上で塔を挟むことは出来るのだろうか。初めて目にするに事象に次から次へと様々なことが疑問に浮かぶ。


これまで歩いてきた中で、上に向かって積み上げられた石などは見たことがなかった。彩流に流されて、まだ訪れたことの無いかなり遠くまで来てしまったのではないだろうか。行く宛の無い私は、きっとそこには何かが在るであろう、水平線から大きく突き出した色の山に向かって歩き出した。


---


塔に向かう途中、所々に人の集まりを見つけた。私たちが石を置くのに徒党を組む必要はなく、むしろ置き場所の取り合いにならないためにも基本的には群れないものだったが、この周辺では人が集団を形成しているのがどうやら普通なようであった。


私はこの地域の異様な景色に答えを得るべく、その集団の一つの様子をしゃがみ込んで少し離れて観察していた。集団の中心には、積み上げられた石が幾つか並び、それを取り囲んでいた。彼らは肩車をしたり、手足をついて何人かが土台となって、その上に人が乗っていたりする。彼らの表情は真剣な空気を纏っていた。上に乗っている人間は、山の先端にそっと一つ一つ石を慎重に載せている。上に向かって同じ色の線が走り、これが同じ石を積み上げて作られたものだということが分かった。


何人かで土台を組んでいたところの1つがバランスを崩して、上に乗っていた人がよろけながら地上に降りた。その後肩車をしていた何組かも降り、先程の真剣さから一転、緊張が緩んだように集団には楽しそうな雰囲気が漂っている。そこでそれらの活動が一段落したのだと私にも分かった。


程無く、彼らの内の一人の男が、私の存在に気がついたようで話しかけてきた。


「どうしたんだい。お前、見ない顔だな」


「あんたたちは何をしているんだ」


「何って、積んでんだよ」


男は訝しむような表情で答えた。


「積む?」


「おい、頭でも打ったのかよ。もしくは新入りか?お前も石持ってんだろ」


私は自分が狂った訳では無いと示すためにも、左ポケットから2つほど石を取り出して、手のひらを男に差し出した。


「あるじゃねえか。自分の石を相手より高く積めば勝ち、そう習わなかったか」


「習ったかもしれない」


上手く飲み込めない状況に、曖昧な返事をしておいた。


「変なやつだな。ここではみんなそう習う。俺が習った人も、そうやって習ったと言っていた」


男は私のことを怪しみながらも気さくな人間だった。先ほどの石の山を見ると、何色かあった色の線は同じ一色に染まっていることに気がつく。恐らく勝利すると自分たちの色に変えられるのかもしれない。男は細かいルールについても説明してくれ、私の抱いていた疑問の多くは解消された。


そこで少し彼に気を許し始めていた私は、つい自身の個人的な、問うてみたいと思っていた疑問を口に出した。それは彼女に問うても答えが得られないだろうと思っていたことだった。


「あんた、一体なんでこんなことやってるんだ」


「こんなことってなんだ」


「他の人より石を高く積むことだよ」


私の質問が意外だったのか、よほどの変わり者だと思ったのか、男は面食らったような表情をしたが、すぐに笑いはじめた。


「まさかお前、意味とか価値なんて考えちゃってるんじゃないだろうな」


無限に溢れるこの単調で退屈な空間で、楽しそうにしていられる男のことを内心で下に見ていたのかもしれない。単純そうな奴だと思っていた男から、逆に見透かされるように核心をつかれた私には、次の言葉が出なかった。その動揺を男は察したという様子で言葉を続けた。


「気づいたときにはここにいる。


世界には石と人、色がある。なぜそれらがあるのか、なぜそれらしかないのか、その理由は知らないが、初めからそれらが、石で、人で、色なんだということをなぜか知っている。


他の人が石で遊んでいるのを見て、他の人から教わって、自分も遊び方を知り、それを見てまた他の誰かが石での遊び方を知る。


んで、勝ったら楽しい。負けたら悔しい。それの繰り返し。


ここには、これしかないんだ。


意味も、価値も、そんなものは必要ないし、この単純な世界にそいつらが入る余地は初めからねえよ」


それは、私を嘲るわけでもなく、男自身が淡々と事実を確認していくような口調だった。黙り続けている私に対して、男はとどめを刺すかのように、最も聞きたくなかった一言を私に告げた。


「俺も同じようなことを思った時期があったよ」


おそらくは男なりの善意、励ましのつもりだったのだろう。そして、それがより一層たちを悪くする。この私の感情はどこへ向かえばいいのか。


「あのでっかい塔。というか、あれは正確には山だな。ここからなら、歩いて数時間で着く。頂上まで登れば、お前の知りたいことが分かるかもしれねえ。そこで見るものをどう受け取るかはお前次第だが、この世界に、今のお前自身に何か思うことがあるなら行ってみな」


男はそう言い残して、集団の中へ戻っていった。


向かう先は変わらなかった。しかし、新たに目的が生まれた。そして彼の言葉はまだ私を揺さぶり続けていた。私の悩みも苦しみも私だけのものだ。お前の色と私の色が同じであったことなど無い。これまでも、これからも、私の石とお前の石は同じではないのだ。


---


無色の空に向かって伸びる無秩序な色の集合。それは、ただひたすらに膨大な数の石が寄せ集められて出来あがっていた。その上を歩く度、石同士が擦れ合う音を立て、踏んだ部分の石は崩れていくようで、少々心もとなかった。道らしい道もなく、自分と同じ様に登った人間の跡のような窪みが辛うじて分かる程度だった。確かに男の言った通りこれは山と呼ぶ方が正しいだろう。初めて高さを得た私が感じていたのは文字通りの高揚感だった。未知の景色が刺激となり、鬱屈していた私の心には、弾力性が取り戻されつつあった。


地上で見た石を積み上げた小さい塔とは異なり、この巨大な山は一色ではなく、何色もの石によって出来上がり、私にとっては見慣れた混沌であった。一色ではないということは、多くの人の石を使って作られたということであり、また一色に染まり上がっていないということは、これは地上で行われている小さな塔のゲームとは、別の枠組みで行われた何かということが分かる。


これだけの石を積むのに果たしてどれだけの時間がかかったのだろうか。時間という概念が殆ど意味を持たないこの場所においては、その時間的な努力を想像することは無意味なのだろうか。


頂上に近づくに連れて勾配は増していたが、それと同時に終着点の様子がはっきりと見え始めた。頂上の更にその上、無色の空が破れている。眼の前に近づき、その正体を理解する。虚空に穿たれた穴。ここは、この無限の空間の限界の1つなのだ。無色の空において遠近感は存在せず、地平線が無限に続くように、天井の存在しない空間なのだと思いこんでいた。


思わず胸が高鳴る。この世界の真理を垣間見たような、それを知っている人間になったような。その穴はちょうど人一人が入れるような大きさがあり、私はそこに手を差し込んだ。端を探ると岩肌のような凹凸があり、これを使って更に穴の中を上に登れるようだった。


私は振り返って眼下に広がる景色を眺める。斜面のその遥か先に見えているのは地上。


永遠に続く無秩序でサイケデリックな色彩は、この高さから眺めた時、もう一つ一つ色が意識されることは無かった。全ての色が混ざりあい、溶け合い、個々の色にもう意味はなかった。しかし、それら一つ一つの無意味が群を成し、無限の色が映し出していたのは、色という次元から突き出した別の次元だった。部分と全体は調和していた。いや、部分と全体の区別はもうそこから失われ、新しい次元を生み出していた。そこにはもう部分も全体も存在しなかった。


私はそこに別の次元の像を見た。それはもう色ではなかった。私は、今ならば、ここならば、この無限の海の中から、神のごとく全てを創造することができるかもしれないと感覚した。


この眺めを見られただけでも、ここに来た価値はあっただろう。しかし、もう一歩先へ。さらに目の前にある真実への扉を開かなければいけない。私は右手を空の穴に奥の方に入れ、手を掛けられる出っ張りを見つける。もう片方の手を反対側に掛け、地面を強く蹴って穴の入口の端にかける。


思った以上に深い穴ではなく、見上げたすぐ先には出口の光が見えていた。私は背中を壁に押し付けながら、掴むことができる出っ張りを見つけながら、出口に向かって一歩、また一歩と上がっていった。


---


決して登ってはいけない。神秘は神秘のままにせよ。つい先程の自分にそう伝えたかった。


既に先程まで心を満たしていた高揚感は失われ、ただ眼の前に広がる、色の海を呆然と眺めていた。色は色だった。1つ1つが同じような違うような、区別も曖昧な膨大な色の石が盤上に並ぶ。


私の絶望はその混沌と溶け合い、気を保っていなければ、どこまでも深く飲み込まれてしまいそうだった。穴を抜けた先、そこで目にした景色。これまで私が居た場所と変わらない、いや確かに、先ほどまで登ってきたような山は無い。しかし、ただ一面に広がる石と色だけがある世界。


どこまでも無限で、単調で、単純な同じ景色。全ての色を乱雑に取り揃えた空間。全ての色が存在するが、どこにいってもあるのは色だけ。色という存在が、私を現実という地に掴んで離さない。私は吐き気を催していた。一体この事実をどのように受け取れば良いだろうか。


辺りを歩いても景色は変わらない。私は、この地点に戻ってこられるように、穴のある地点に対する盤上のルートを思い描き、それを頭の片隅に置きながら、人を探すことにした。しかし人影を見つけ、話してみても何も変わったことはなかった。彼らは気がついたらここにいて、皆が石を並べているのを見て、自分も同じように石を並べて続けているのだという。それだけであった。


これ以上、ここにいても仕方がないと思えた。何かここが特別な場所だとは思えなかった。私は同じ場所に帰ってきたのだと思った。落胆した私は、ルートに沿って来た穴へと戻り、引きずり込まれるように潜っていった。


---


手にしていた石は、あちこちが欠け角が立ってい、元の大きさの半分ほどにまでなっている。その石を持つ右手の中指からは、皮が剥けて血が出ていた。持っていた石を後方に投げ、節くれ立った無骨な手で、また左ポケットから新しい石を取り出す。自分の周囲には沢山の石が散らばっていた。


天へと向かい絶望と共に帰ってきた私は、今度は地の底を掘り返している。どれくらいの時間が経ったかは分からないが、深さからすれば、もうあの時の穴とほとんど変わらないところまで来ているはずだった。


山から降りた私は、石をズラさないように慎重に歩いていたこれまでの習慣につばを吐きかけるかのように、憤り混じりに地面をえぐるように蹴り飛ばしていた。飛び散る石と露わになる盤の目。私は、散らばっている石の一つを拾って、勢い良く地面に打ち付けた。


いつも聞いていた小気味良い音ではなく、その重みが周囲に伝わってくるような鈍く硬い音が響いた。石をぶつけた部分には、小さな凹みが出来ていた。戸惑いと絶望の中で偶然得たこの手応えに縋るように、以来私は毎日毎日穴へと潜り、地面に石を打ち続けている。手のひらの皮は厚くなり、始めの頃のように血が出るようなことはもうなかった。


この無限に広い世界、無限に溢れているはずの世界が、なぜこの穴のようにこんなにも狭く、息苦しく感じられるのか。この閉塞感は一体何なのか。それから抜け出すべく、ここではない何処か、色ではない何かを求めて、縋り付くように、より深く、もっと奥へと進む。


そして打つ石の音が、コーン、という、これまでの籠もった鈍い響きではなく、響きが先に抜けていくような音に変わっていた。とうとう盤の最深を捉えたのだ。私は自身の足場ごと打ち抜かないように注意をしながら、これまで以上に早く、そして強く石を打ちつける。あの山に登ったときのような高揚感が再び私を包み込み始めていた。


ふと、そのことを自覚した瞬間、私の手は止まる。怒りをぶつけるようにこれまで無心に石を打ち続けてきた。だが、到達を目前にしては、あの山での出来事を思い出さずにはいられない。


この高揚感に従い、この盤の底をとうとう打ち抜き、この下にある世界を目にした時、それがどのような結果であれ、下に広がる世界がどのような景色であれ、私は1つ賢くなり、この世界の真理へと一歩近づくことになる。


しかし、その希求がどんな結果をもたらすだろうか。あの山で、あの穴をくぐらなけれ、その先にある世界など知らなければよかった、と後悔したではないか。


未知が輝いているのは、それが未知であるからなのだ。それが一つの知に変わる時、未知は失われる。そして気がつく。憧憬は知では無く、未知にこそ向けられていたのだと。未知を犠牲に得られた知とは、なんて卑小でつまらないものだと。


目的は目的であるままに。達せられた目的は、その直後から忘却され、それまでの煌めきを失う。事物が初めから目的的であるが故に魅力を持つのではない。目的が事物に光彩を添えるのだ。


この下にあるものを知れば、その直後、私が抱いている高揚感はその輝きを失い、再びただ無限の色があるだけの絶望に飲み込まれることになる。真理とは、その未知の光を犠牲にするに値するものなのだろうか。


私にこの世界で残されている未知とは、このあと数センチほど先にある世界をおいて他に無い。それを明らかにすることによって、それが未知を超える結果で無い限り、石を置き続ける私の毎日には、文字通りどこにも逃げ場は無い、いやむしろこれ以上行き場がない、ということが証明されるのだ。


ここにきて、冷静に成り始めていた私は、一度腰をおろした。そして、手に握りしめていた石を辺りに投げ捨て、ふと右側のポケットから別の石を取り出す。緑みがかった淡い青。前に見た時もこんな色をしていたのか、その記憶も定かでは無い彼女の石。


無限に存在する色の中から唯一選び取られた彼女の色。私の手元にはあるこの石は、可能性ではなく、それが結実した唯一で現実的に存在している。この石があった所で彼女に再び会える可能性は無いが、この石の存在がこの無限の中で、その可能性があるはずのない世界で、確かに彼女と私が出会ったのだということを裏付ける。その過去は私の中に残っていて、右ポケットから取り出したこの石を目にする時、私はそれを思い出す。この石はその過去への縁である。


石への視線の先、私の足元に見えるのは、最後の一打を残した盤。このまま真理への欲求をこらえ、それを未知のままにしておくならば、これからの私の足元には、現実的な色相世界ではなく、常に可能性が存在し続ける。ただ際限なき空間と色の可能性があるのとは違う、その更に外側に達することが出来る可能性が保たれる。現実化していないが、それを選び取ることでそれが結実する可能性が。再びこの場所に来て、たった一度打ち込みさえすれば、真実が得られる。その真実に望むのは儚き夢かもしれないが、淡い期待としてであっても、その扉を開くまでは未知は常に私のもとに存在し続ける。それは未来への縁である。


こうした理解を得ただけで、私は既に少し満足していた。まだ一方通行の道を、未知へと踏み出してはいない。まだ私はこちら側にいる。落ち着きを得た私は、今は未だこのままにして置こうと、穴を登り始めようと壁の足場に向かって左足をかけた。


その時、右側のポケットから、薄緑色の青の石が滑り落ちようとしていた。私はとっさに左手を出して、石に手を伸ばそうとするが、それに伴って壁にかけていた足が外れて、バランスを崩した。私は石をその手に捉えたが、勢いを得た私の体は、そのまま地に倒れ込む。


カン、という軽い音が穴の中に響く。それはこれまでに聴いてきたような籠もった音ではなく、それはこの閉じた空間を、風が通り抜けていくように響いていた。私は受け身を取ろうとした際に、掴んだ彼女の石で残された一打を撃ち抜いていた。


全く予想せぬ事態に唖然としていた私の目に、破られた底の隙間から、その先にある世界が、その色が、網膜を通じて私の中に入り込んでくる。一面のグロテスクな色の混濁が、私を嘲るように笑っている。それは決して何も語ってはいない。ただ無秩序な色が盤上に整然と並んでいる。でも、私にはその語りかけが聞こえる。私はそこに像を見る。それはその色に写っているのか、それとも私の中にその像を見ているのだろうか。


ふと、私は自らの左手に持っていた石が無いことに気がつく。辺りには、穴を掘るのに使った無数の石が散乱していた。目に入るのは、濃い青緑、柔らかい緑、青みがかった明るく鈍い緑、くすみのある暗い青緑。慌てて足元の石をかき分けるように彼女の石を探そうとした。しかし探すことなど出来なかった。なぜなら、それらの無数の石と彼女の石を区別することなど、私には出来なかったからだ。かき分けた石の幾つかは、吸い込まれるように先程開けた穴から下の世界へと落ちていった。


私は過去と未来、二つの縁を失った。こうして私には現在の楔が深く打ち付けられ、一切の身動きが取れなくなった。どこにも行く場所も、過去へと追憶する自由も、未来へと反復する権利も失われた。どんどんと血の気が引いていくように感じられ、顔からは色が失われていった。そしてそれと取り替わっていくように、色が、ありったけの色が私の中に流れ込み、満たしていった。


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この空間には無限の色があり、無限の中で、偶然その中の二つが完全に一致しているということは実質的には不可能なことである。同じと思った時にこそ、そんなことは起き得ないのであるということを思い出して、その偶然の可能性など切り捨てるべきなのだ。


私には結局私には自分の色のことしか分からない。無限の色を識別できるような優れた目は無いし、それらを区別して表現できるような語彙もなかった。案の定彼女の石の色など、もう思い出すことは出来ない。


もし、そうであるならば、なぜその石は私にとって特別であることがあり得るのか。もし私にとってそれが特別だったのだとすれば、それは色という次元では語ることが出来ない、無限の中で生じた偶然の出来事、それが不可能ではなかった事実、彼女との出会いという色、私にとってそういった色を持った石だったのだ、ということだ。


しかし、そんな石も既に無くなり、この世界は相も変わらず吐き気がするほど広大で、今まで以上に閉ざされて息の詰まる場所になった。


意外に思われるかもしれないが、むしろ私が一番驚いているほどなのだが、全く予想しなかったこの結果に、この途方も無い絶望に、清々しささえ感じていた。


ここで生きることとは、畢竟どこまでを見て、どこで見なかったにして、最後にまたこのゲームに戻ってくるか、その「程度」の違いであって、またそうであるしかないのだ。


私は左足の前に石を置けそうなマスを見つける。ルートは遥か前方、地平線に向かって伸びている。だいぶ前に置いた場所だ。距離も遠く、ルートが正しいかの確信は無い。だが構わないだろう。


今日もうんざりとしながら、左ポケットから石を取り出し、颯爽とした軽い手つきで石を置く。コツ、という小気味良い石の音が、この世界には響いている。

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