緊張の朝
翌朝。
体が緊張を訴えたのか、悠は目覚ましの一時間前に起きてしまった。
その上、体は疲れて眠いはずなのに、途中で何度も目が覚めたせいで全然寝れなかった。
今日も午前からバイトがあるため、もう少し休んでいたいが……今日に限ってはむしろこれでよかったのかもしれない。
なんせ、ベッドの上にいる乃亜がまだ眠ったままだったから。
遅かれ早かれ、彼女が起きて騒ぎ立てる未来は回避できないだろうから、せめて先に起きて落ち着く時間があるだけでも悠としてはありがたい。
悠は大口を開けながら体を起こして、布団を畳んでから洗面所へ向かった。
「ひどいな……」
鏡に映し出された自分の目元には大きなくまがある。
顔も全体的にドヨンとしていて生気が感じられない。
くまはどうにもならないだろうが、せめて顔をパシッと叩いて表情を引き締めた。
そのまま洗顔と歯磨きを済ませ、今度は料理に取り掛かる。
いつもであれば、バイトがある日の前日に作り置きをするようにしているのだが、昨晩は色々あり過ぎて疲れていたため失念していた。
料理が嫌いではない悠だが、さすがに早朝からというのは少し億劫だった。
——しかし、そんな気持ちとは裏腹に悠の手はきびきびと動く。
慣れというのは怖いもので、作るものさえ決めてしまえば無意識に手は動いてしまうものだ。
お浸し、卵焼き、味噌汁。
いつもの要領で手際よく調理を進めていく。
——そんな時だった。
「えっ……?」
突如として聞こえてきた、怯えるような声。
キッチンには様々な音が立ち込めていたが、恐怖が滲むその声は微かに悠の鼓膜を揺らした。
いよいよかと、悠は深呼吸する。
緊張で強張った首をギギッと捻って、声の主へと視線を移した。
「だ、だ……誰!?」
「あ、その……起こして悪かった。まずは話を——」
「ここどこ!? はぁ!? えぇ!?」
目を覚ませば知らない場所で……すぐそばには見知らぬ男がいる。
当然ながら動転している乃亜の耳に悠の声など届くはずもなく、身震いさせながらあちらこちらを忙しそうに見渡している。
毛布をギュッと手に握り、体を隠すように持つ仕草からは警戒が見て取れた。
悠は弁明のため、一旦火を止めて居室へと入る。
「こ、こないで変態!!」
「おわっ!?」
乃亜の怒号と共に枕が飛んできて、それを間一髪で避ける。
「ちょ、待っ——」
「うるさい!!」
なおも近寄ろうとすると、今度は手に握っていた毛布を丸めて投げてきた。
これも寸前のところで避けるが、そもそも自分の体を覆っていた毛布を投げてしまっていいのだろうか……。
「あっ……!」
悠がそんなことを考えていると、自分の身を隠すものがなくなってしまったことに気づいたのか、乃亜は焦ったように両腕で胸のあたりを隠した。
ベッド棚にもいくつか投げられそうな物が置かれているが、枕や毛布と違って当たればかなり痛そうな物ばかりだ。
彼女の警戒を少しでも解くため、何より自分の身を守るためにも悠は数歩引いてキッチンへと戻る。
(さて、どう弁明したものか……)
悠は縋るようにキョロキョロと周囲を見回す
——すると、例の物が目についた。
悠はゴミ箱の前に置かれたそれを咄嗟に手に取り、乃亜に見せた。
「これに、見覚えはないか」
「……え?」
それは、昨日悠が捨てようとして取っておいた空き缶。
こうなることがおおよそ想像出来ていた悠は、どうせ乃亜が自分の言葉に耳を貸さないということも分かっていた。だからせめて昨晩の状況を示す物証を見せることで、自分がどこで何をしていたのかだけでも思い出して欲しかった。
乃亜は怯えた表情を保ちながらも、少し上を向いて考えるようにしている。
そして口を開いた。
「あっ!」
「思い出してくれたか」
「で、でも……それが……何なわけ?」
「昨日、公園で酔い潰れてたから危ないと思って連れてきたんだ」
「は、はぁ!? 意味わかんない!! どうせ私を襲った——」
「襲ってない」
悠は若干語気を強め、乃亜の言葉を遮った。
乃亜がそう勘繰ってしまうのは尤もであるが、その危険を自覚していながらの行動であったことを理解すると、少し腹が立ったのだ。
「そういう野郎がいるって分かってるなら、最初からあんな飲み方するな」
心なしか、悠の口調が荒くなる。
乃亜は何か言いたげにしばらく口を動かしていたが、そのうち諦めたようにシュンと俯いてしまった。
そんな様子に、さすがに言い過ぎたかと悠は言葉を紡ぎなおす。
「何があったかは知らないし聞くつもりもないけど……もう少し自分を大切にしろよ」
出来る限り、優しい声音で言った。
乃亜は一瞬ハッと顔を上げたようだったが、特に返答はなく再び俯いた。
その様子をしばらく見ていた悠だが、とりあえずは抵抗してくる気配もなかったため料理を再開した。
——沈黙の中、悠は全ての品を完成させた。
それを皿に盛りつけ、お盆に載せて居室のテーブルへと運ぶ。
ベッドから眺めていた乃亜は、食卓に並ぶ彩り豊かな朝食に目を丸くした。
そんな乃亜を一瞥し、悠はキッチンへと戻る。
すると、悠は四つほどある食器を腕も駆使しながら器用に運んできて、それらをテーブルの、悠の対面側に並べた。
「つまみもなしに飲んでたから、腹減ってるだろうと思って」
「……え?」
お盆に載せられたものと全く同じ——もう一人分の朝食に、乃亜は呆気に取られて気の抜けた声をこぼした。
乃亜はキョトンとしたまま、ベッドから降りてくる様子はない。
(まぁ、知らない男……それも自分を襲ったかもしれないやつの作ったものなんて怖くて食えないか)
不思議そうに見つめてくる乃亜をよそに、悠はお盆のある側に腰を下ろして合掌し、小さくいただきますと呟いた。
乃亜にああ言ったものの、悠としても昨晩は何も食べずに寝てしまっていた。
時折チラチラと横目で見てくる乃亜の視線に食べづらさを感じながらも——空腹で箸は止まらず、あっという間に完食した。
「ごちそうさまでした」
そう言って、乃亜の分の朝食は残したまま、済んだ食器をキッチンへと片付ける。
料理と乃亜との一悶着もあって、一時間早く起きた割にはバイトまであまり時間がない。
悠は食器洗いを含め、色々と手早く済ませる。
上着を羽織り、テーブルに残していた乃亜の分の朝食にラップをかけていると、ようやく彼女が口を開いた。
「ど、どっか行くの?」
「ああ、バイトだよ」
「ふ、ふぅん……」
大学での乃亜の様子を知っている悠には、その反応が素っ気ないものに感じる。
状況が状況だし、仕方ないのかもしれないが。
「帰らなくていいのか?」
悠が居室を去ろうとしても乃亜は全く動こうとしないため、気になって問いかけてみる。
何ら言葉は返ってこなかったが、彼女の浮かない顔には『帰りたくない』とハッキリ書いてあった。
悠としては色々もどかしいが、彼女を連れてきた手前もあり、帰れと強く言うことは出来ない。
ならせめて乃亜が少しでも安心できるようにと、他の適当な言葉を探した。
「それ、酒の後に効くって父さんから評判の味付けなんだ。気が向いたらでいいから、食べてくれ」
悠はテーブルへと視線を落としながらそう言い残し、玄関へと向かった。
単に食材がもったいないというのもあるが、空腹もまた精神衛生上良くないと思ってのことだ。
悠は玄関で靴を履いて部屋を後にし——
(帰ってくる頃にはどうせ開いてるだろうけど……)
——そう思いながら、一応ドアに鍵をかけて歩き出した。