第5話 王者の竜と女王竜 その2
自宅の書斎にいたムスケルは、唐突に本から顔をあげて、隣の部屋へと続くバルコニーへと出た。
田園の向こうに広がる森の一点を見つめて、術式を展開する。遠見の呪文。彼方のものもこれで手元に取り寄せるように視える。頭に直接、その光景が流れこんでくる。
魔術を使ったあとは、その術式の名残が残る。この世界の住人はすべて軽い魔法程度ならば使えるが、術式展開まで使う高等魔法となると、それが出来、名残が視られるのは魔術師か聖竜騎士か。
青空に広がる巨大な光の術式は彼がよく知る友人である、ヴィルタークのものだ。全力ではないが、これはかなり派手にぶっばなしたなと思う。奴にしてはらしくなく、相当焦っていたか? と。
一瞬巨大な魔力がぶわりと、この王都まで届いた。それを感知してムスケルは、このバルコニーに出たのだ。
だが、ムスケルの気を引いたのは、友人の聖魔法の術式ではない。巨大なそれに隠れて、おそらくムスケルほどの解析力がなければ、わからない風の小さな術式。
普通ならばこの程度だとかまいたち一つの威力だろう。しかし、この術式は違うとムスケルの魔術師としてのカンが教えていた。
消えかけている小さな術式をさらに拡大して、その単純でありながら、美しい……そう美しい式こそ正しいと、ムスケルは思っている。ゲッケのいびつな術式など視られたものではない。魔力はあるが、だからあれは次席だったのだ。
レース編みのような繊細さに、ほうっと感嘆のためいきをついて、次にその細い目をぴくぴくと動かした。本人見開いているつもりだが、開くことがないのがこの細目だ。
「なんだこれは……」
こんな展開など視たことはない。これだけ小さくて簡略化されながら、これは最小の魔力で最大の威力を発するものだ。およそ一滴も魔力の無駄はない。
普通ならばかまいたち一つ。だが、これはおそらくかなりの数。
先のヴィルタークがぶっ放した光の魔術並の効果とはいえないが、おそらく、巨大な魔獣に致命傷を与えるには十分。
「おもしろすぎるぞ」
ムスケルはわくわくした表情を浮かべた。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
すごく身体が冷たくなって、寒いと思ったのに、すぐに身体が温かくなった。
ぽうっぽうっと身体の外からも、うちからも熱が灯る。
「んうっ……」
「シロウ、気がついたか?」
「ヴィルターク…さ…ん……あ…ふぅっ!」
口づけられた。それは、一度唇を触れあわせただけじゃない。舌を絡めた深いもので、その口中からもふわりと熱がふきこまれる心地よさに、史朗は目を細めた。裸で肌と肌がぴったりと重なる感触も。
「ヴィル……ターク…さ……」
「ヴィルでいい」
「ヴィル……? あ…あっ!」
「そう、いい子だ、シロウ」
男の大きな手が背中から脇腹をなぞるのも心地よい。どこもかしこも熱くて……。
ヴィル、ヴィルと繰り返せば。
シロウと甘く呼ばれた。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
庭先にギングともう一つの影が降り立ち、ずいぶんと早いご帰宅であるとクラーラは感じた。なにかあったのか? と玄関ホールでお出迎えすれば、この屋敷の主人の腕に、先日保護された少年がぐったりと身をあずけ、目を閉じていた。今の自分が世話を任せられている方だ。
旦那様がとてもとても大切にされている。
「シロ様!」と思わず声をあげればヴィルタークはこちらに視線を向けて、「大丈夫だ」という。
「魔獣に襲われたが怪我はない。ただ魔力枯渇をおこしたので、応急手当をした」
これはクラーラではなく、傍らのヨッヘムに向けてだ。魔力枯渇という言葉に息を呑む。この世界では気軽な生活魔法ならば誰でも使えるが、だからこそ、魔力枯渇がどんなに恐ろしいことか、一番最初の魔法の授業で先生からたたき込まれるのだ。
もっとも、魔術師達が使うほど高度な魔法でもなければ、命に関わるほどの枯渇は起こらないとも知っている。疲れているのに無理して生活魔法をつかえば、一晩から数日寝込むぐらいだ。
本当にシロ様は大丈夫なのだろうか? とクラーラはヴィルタークの腕の中、身体はマントにすっぽり包まれて、唯一のぞいている白い顔をみる。それも前髪が顔の半分を隠していてわからない。
ただ、ちらりと見えた首筋に赤い痕が点々と見えたような。
「湯浴みの用意を、俺がいれる」
ヴィルタークの言葉に「承知いたしました」とヨッヘムが答える。史朗を横抱きにしたまま、ヴィルタークは広い浴場に。それでもお世話を手伝おうと、あとを追ったクラーラ以下のメイド達に、脱衣所の入り口で「誰も入るな」と今まで聞いたことのない厳しい声で命じて、行ってしまった。
ヨッヘムだけが冷静で「お二人が出られたあとの用意を」と命じられて、おろおろするばかりのメイド達は、タオルやガウンなどを取りに散っていく。
さらには「旦那様の寝室に軽食を運んでおくように」とも他の者に命じていた。それにクラーラは「ではシロ様のお部屋にも……」と言いかけたがヨッヘムが「そちらの必要はないでしょう」と返す。
「おそらく旦那様はシロ様をご自分の寝室にお連れになるでしょうから」
「はい……?」
え? それってどういうこと!? と不覚にも頬を赤らめたクラーラは、己を不謹慎であると叱咤した。本来ならばシロ様のお身体のことを一番に心配すべきなのに。まして、メイドの立場でお仕えする方々のことをあれこれ、憶測するなど。
それにヨッヘムが「クラーラ」と若いメイドに労るような声をかける。
「はい」
「お前の大切なお役目は、明日の朝、旦那様のお部屋にシロ様のための、目覚めのお茶を届けることだ。シロ様の好みは、この屋敷でお前が一番わかっているだろう?」
「はい、かしこまりました」
史朗の好みはミルクはたっぷり、蜂蜜もいいが、カエデの木からとれるシロップがより好きだ。甘すぎてはいけない。ミルクの甘さとあいまってほんのり感じる程度。
しばらくしてヴィルタークが相変わらず、意識のないままの史朗を横抱きにして出てきたが、その顔色がほんのりとよいのにホッとする。ヨッヘムの言葉どおり、ヴィルタークは自分の寝室へと彼を連れて行ったけれど、それはとてもとても愛おしそうにその顔を見つめ、大切な宝物のように抱いて。
その様子にどこかホッとしているクラーラの耳に「明日はご朝食もベッドに届けたほうがよろしいようですな」というヨッヘムの声が聞こえた。続けて。
「ミルクと蜂蜜の粥ですかな」
それにえ? え? とクラーラは思う。
その麦粥は、初夜あけの新婚夫婦のベッドに運ぶものでは?
やっぱりそういうことなのですか? ああ、旦那様とシロ様のご生活のことを想像するなんて……と、クラーラは赤い頬を押さえた。




