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帰りたくない

 居酒屋からの帰り道。

 乃亜を駅まで送る道すがら、二人は悠のアパートのある住宅街へと戻ってきていた。

 アーケードの喧騒が嘘のように辺りは静寂に包まれ、等間隔に設置された街灯だけが夜道を青白く照らしていた。

 酒が回って気分が高揚したのも束の間、少し歩いたことで悠の酔いは覚めつつあった。一方の乃亜は足取りこそしっかりしているようだが、その頬には微かに桃色が残っていた。

 居酒屋ではいつもよりはしゃいで見えた乃亜だが、店を出るなり態度が一変。悠が何を語りかけても上の空という具合だった。

 周囲の静けさに呼応するように、肩を並べて歩く二人の間に会話はない。

 ——楽しかった一日が、このまま終わってしまう。

 抜けきらない酒のせいで感傷的になっているのか、あるいは沈黙が不安を煽るのか。悠が一抹の寂しさに憂いていると、ふと視界の端から乃亜の姿が消えた。

 「あ、あの……」

 背後からの声に立ち止まり後ろを振り返ると、乃亜が今更緊張したような表情で立ち尽くしていた。

 「ちょっと座りたいかも」

 「あ、あぁ……ごめん」

 もしかしたら体調がすぐれないのかもしれないと、悠はここまで何も気にせず歩いてきてしまったことを自省した。

 座れそうな場所はないかと辺りを見回してみるが、暗がりで視界が悪いせいか、なかなか見つけられない。かと言って地べたやブロック塀にというわけにもいかず、悠が頭をひねっていると、乃亜がある一点を指さした。

 「あそこにしよ」

 「え?」

 乃亜が指し示す先にひっそりと佇んでいた〝公園〟に、悠は思わず瞠目した。

 当時の乃亜は泥酔していて何も覚えていないため全くの偶然だろうが、まさか酒を飲んだ帰りに、あろうことか二人で来ることになろうとは。

 悠は不思議な気持ちになりながら公園に足を踏み入れ、乃亜をベンチに座らせた。

 「近くに自販機あるし、水でも買ってくるよ」

 「あっ、待って」

 「ど、どうかした?」

 「あ、えっと……そこまでひどくないから大丈夫。……だからほら、座って?」

 必死に訴えかけるようなまなざしを受け、悠は促されるまま乃亜の隣に座った。

 彼女は体調が悪いのかと思いきや、背もたれに頼ることなくピンと背筋を張っている。顔色も決して悪くなさそうに見えるが、膝の上で拳が強く握られていた。

 そんな張り詰めた空気が漂う中、乃亜は意を決したように大きく息を吸うと、傍らに置いたショルダーバッグから一つの小箱を取り出した。

 「あ、あげる……!」

 そう言って、可愛らしくラッピングされた小箱を片手で差し出してくる。

 視線は明後日の方を向いていて、一見すると素っ気なく見える態度だが、小箱を持つ手の震えからは緊張が伝わってきた。

 予期せぬプレゼントに口をあんぐりと開けながら、悠は静かに小箱を受け取った。

 「えっと、開けてもいい?」

 「うん。い、言っとくけど……全然大したものじゃないからね」

 不安げな乃亜の視線を受けながら、悠は慎重にラッピングを外していき、大きさの割にずっしりとした箱を開封した。

 「あれ? これって確か……」

 箱から取り出した一客のコーヒーカップに、悠は思わず声をこぼした。

 慎ましくも可愛らしい花柄のデザイン。そのどこか見覚えのあるカップに、デパートでの出来事が頭を過った。

 あの時、乃亜が後ろ手に隠し持っていたカップだ。

 「も、最上君の部屋ってさ、たまにコーヒーっぽい匂いしない!? キッチンの隅にミルっぽいの置いてあるし好きなのかな~って思ったんだけど……ち、違った……かな」

 驚いたような悠の表情を見兼ね、まるで弁解のような口調で補足する乃亜。その言葉尻は風船のように弱々しくしぼんでいった。

 幼き日に父親にプレゼントした似顔絵も、母親にプレゼントした編み物も。喜んで欲しいと思って渡した物はことごとく捨てられてしまった。

 これまでの経験上、自分の選択に自信が持てなかった乃亜は、悠にも内心いらないと思われないか不安で必死に考え抜いた。

 ——悠は何が好きなのか。

 ——何を求めているのか。

 まさか本人に直接聞くことも出来ず、悩んだ末に部屋の雰囲気から憶測でコーヒーカップに決めてしまったが、こうして困惑させてしまうくらいなら余計な意地なんて張るんじゃなかった。最初から何が欲しいのか訊いておけばよかった。

 そんな後悔が胸を埋め尽くし、自責の念に押しつぶされそうになる。

 「よく分かったな」

 「……え?」

 しかし、それも杞憂だった。

 力なく俯いてしまった乃亜の頭に、悠は優しく手を置いて微笑んだ。

 乃亜はゆっくりと顔を上げると、そこに映った悠の表情にドキッと鼓動が跳ねた。

 「色々考えて選んでくれたんだよな」

 嬉しそうにカップを眺めながら悠が尋ねると、乃亜は照れ臭そうに小さく頷いた。

 悠がコーヒー好きであるのは事実だ。

 芳醇な香りと味が好きで、飲むも淹れるも悠の生活の一部であり、バイト先に喫茶店を選んだのもその影響あってだ。

 しかし、その独特な香りが苦手な人もいるからと、基本的には家で一人の時にしか飲まないし、出来るだけ換気するようにしているため匂いもほどんど残らない。

 ミルについても、たまに沙羅が豆を安く譲ってくれるからと買ってみたものの、実際に使う機会は多くないため邪魔にならない場所に避けていた。

 それでも悠にとってコーヒーは唯一の趣味。知ってもらう必要なんてないと思っていても、気付いてもらえたことが嬉しかった。

 「ほんとにありがと、大切に使わせてもらうよ」

 悠は今日一番の笑顔でそう言うと、乃亜の頭から手を離して正面に向き直る。

 乃亜はその満足気な横顔を見つめながら、まだ微かに温もりの残る頭に手を置いてみた。

 「……ズルい」

 悠の反応に対する嬉しい気持ち反面、少しずつ引いていく温もりに胸が締め付けられて、気付けば体が勝手に動いていた。

 「——っ!?」

 柔らかな感触と甘い香りに、悠は息を呑んだ。

 すぐ横を覗いてみると、乃亜がペタッと身を寄せながら右肩に頭を預けてきていた。

 「酔ってるから……ちょ、ちょっと貸して」

 「でも、さっき大丈夫って——」

 「急に回ってきたの!」

 「さ、左様で……」

 胸がザワザワ騒ぎ出すのと対照に、公園はシンと静まり返った。

 密着しているせいか、甘い香りに交じってほんのりアルコールの匂いがやってくる。

 どこか懐かしい匂いに当時のことを思い出すと、今こうして乃亜が無防備に身を預けてきていることが何だかおかしかった。

 悠が思わずクスっと笑い声をこぼすと、乃亜が下から睨んできた。

 「な、なんで笑うの?」

 「ん~、今日が楽しかったからかな」

 「絶対うそ。なんかバカにしてるでしょ」

 「そんなことないって。たまに外出してみるのもいいな~って思ったよ」

 「そ、そう。……なら、また付き合ってあげてもいいけど」

 「一人だと心細いし、またお願いするよ」

 悠のおどけたような返答に、乃亜は安心したような吐息を漏らす。

 急に頬ずりを始めた乃亜のサラサラとしなやかな髪に首筋を撫でられ、まるで内臓がくすぐられたかのように体の内側がかゆくなっていく。

 無愛想なのか、懐っこいのか。そんな曖昧で可愛らしい態度がモカを彷彿とさせ、ふと店を出る時に言われたことを思い出した。

 『彼女さんのことも可愛がってあげな?』

 すると途端に乃亜が何かをねだってきているように思えて、根拠のない妄想がドクドクと鼓動を加速させていった。

 ——悠は少し躊躇しながらも、空いている手をゆっくりと乃亜の頭に置いた。

 乃亜はピクッと肩を揺らす。

 彼女が動き止むのを確認すると、悠はぎこちなく手を左右に動かした。

 「お、俺も酔ってるみたいだからさ……大目に見てくれ」

 お返しだと言わんばかりに乃亜と同じ言い訳をする悠に、乃亜は『ふーん』と不貞腐れたような声を漏らす。そして、その口調のまま続けた。

 「酔ってないとやってくれないんだ……」

 独り言のような強烈なカウンターに、悠は思わず手を止めてしまう。

 胸がズキズキと軋むように痛んで、そのまま言葉を継げずにいると、乃亜が『ふふん』と勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

 心を満たしていく得体のしれない高揚感をを吐き出そうと、悠はカラカラに渇いていく喉から何とか声を絞り出した。

 「そういう冗談はよくない……」

 しわがれ声で呟きながら、顔を横に逸らす悠。

 その様子を横目で覗いていた乃亜は、肩の上で少し顔を動かすと、赤く染まった悠の耳に囁きかけるように言った。

 「……ばか」

 当然その息遣いは耳に届いたが、これ以上何かされると心臓がもたないため、悠は沈黙で返した。

 迂闊に乃亜をからかうものじゃないと思い知らされ、やるせない表情を浮かべながら大人しく枕に徹することにした。

 ——そのうち、乃亜は眠ってしまったようだ。

 よほど疲れていたのだろう。スゥスゥと可愛らしい寝息を立て、悠が少し体を動かした程度では起きる気配がない。

 あの夜、初めて会った時の悲哀に満ちた面影は消えていた。

 乱れた髪も、泣き腫らした瞼も、その全てが嘘と見紛うほど幸せそうな寝顔に、悠は得も言われぬ複雑な気持ちになった。

 結局、乃亜の事情については何ら解決していないし、根本的な原因からして今後それが実現するかと言われれば正直かなり難しい。少なくとも彼女が家を出るまで、家族のしがらみからは逃れられない。

 自分は乃亜の家族でも、彼氏でも、まして友達なのかすら分からない。そんな名前の付けようのない関係性の自分が、彼女の居場所になりたいと思うのはおかしいだろうか。

 …………いや、そんなことは今更だ。

 もとより一方的なお節介から始まった関係なら、彼女が拒まない限り、自分は今まで通りお節介を焼き続けてやればいい。

 ——だから、ずっとこんな顔でいてほしい。

 いつも大学で見せる危なっかしい笑顔とは違う。どこか安心したような穏やかな表情に、傲慢と知りながら心の底から思ってしまった。

 彼女を支えたいと、そう思った。

 「……ぇり…………なぃ」

 すると、乃亜が耳元で何やらむにゃむにゃと、寝言のように呟く声が聞こえてきた。

 何を言っているのかよく分からなかったが、耳を澄ましてみると微かに聞き取ることが出来た。

 「……かぇりたく……なぃ」

 その言葉に、悠は顔を綻ばせた。

 あの時と同じ言葉のはずが、こうも違って聞こえるのだから。

 「俺も、今日は帰りたくない」

 そう優しく囁き、二人は束の間の眠りについた。


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