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日常へ

 「こ、こんばんは……」

 「あ、うん……こんばんは」

 乃亜との約束の時間。落ち着きなく部屋をグルグルと徘徊していた悠は、インターホンの音と共に玄関へと駆け寄った。

 やたら重く感じるドアの向こうには、明らかに緊張した面持ちの乃亜が立っていた。

 彼女は一瞬だけ目が合うと条件反射のように顔を背け、いつもなら言葉を交わす前に敷居を跨ごうとするのに、今日は遠慮がちに立ち尽くしていた。

 無難を突き詰めた結果の挨拶も、微妙な空気を増長させるだけだった。

 「ま、まぁ……入ってよ」

 これ以上の無駄話はすべきではないと、悠は部屋に入るよう促した。玄関で靴を脱いで居室へと向かう乃亜の足取りは、少しばかり震えて見える。

 ——テーブルを隔てて対峙する悠と乃亜。

 口を開けては閉じて、言葉を発するタイミングを窺う。これを繰り返しているうち、沈黙のまま三分ほどが経過してしまった。

 乃亜が口を閉じたのを確認し、ようやく悠が口火を切る。

 「それで、話がしたいってのは……?」

 「え、えと……話っていうか何ていうか。き、昨日さ……デパートで会った時、最上君元気なさそうに見えたから、気になったというか——」

 悠はハッと顔を上げた。

 「べ、別に心配してるとかそんなんじゃない! ……けど、もし私のせいとかだったら嫌だなって、それだけ……」

 申し訳なさそうな乃亜の表情に、悠は言葉を詰まらせた。

 確かに、昨日まで——というか、現在進行形で乃亜のことで頭を悩ませていたのは事実。あの出来事を境に彼女が来なくなったものだから、余計なことをしてしまったのだと自責の念に駆られていた。

 しかし、元より乃亜には何の義務も責任もない。

 これまで彼女は自分の意思で悠に会いに来ていたに過ぎず、そこには何ら制限も拘束もなかったのだから、来ないという選択も出来て当然なのだ。

 「あれは単に俺の心の問題というか……自分で勝手に整理つかなくなってただけだからさ。星月さんのせいだなんてお門違いにも程があるよ」

 悠は自嘲するような笑みを浮かべた。

 乃亜は何か言いたげな様子だったが、悠はあえて無視して続けた。

 これ以上、彼女にいらぬ罪悪感を抱かせるわけにはいかない。

 「この前は、ほんとごめん」

 「……え?」

 「元はと言えば、あんなことになったのも俺のせいみたいなもんなのにさ……あろうことか初対面のお姉さんに乱暴な口きいた上に、偉そうに説教みたいなことまで言ってさ。それで結局勘違いとか……」

 吐露してしまえば、意外と言葉はつかえなかった。

 「部外者である俺が私情で他所の家庭の話に首突っ込むとか、何様だよって感じだよな。俺のせいで……嫌なこといっぱい言われてさ。それなのに、俺はただ感情任せに声を荒げることしか出来なくて」

 苦々しげに話す悠の顔を、乃亜はジッと見つめていた。

 そんな彼女の顔が見れなくなっていく。

 「それで二人が余計に居づらくなったらどうすんだよってな……。いつもいつも、後先考えずに行動しては誰かに迷惑かけて。……結局、俺はあの時から何も……」

 独り言のような蔑みを最後に、悠は口を噤んだ。

 もはや視界に映っていたのは正座を組む自分の脚だけで、目の前にいる乃亜がどんな表情を浮かべているのか、怖くて顔を上げることが出来ない。

 そのまま俯いていると、意を決したように深々と息を吸う音が聞こえた。

「そういうとこ、私は嫌いじゃない……けど」

 悠はゆっくりと顔を上げた、

 少し不貞腐れたような声の先で、乃亜は不機嫌そうに口をへの字に曲げていた。

 「この前お姉ちゃんに言ったこと、後悔してる?」

 「……まぁそうだな。やっぱり、ああいう伝え方は良くない——」

 「そうじゃなくて! ……い、言った内容について後悔してるのかってこと」

 どこか苛立ちを含んだような声は小さく震えていた。

 ふと目を閉じて、あの日のことを思い返してみる。

 故意的と知ってなお、彩乃の言葉に腹が立った。彼女は自分の怒りを煽るために両親の言葉を借りて並べただけなのだろうが、何よりそれが星月家の実態なのだと思うと許せなかった。

 乃亜のひたむきさを否定されたのが、たまらなく嫌だった。

 「いや、後悔してない」

 悠は真剣な眼差しで乃亜を見つめる。

 その迷いのない答えに、乃亜は頬を綻ばせた。

 「なら謝んないでよ。…………まぁ、確かに? 酔い潰れて外で寝てる女の子を心配して連れ帰っちゃったり、その後も平気で優しくしちゃったり。向こう見ずなところはあるかもしれないけど、少なくとも私は、その……助かってるんだから」

 「そ、そっか。ごめ——」

 「んっ!」

 謝ってしまったことを謝ろうとしていると、乃亜が眉をひそめて悠を睨んだ。

 「どう……いたしまして?」

 悠は照れ臭そうにこめかみを掻きながら言い直した。

 すると乃亜は頬を緩め、再び口を開いた。

 「それとね、お姉ちゃんと仲直りしたの」

 「……え?」

 「あの後、家に帰って寝ようとしてたら謝りに来てくれて。……な、なんかね? いつもの変な意地みたいなのが全然なくて、今までお姉ちゃんに謝られるのあんな嫌だったのに、あの日はすんなり受け入れられたの」

 悠が呆気にとられる中、乃亜は嬉しそうにはにかみながら続けた。

 乃亜は手をモジつかせながら、頬を赤く染めていく。

 「それで……さ。こ、これもお礼っていうか! 最上君が落ち込んでるから慰めてあげようかな~ってだけなんだけど——」

 「お、おう……?」

 歯切れの悪い彼女を悠は不思議そうに見つめた。

 「た、多分だからね!? ……わ、私が変な意地とか張らずに、素直にお姉ちゃんと向き合えたのって……多分、最上君のおかげ」

「……っと。そうなのか?」

 急な言葉に悠は面映ゆくなって、こめかみを掻きながら問い直す。

 少し気まずい反応に、乃亜は急いで言葉を継いだ。

 「私の性格とかダメダメなとこ見て……は、励まされるとか言っちゃう物好きのせいで! ……なんか、お姉ちゃんを拒んでる自分がバカバカしくなったのよ」

 褒められてるのか罵られてるのか分からなかったが、それでも自分の行動がただの独りよがりではなかったことを知り、心が軽くなっていった。

 ——本当に良かった。

 この前の一件で、彩乃が乃亜と向き合おうとしてきたことは見て取れた。

 そんな二人の気持ちに唯一食い違いがあったとすれば乃亜の心持ちだが、全てを持つ姉を一番近くで見てきて、持たざる自分が理不尽な仕打ちを受ければ、そうなってしまうのも無理はないだろう。

 けれど、裏を返せばそれだけだった。

 生まれ持ったものは違えど、本心では互いを尊敬し合っていた二人だ。純粋な気持ちで向き合えば互いの想いに気づけないはずもない。

 乃亜の心持ちを変化させたことで、そのきっかけを作れたなら本当に良かった。

 悠はようやく肩の荷を下ろした。

 「……あれ? じゃあ、星月さんがしばらく来なかったのって、他に何か事情が?」

 てっきり余計なことをして嫌われてしまったのだと思い込んでいた悠だが、そうでないなら彼女が来なくなった理由について見当がつかなかった。

 乃亜はあからさまに眉を顰め、ボソッと呟いた。

 「……ずかしかったからに決まってるでしょ……ばか」

 「え?」

 「な、なんでもない! ……でも、まぁ? 私に会えなくて寂しかったって言うなら……し、仕方ないからまた通ってあげる!」

 乃亜は得意げにそう言い放って、ぷいっと顔を背けてしまう。理由はよく分からなかったが、素っ気なくも健気な——いつもの乃亜に戻った気がした。

 悠は安堵の溜息を漏らし、立ち上がった。

 「お腹減って来たし、そろそろ飯にするか」

 「あ、ちょっ……ちょっと待って!」

 いつも通りキッチンに向かおうとしていると、乃亜が焦って様子で呼び止めてきた。

 必死そうな表情に浮かぶ瞳が少し揺れている。

 不思議に思いながら座り直すと、乃亜は上目遣い気味に悠を見つめた。

 「あ、あの! 今月の十五日って、ひま……?」

 「……十五日? まぁ、暇だけど」

 「ほ、ほんと!?」

 乃亜はテーブルに身を乗り出して嬉しそうな声を上げるが、瞠目する悠を見るなり身を引いてコホンと咳払いした。

 すると乃亜は、何やら落ち着かない様子でポケットを漁りだした。

 「こ、これ!」

 取り出した紙切れを悠の顔の前に差し出した。

 悠は目を細め、紙面に書いてある文字を読んだ。

 「えーっと……ドッグカフェ?」

 「も、もうすぐこの辺にオープンするらしいんだけど、たまたま知り合いから割引チケットもらって……えっと、その……ぺ、ペアチケットだし、今回のお詫びもかねて連れてってあげてもいいかな~なんて!」

 突然の誘いで何がどうなっているのか分からなかったが、冷静になってチケットを見返してみると、一日限り時間料金無料という文面が目についた。

 ドッグカフェという店名から、猫カフェの犬バージョンであることは想像できる。カフェと付いているため店内での飲食サービスには別途料金が発生するだろうが、こういう店の主目的は動物との触れ合い。そこにかかる料金がタダとくれば破格の優遇だろう。

 「お誘いはすごくありがたいんだけど……俺なんかのために使っていいのか?」

 「だ、だから言ったでしょ!? お、お詫びだって」

 「そう言われても、今回の事で星月さんから謝られるようなことは何もないし……」

 あまり乃亜に後ろめたさを感じられるのも寝覚めが悪く、割引チケット自体も一回限りの貴重品であることため、悠は頑なに引き下がってしまう。

 すると、チケットを突き出す乃亜の手がわなわなと震え出した。彼女は真っ赤に染めた顔を伏せながら、何か伝えたそうに唇を微かに動かしている。

 「え、えっと——」

 「た、誕生日なんでしょ!? ……なら、これくらいさせなさいよ」

 乃亜は手足をモジつかせ、恥ずかしそうに言った。

 一方の悠は口をあんぐりと開けながら、『あぁ~』と間抜けな子を出している。

 そんな様子に、乃亜はムッと眉根を寄せた。

 「な、なに……その反応」

 「あぁ、ごめんごめん。ここ最近、誕生日だからって特に予定も入らないし、大体は当日になって誰かに言ってもらって思い出すことが多くて」

 その日が自分の誕生日であることを思い出し、呑気な反応で返す悠。

 しかし、無意識のうちに頬が緩んでしまう。

 以前さり気なく伝えた誕生日を覚えていていてくれたことが、何となく嬉しかった。

 「そういうことなら、楽しみにしてる」

 「え? ……い、いいの?」

 「もちろん、誘ってくれてありがとな」

 悠は笑顔で返して、キッチンへと向かった。

 乃亜はその背をボーっと眺めながら、気を抜くと緩んでしまいそうな頬を両手で抑えていた。

 「や、やった……」



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