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予感の夜

 バイトを終えた悠は自宅アパートへと戻ってきていた。

 時刻は午後六時を回っているため、今朝は自室にいたお客様もさすがに帰っているはず。

 そう思い、鍵を取り出すことなくドアノブをひねった。

 しかし——

 「嘘だろ……」

 ドアは開かなかった。

 彼女に合い鍵なんてものは渡していないため、外から鍵をかけることは出来ない。そうなれば、結論として考えられるのは一つ。

 悠はポケットから鍵を取り出し、おずおずと鍵穴に差し込んだ。

 そのままドアを開けると——やはり、玄関には見慣れないスニーカーが置かれていた。

 (本当に帰らない気なのか……?)

 靴を脱ぎ、キッチンと居室を隔てている扉を開けると——

 「お、おかえり」

 「いや、そんな当たり前みたいに言われても……」

 そこには、スマホ片手に我が物顔でベッドに寝そべっている乃亜がいた。彼女は少し気まずげな表情を貼り付けながら悠を迎える。

 「なんでまだいるんだ」

 「…………帰りたくないから」

 乃亜はスマホをジッと見つめながら、不貞腐れたように呟いた。

 昨晩は酔いが回っていたせいで余計に情緒が不安定だったのだろうと思いもしたが、どうやら『帰りたくない』というのは気の迷いではないらしい。

 家で何かあったことについては確かなようだ。

 「俺が言うのもアレだけど、見知らぬ男の家にいる方がよっぽど怖くないか?」

 「じゃあ逆に、私がここにいたら何かするの……?」

 少し声が震えているが今朝ほど怯えた様子はなく、どこか試すような聞き方だ。

 「いや、神に誓って何もしないが」

 「そう……」

 即答した悠に、乃亜は安堵したような声を漏らした。

 乃亜の中で昨晩の疑いが完全に晴れたわけではないだろうが、ひとまず通報されそうな空気ではないため悠もホッと胸を撫でおろした。

 「そ、それに……見知らぬ人ってわけでもない」

 「え?」

 「思い出したの。えっと確か……もなみ君……でしょ? 同じ経済学部の」

 「……もがみ、な」

 どこぞの大手ゲーム会社のような間違いをされ、悠は拍子抜けしてため息を漏らす。

 ——しかし、それ以上に驚きだった。

 「俺の事なんて、よく知ってたな」

 「同じ学部の人の顔と名前くらいは大体知ってる」

 (名前、間違えてたけどな)

 どこか得意げにしている乃亜に悠は心の中でツッコんだ。

 それはそれとしても、意外なことには変わりない。

 乃亜は人気の割に彼氏はおろか、特定の誰かと仲良くしている様子すらないため、てっきり他人に興味がないのかと思っていた悠だが……そんな彼女が、まさか話したことすらない自分のことを認知しているとは思いもしなかったのだ。

 一度見聞きした顔や名前を忘れないほど記憶力がいいのか、あるいは意識的に覚えているのか。

 悠が腕を組みながら考えていると——ふと視界の端に、テーブルに置かれた空の食器が映り込んだ。

 「食べてくれたのか……」

 自ら勧めたものの正直あまり期待していなかった悠は、独り言のようにポツっと声を漏らす。

 その声に、乃亜はピクリと肩を揺らした。

 「それは……! しょ、食材がもったいないと思ったからで!」

 「まぁ、そうだよな。ありがとう」

 予想に反して淡白に返す悠に、必死に言い訳した乃亜はバツが悪そうにぷいっとそっぽを向いた。

 理由はともあれ、ひとまず食べてくれてよかった。

 それならばと、悠はさらに持ちかける。

 「今から夕飯作るけど、食べるか?」

 「…………」

 悠の提案に、乃亜はスマホを触る手をピタッと止める。

 ——少しして、乃亜は悩まし気な表情を浮かべたまま、小さく頷いた。

 釈然としない様子だが、朝食から何も食べていないことを考えれば、さすがにお腹が減っていたのかもしれない。

 悠はキッチンへと向かい、冷蔵庫の中の食材たちと相談して今夜の献立を考える。

 しかし、今朝二人分を作った消費が思ったよりも多かったのだろう。冷蔵庫にあった食材は卵と玉ねぎとハムくらいだった。

 「……あれしかないか」

 悠はいつものように複数の品を作ることは諦め、冷凍ご飯が二人分余っているのを確認するとエプロンを巻いた。

 ——包丁を手に取り、素早く玉ねぎをみじん切りしていく。

 そのスピードはプロに負けず劣らずで、ベッドに寝そべっていた乃亜も思わず体を起こして見入るほどだった。

 (見られてるとやりづらいな……)

 そう感じながらもスピードは落ちず、順調に切り進めていく悠。

 しかし、慣れない視線がほんの僅かに悠の手元を狂わせた。

 「いっ……」

 もうすぐ切り終えようというところで、包丁が左人差し指を掠めた。

 気が散ったとはいえこんなミスをするのは小学生の頃以来で、悠は少し落ち込んでしまう。

 しかし幸いにも傷は浅く、少し染みるが水で洗い流すとすぐに血は止まったので、何とか乃亜に悟らせないようにして調理を再開する。

 ——その後は特にトラブルもなく、つつがなく調理を完了した。

 「おまたせ」

 「……すご」

 テーブルに置かれた、それは見事なオムライスに乃亜が嘆息した。

 鮮やかな黄色の卵は口に入れずとも分かるほどにふわふわで、お手製のデミグラスソースの芳醇な香りが立ち上る湯気に乗って鼻孔をくすぐってくる。家庭で再現するには骨が折れそうな仕上がりだ。

 「「いただきます」」

 その合図とともに、乃亜の手が皿へと伸びる。

 ——スプーンで掬って一口頬張ると、ずっと硬かった乃亜の表情が緩んだ。

 はふはふと口の中で熱を吹き冷ましながら、手を頬に添えて幸せそうにしている。

 そんな様子を悠が微笑まし気に見ていると、乃亜は『あっ』と声を漏らして、咄嗟に表情を引き締めた。

 「ぜ、絶対バカにした……」

 「いや? ただ、美味しそうに食べてくれるな~と」

 「うるさい」

 少しばかり茶化したように言った悠に、乃亜はムッと口を尖らせた。

 (何かと表情に出やすいんだな)

 その後は互いに黙々と食べ進める。

 真顔を繕っていても乃亜のスプーンの勢いは止まらず、オムライスも残りわずかとなったあたりで、乃亜の手がピタリと止まった。

 ——悠の左手を一心にみつめ、目をしばしばさせている。

 「指、血出てる」

 「ん? ……ああ」

 そういえばと、悠もテーブルの上に添えていた左手に視線を落とす。すると、先ほど切ってしまった人差し指から豆粒大の血が出ていた。

 「実はさっき切ってさ、止まったと思ったんだけどな」

 そう呑気に言った悠に、乃亜は呆れたように溜息を吐いて立ち上がる。

 すると、ショートパンツのポケットに手を入れて何かを探し出した。

 「あった」

 そう言ってポケットから抜かれた手には、なんと一つの絆創膏が握られていた。

 「え……ドラ〇もんなの?」

 普通はポケットよりもカバンなどに入っているのが自然。あまりに都合の良いポケットに、悠は少し引き気味に尋ねた。

 「ただ持ち歩く癖がついちゃってるだけ……悪い?」

 バカにされたと思ったのか、乃亜は虫の居所が悪そうだ。

 悠がブンブンと首を横に振ると、乃亜がおもむろに悠の隣へとやってきて腰を下ろした。

 「手、出して」

 「え? いやいいよ、浅いしすぐ止まる——」

 「ダメ」

 「はい……」

 ギロっと上目遣いで睨んでくる乃亜に観念し、悠は左手を差し出す。

 乃亜は封を切って絆創膏を取り出した。

 悠の手に、乃亜の手が重ねられる。

 白くしなやかで、思いのほか小さな手。そこから伝わる温もりと柔らかな感触が全身を駆け巡り、何とも言えないむず痒さに襲われる。

 ほのかに香ってくる甘い匂いを辿るようにゆっくり視線を下ろすと、ぎこちない手つきながらも健気に手当てをしてくれている乃亜がいた。

 心なしか淡く染まった頬がやけに可愛らしく思えて、悠の鼓動が小さく跳ねた。

 「あ、ありがとう」

 「別に……」

 絆創膏を貼り終えた乃亜は素っ気なくそれだけ言ってそそくさと悠の対面に戻ると、どこかソワソワと落ち着かない様子で残りのオムライスに手を付ける。

 それをあっという間に食べきると、再び立ち上がった。

 「じゃ、じゃあ私……帰るから」

 「お、おう?」

 乃亜の急な心変わりに戸惑う悠だったが、乃亜は気にすることもなく玄関へと向かっていった。

 せめて見送ろうと、悠もその背中を追う。

 乃亜はドアを開けて外に出ると、悠の方を振り返って口を開いた。

 「言っておくけど、私……まだ最上君のこと疑ってるから」

 「……そうか」

 (それにしてはだいぶ落ち着いてたような……)

 そう言いかけたが、蒸し返すと怒られそうなため口を噤んだ。

 「ま、またね」

 そう言って歩き出した乃亜の背中を見送ってから、悠はドアを閉めた。

 (……またね? ……いや、たまたまか)





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