彼女は吸血鬼(そして僕は狼男かもしれない)
「ねえ、私って実は吸血鬼なんだ」
僕がベランダで洗濯物を干している時、窓際の椅子にあぐらをかいて座っていた彼女がそう言った。
僕は自分のシャツをハンガーにかけながら、
「じゃあ僕もいつかは血を吸われるの?」
「ううん、私は美女と可愛い女の子専門」
「グルメな吸血鬼だなあ」
でも考えてみたら彼女は日向ぼっこが好きだし、この前はクロスのネックレスをしていた気がする。それを指摘すると、
「今こうしている時の私は人間だけど、夜になったら変身するんだよ。それに私は上級吸血鬼だからね。そんな陳腐な弱点などないのだ」
そう言って彼女は窓際で昼寝を始めた。
僕は彼女の下着を見えづらい位置に干しながら、彼女が言ったことの意味を考える。彼女は時々こういう不思議な冗談を言う。それにうまく付き合えているかは分からないけれど、僕は彼女のそういうところも好きだ。それに夜の街を我が物顔で闊歩する彼女の姿を想像すると、存外似合っているような気もする。
彼女が僕の部屋に泊まるようになってしばらく経つ。最初の頃は一晩だけだったのが、段々と僕の部屋にいることが多くなり、今では月の半分以上を僕らは一緒に暮らしている。そんなふうにして始まった半同棲生活だからか、今のところ大きな諍いも無いし居心地の悪さも感じない。それでも時折、それ以上先に進むことへの躊躇いをお互いそれなりに抱えているのだろうなと感じる時はある。とはいえそれも時間が解決してくれるだろうと僕は考えていた。
彼女はアパレルメーカーに勤めていて、給料も僕よりちょっぴり高い。プロジェクトが忙しくなれば帰ってくるのが遅くなることも増える。僕が寝た後に終電で帰ってくることもあった。
「最近、毎晩遅いけど大丈夫?」
「私は夜行性だから大丈夫」
「吸血鬼だから?」
「そう」
それでも彼女は時折俯いて考え事をしている時があるし、最近は休みの日に昼寝をしていることも多くなった。僕が仕事は大変かと聞くと、後輩の子たちの血を吸ってるから平気だよと笑った。
ある土曜日の朝、目が覚めると彼女が横にいなかった。昨日はここに帰ってこなかったということだ。会社に泊まったか、あるいは久しぶりに自分のアパートに帰ったのかもしれない。スマホには昨夜の晩に届いた「今日は遅くなるから先に寝ててね」というメッセージが表示されているだけだった。僕はスマホでお疲れ様とメッセージを送ったけれど、なかなか既読にはならなかった。
もしかしたら彼女は吸血鬼になっているのかも知れない。
夕方、彼女が僕のアパートを訪ねてきた。
二人で簡単な料理をして食事をし、テレビを見た。テレビは税金が上がるとこんなに困るんだぞと教えてくれていたけれど、僕はそれをどこか遠い国の話のように聞いていた。
「ねえ」
彼女が珍しく缶ビール(正確には発泡酒だ)を冷蔵庫から出してきたので、僕らはあらためて乾杯した。一緒に缶詰のアヒージョをつつく。
「にんにくを食べて平気なの?」
「彼氏といるのに?」
「いや、吸血鬼なのに」
一拍遅れて、彼女は笑った。
「ねえ、私が吸血鬼でも君は愛してくれる?」
「もちろん」
「良いの? 吸血鬼はわがままだよ。プライドも高いし偉そうだし。その上、血に飢えてる時もある」
「そんな風には見えないけど」
「今はね。でも吸血鬼としての本性を出した時の私はそうなの」
「そうなんだ」
「君だって自分で気づかないだけで実は狼男かもしれない」
「狼男?」
「満月の夜に人知れず変身して暴れてる、なんてこともあるかもよ。でも厄介なのは狼男に変身している間の記憶が無いことだね。自分でも自分が狼男であることに気付かない」
「それは、その……性的な意味だったりする?」
「バカ。世の中そういうことだってあるかもしれないじゃんって話」
「でも君は気づいたわけだ。自分が吸血鬼だということに」
「そう。……それが厄介なところなんだよね」
ベッドの中で彼女の寝顔を見る。今日の彼女は吸血鬼ではないようだった。今までだって彼女のそんな姿を見たことはない。たぶん。
僕は今日の夜のことを思い出す。ちゃんと記憶はある。でも確かに彼女の言う通り、自分でも気付かないうちに狼男になっているという可能性はゼロじゃない。仮に自分が狼男だと気付く時があれば、それは既に変身してひと暴れした後のことだろう。
夢の中で僕は狼男だった。
僕は夜の街を走りながら酔っ払いや公園にたむろす不良たちを引き裂いて、その怪力で駅のホームに停まっていた電車を殴って凹ませた。
自分でも何を求めているか分からない僕は、口から飛び出しそうな興奮と混乱と寂しさを抱えて街を疾走する。
そこに吸血鬼と化した彼女が現れた。
夜に酔った僕らは喧嘩を始めた。
僕らはお互いに傷つけあいながらも、ふとさっきまでの寂しさが消えていることに気がつく。
朝が来る頃人間に戻った僕らは、生傷をさすりながらアパートへ戻った。
二人で疲れた笑いを浮かべながらベッドに入ったところで目が覚めた。
寝坊した僕がゆっくりと目を開けた時、ベッドから立ち上がった彼女は額に手を当ててスマホを見ていた。その表情から会社からの連絡なのだろうと察しがついた。彼女は小さく舌打ちをした。
ああ、これが彼女が言う「吸血鬼」なのだな、と僕は気がついた。もちろん、黒いマントを着ているわけでも、牙を剥き出しているわけでも、唇を血で濡らしているわけでもない。彼女は静かな怒りを湛えたような冷たい眼差しで光るディスプレイを見つめている。彼女がこちらを振り向く前に僕は目を閉じた。
少しして彼女の唇が僕の頬にそっと当てられるのを感じた。それから彼女は服を着替え、一枚の書き置きを残して出て行った。僕は立ち上がってそれを読む。
『急に仕事で呼ばれちゃった。来週また来ます』
小さなハートマークが添えられたその走り書きを見ながら、僕はついさっき見た彼女の表情を反芻した。今まで見たことのない静けさと苛立ちがそこにはあった。
それからしばらく彼女は仕事が忙しかったらしく、また僕も僕で自分の仕事をし、再会したのは金曜の夜だった。僕も彼女も会社帰りのスーツ姿で、週末らしい疲れと束の間の喜びを携えて小さなレストランに入った。
薄暗い小ぢんまりとした店で僕らは言葉少なにパスタを食べた。ワインもビールも頼まず、食後にコーヒーをブラックで飲んだ。料理もカップも店と同じく小ぢんまりとしていた。
「また吸血鬼に変身しちゃった」
「どこで?」
「それはもちろん会社で」
「変身するとどうなる?」
「それはもうひどいことになるんだよ」
「前から聞こうと思ってた。どうして吸血鬼なの?」
「ちょっと前まで先輩の吸血鬼がいたの。わがままで高慢ちきでとっても偉そうなのがね。私はそいつに血を吸われちゃってさ」
「それは……災難だね」
「今はもうそいつはいなくなったけど、なにせ吸血鬼に血を吸われちゃったもんだから、今度は私が吸血鬼になっちゃったわけ。私は別になりたくなかったし、ならないように気をつけてたのにさ」
「そっか」
「吸血鬼は我慢がならないんだ。何かが思い通りにならないことも、愚かな人間たちが自分の周りをうごうごと右往左往しているのも。でも同時に、そんな風に自分が周囲のもの全てに苛立っていることにも嫌気が差してる。だから時々手近な誰かの血を吸いたくなっちゃう。自分が昔されたみたいにね」
「……」
「ねえ」
「うん?」
「私、いつか君の血まで吸ってしまうかもしれない」
レストランを出て僕らは一緒にアパートへの道を歩いた。月のよく見える晩だった。彼女も僕もそれなりに疲れていたけれど、それでもこうしてまた一緒に歩けることは嬉しかった。
彼女は自分のバッグのベルトに爪を立てるみたいにぎゅっと握りしめながら俯き加減に歩いていた。自分の中の吸血鬼を抑えているのかもしれない。
もしも彼女が吸血鬼に変身したら、無力な僕はひとたまりもないだろう。僕はそれほど頑丈な方でもないし、下手をしたら血を抜かれすぎて死んでしまうかもしれない。朝が来て人間に戻った彼女に、青白くなった僕を見つけてほしくはない。そんなことを考えた。
僕は空を見上げた。満月だった。目を見張るほど大きくなった月が、雲を振り払うかのように眩しい光を僕らに投げかけていた。
ちょうど良いところに酒屋を見つけた。僕は彼女の手を引いて店に入り、安いワインと小さなペアのグラスを買った。彼女は困惑したような笑みを浮かべながらも、僕が金を払ってビニール袋を受け取るのを静かに見ていた。
アパートとは違う方向へ5分ほど歩いた。僕はそこに橋があることを知っていた。橋の真ん中は小さく膨らんでいて、僕らはそこで手荷物を降ろした。
「お月見でもするの?」
「そうか、傍から見ればそんなふうに見えるかもしれないね。正直、特に何かしようと思ったわけじゃないんだ。こういうことをするのもたまには良いんじゃないかと思っただけで」
ビニール袋からグラスを出してワインを注ぐ。僕らは欄干にもたれてグラスを打ちわせた。少し安っぽいけれど自動車の音にも川のせせらぎにもかき消されない涼やかな音が夜に鳴り響く。
「めずらしいじゃん、こんなこと思いつくなんて」
「思いつくことはよくある。実行に移す勇気と遊び心が足りないだけで」
「じゃあどうして今日はその勇気と遊び心が湧いたの?」
「今日は満月だ。僕は狼男なんだ」
僕らは川に映った月を見ながらグラスを傾けた。
「いいなあ、狼男さんは。吸血鬼みたいに嫌なやつじゃないんだ」
「相手によるさ。目の前の相手が嫌なやつならバラバラに引き裂いてやるかもしれない。でも気の合う相手とは酒を酌み交わすことだってできる」
「同じ夜の生き物だから」
「そうだね」
「本当に吸血鬼になった気分」
ワインを揺らしながら彼女は上機嫌そうに呟いた。少しの沈黙の後、彼女は口を開いた。
「狼男さんは、変身が解けた後のことは何も覚えていないの?」
「たぶんね」
「じゃあもう少し愚痴を聞いてよ」
そうして彼女はぽつりぽつりと仕事の愚痴を言った。現場をなんにも分かっていない上司のこと、無愛想な取引先のこと、いつまでも仕事を覚えない後輩たちのこと、苛立ってばかりいる自分のこと……。
「バカな上司もやる気のない後輩も大っ嫌い。誰かを大っ嫌いな自分も大っ嫌い」
彼女はグラスのワインをぐっと飲み干して、潤んだ目で僕を見た。
「ねえ、失望した?」
「全然」
僕は首を振った。
彼女はグラスを欄干に置くと、
「ねえ、私も勇気と遊び心を出しても良い?」
そうして僕の返事も待たずに彼女は履いていたパンプスを脱ぐと、川に向かって大きく放り投げた。パンプスは弧を描いて満月の中心に飛び込み、遠い水音を立てた。
「一度やってみたかったんだよね。思いついたことは何度もあるのに、実行に移す勇気がなかった」
彼女は大きく息をついてまた欄干にもたれた。
「帰れなくなっちゃった」
「僕が背負っていくよ」
「……ありがとう」
グラスと残ったワインをビニール袋に入れて、僕は彼女を背中におんぶした。
「なんだか私、酔っぱらいみたい」
「実際、客観的にみれば僕らは酔っぱらいなんじゃないかな」
「そっかあ。ねえ、朝になったら本当にさっきのことを忘れる?」
「さっきのこと?」
「愚痴とか靴を捨てたこととか」
「忘れない。狼人間だなんていうのは嘘さ」
「嘘つき」
「でもさっきも言ったけど、失望なんてしないよ」
「そう? 私が吸血鬼でも愛してくれる?」
「うん。いつもの君も、吸血鬼の君も、どちらも君だ」
「そうなのかな」
「僕だっていつか本当に狼男になって誰かを引き裂いてしまうかもしれない。もしくは君に血を吸われて吸血鬼になってしまうかもしれない。それでも僕は僕として生きていくしかないし、昼間の僕も、狼男の僕も、吸血鬼の僕も、やっぱり僕なんだ。それを認めるのは辛いけど、少なくとも自分が怪物になってしまうことに気づかずにいるよりはましだ」
「辛いね」
「うん。でも一緒にいることはできる」
「同じ夜の生き物だから」
「そうだね」
「ねえ」
「うん?」
「月が綺麗だね」
「そうだね」
お読みいただきありがとうございました。
恋愛小説を書いたのは初めてでした(ゆえにこれが本当に恋愛小説と呼べるのかは自分でも分かっていませんが)。
というのも初めは恋愛小説を書こうというつもりはなく、ただ男女がお互いの知らない一面に気付き受け入れ合おうとする物語を書くということだけを決めていました。
書いているうちに「『親しい男女がそれまで見せなかった一面を見せてわかりあう』というのは、もうこれは恋愛なのでは?」と思い、恋愛小説のカテゴリで投稿することにしました。
作中で言及される「吸血鬼」は、「他人に厳しく当たってしまう攻撃的な自分」のメタファーですが、そうした嫌な自分というものは誰でも持っているものであり、お互いに受け入れ合うのが大事なのではないかなと思っています。
他の作品もお読みいただけると嬉しいです。
ありがとうございました。