あの人は……
玄関のドアが閉まる音がして、ストンと肩が落ちた。
「痛ったぁ……」
さっきまで緊張してたから感じなかったけど、頭がズキズキ痛い。
昨晩の記憶があいまいなことに加えてこの頭痛。
公園に行ったところまではちゃんと覚えてるし、私が酔い潰れてたっていうのは本当……なのかもしれない。
で、でもだからって!
それをただの善意で連れてくるなんてあり得る!? こういうのって、お……お持ち帰りってやつじゃないの!? 酔ってフラフラなのをいいことに、あんなことやこんなこと——
いや、でも……それなら、わざわざ朝まで家に置いとく? それこそ記憶がないなら、することしたら適当に追い出せばいいんじゃ……。
『もう少し自分を大切にしろよ』
ふと、あの人の言葉が脳をめぐった。
——胸がザワザワする。
言われたときもそうだった。くすぐったいような、少しチクっとするような。
でも……不思議と嫌な感じはしない。
一見すると体のいい言い訳にも聞こえる……けど。
あの時、彼は確かに苛立っていた。
まるで本当に、私のことを心配してくれているみたいな口ぶりだった。
…………何なの、もう。
彼についてあれこれ考えてみるけど、私に確かな記憶がない以上結論は出ない。
てか、もう色々ぐちゃぐちゃで頭痛い……!
私はギューッと痛くなる頭を落ち着けるように一つため息を吐いてから、自分が投げてしまった枕と毛布を拾いに立った。
グゥ~
「あっ……」
枕と毛布を手にベッドへ戻る途中、テーブルに置かれていた味噌汁に目が行って、お腹が鳴ってしまった。
そっか、何も食べてなかったんだっけ。
……お腹減ったなぁ。
枕と毛布を元の場所に戻して、ベッドの端に腰かける。
そして、テーブルの上に視線を向ける。
——どれも色と形がキレイで、本当に美味しそう。
って、ダメダメ!
今ここで誘惑に負けて食べちゃったら、なんていうか……あの人を認めるみたいで気に入らない。
そ、それに! 何か変なものでも入ってたら——
グゥ~
「うぅ……」
ちょ、ちょっとつまむくらいなら……。
いやでも……。
あ、そうだ!
少し食べて残しちゃえば、逆に美味しくなかったって事に出来るんじゃない!? うんうん、これなら認めるとかにはならないはず!
私はピョンと軽快な足取りで立ち上がった。
テーブルの前に腰かけ、味噌汁のお椀にかかったラップをおもむろに外していく。
——ふわっと漂ってくる優しい味噌の香り。
思わず、ゴクッと唾を呑んだ。
「い、いただきます……」
なんか悔しいけど……ひ、一口だけだし!
そう自分に言い聞かせ、お椀を口元へと運んだ。
「……おいしぃ」
少し冷めてしまっているけど、塩味の利いた味付け。あえてそうしているのか分からないけど、何だかすごく美味しく感じる。
も、もう一口だけ……。
そう決めては、味噌汁を口に含む。
そんな流れを何度か繰り返しているうちに、気付けばお椀の半分以上がなくなっていた。
私はもはや言い訳がましい口実など忘れてしまい、他のお皿にかかったラップも次々と外していった。
——香りの強い食材はなく、全体的に質素ながらもほんのりと塩気の利いた味わいが、二日酔いの体に無理なく染み込んでいく。
これは確かに効く。
……って、あ。
夢中で食べ進めていると、目の前にある食器が全て空になっていた。
「やっちゃったぁ……」
両手で頭を抱え、盛大に後悔する。
疑っといて本当にバカみたいだ。これであの人が帰ってきてテーブルを見たら、絶対『まんまと食いやがったぜ』とか思われるんだ……。
空いた食器を見て、ほくそ笑んでいる彼の姿が浮かぶ。
で、でも……どうせもう話すことなんてないよね。
そう無理やり開き直って、私はグイっと伸びをした。
——立ち上がり、何となしにグルっと部屋を見渡してみる。
今朝目覚めたときはびっくりしてよく分からなかったけど、よく片付いた部屋。というか、本当に最低限って感じで少し寂しいかも。
…………あれ?
ベッド棚の上。
色の少ない部屋には不自然な、温かい木目のオブジェに目が留まる。
——写真立て?
気になって近づいてみると、家族写真のようだった。
小学生くらいの小さな男の子の両脇に、父親と母親らしき人物が立っている。二人と手をつないで楽しそうに笑う男の子と、それをにこやかに見つめる両親。
まるで理想の家族を体現したような、微笑ましい写真だった。
「いいなぁ……」
ふとため息混じりの声が漏れる。
——同時に、昨日の痛烈な罵声が脳内で再生された。
『穀潰しの分際で、親に口答えするな』
胸が絞られたように痛くなる。
……私にも、こんな家族がいたら。
「はぁ……やめやめ」
これ以上眺めていても暗い気持ちになるだけ。
私は写真から視線を外し、ベッドに倒れこんだ。
やっぱ、帰りたくない……。
さっきまでは微かにあった帰る気も、耳に残った父の罵声にかき消されてしまった。
どうせ私がいなくたって誰も困らないし。
「…………あの人は、どんな顔するかな」
もしバイトから帰って来ても私がいたら、あの人は——
レースカーテンから差し込んでくる春の陽気がポカポカと気持ちがいい。
食後ということもあって、やけに瞼が重い気がする。
ふと、すぐ横にあった毛布に手を伸ばす。
……いい匂い。
ほんのり優しい香りがする毛布に心が安らいでいく。
——そのまま少しうとうとしてから、私は眠りに落ちた。




