第4話 聖女様と“暫定”皇太子 その4
寝台に横たわったが、なかなか寝付けなくて、史朗は諦めて身を起こした。
「…………」
こうなったら眠れないと、天蓋のカーテンを引いて外へと出る。初日、ぶかぶかだった夜着は今、袖も裾の丈もちょうどよいものとなっている。靴ではなく、就寝着に着替えたあとの、布の柔らかな履き物に足を通して、ぺたぺた。少し肌寒いかな、と傍らのチェストの上に綺麗に畳まれているガウンを手にとり、袖を通す。
部屋の外へと出て二階の階段を下りる。この広い屋敷にも慣れて、迷うこともなく、青の間へと向かう。
今夜は明るい満月の夜だ。この世界には月が六つあって、一月ごとに違う色の月がのぼり満ち欠けするのが一ヶ月で、次の色の月に変わる。昔はその月の色で一ヶ月を言い表していたらしいが、いまは簡略化されて、一の月、二の月と数字のみになっている。
現在は古風に言うならば、四の玄の月の十五日。ちなみに史朗がこの世界にやって来たのは、三の碧の月の二十八日。
一年は元来た世界と同じく十二月で、六つの色の月しかないのに、さて六月以降は?と思うだろう。これはまた初めにもどって、七の赫の月となる。それで一月と七月が両方とも赫の月となって紛らわしいので、数字のみの簡略化になったと聞いた。いまでも格式ばった王国の書状となると、簡略化されないで記されるらしいが。
紫色の満月が、天井まである窓越し見えるのに、本当に異世界に来たんだな……と実感めいたものがわく。色は紫だが、その光は透明で灯りのない室内でも十分によく見えた。
長い広間をぺたぺたと歩き、二つの肖像画の前に立つ。
ヴィルタークの父である五十四代目当主と、彼の母である当主夫人の肖像画だ。屋敷を案内されたときに一度見たが、鮮烈に覚えている美男美女ぶりだ。金髪碧眼の壮年の美丈夫に、銀髪に蒼の瞳の貴婦人。
「夜の散歩かな?」
突然かけられた声に、振り返ればそこにはヴィルタークがいた。気配もなにもなく、後ろから近づくなんて、さすが武人と言うべきか。
「びっくりした」
「おどろかせたか?すまない。眠れないのか?」
「いえ……あ、はい」
否定しておいて、こくりとうなずく。今夜はちょっと眠れそうにないのは、事実だ。
「なら、少し付き合ってくれ」
とヴィルタークに手を引かれて向かったのは、二階にある家族用の居間だ。茶褐色の石を組んだ大きな暖炉に、木の梁と薄い黄色の壁。艶光りする赤みがかった木のテーブルや飾り棚などの家具。深い緑の布が張られた長椅子や一人がけの椅子が、目にも優しい色だ。こんな空間に慣れていないはずの史朗でも、この家が妙に落ち着くのは、上質で趣味よく押さえられた色合いでまとめられているからだろう。とくに、家人が寛ぐような空間は。
それから考えると昼間の宮殿というか、ノリコの部屋などは、どこもかしこもピカピカで、あそこで落ち着いて寝られるのか?と思う。まあ、某夢の国のコンセプトホテルにでも泊まったと思えばいいか。
しかし、夢の国は非日常だから楽しめるのであって、それが延々続くとなると悪夢にならないか?とも思う。そういえば、永遠に脱出出来ないホテルや遊園地ネタのホラーとかあったっけ。
夜の番の男性使用人がやってきて、ヴィルタークの前には綺麗にカットされたグラスにはいった琥珀色のお酒を、史朗の前には湯気の立つカップを置く。「お熱いですのでお気を付けてください」との言葉に「ありがとう」と礼をいって、ふうふうして口をつける。
ホットミルクだ。ほんのりと蜂蜜の風味がして甘い。
対して、グラスを傾けるヴィルタークをじっと見る。彼はお酒で、自分には甘いミルク。
「呑みたいのか?」
「いいえ。僕の国では二十歳になるまで飲酒は禁止されていますので」
賢者の時代も酒は弱かったな~と思い出す。あんまり味も好きになれなかったし、二日酔いで魔力のコントロールに失敗して、魔導炉を一つ吹っ飛ばしてからは禁酒を自らにかしたし。
「十八で成人で、酒は二十歳になるまでダメか?奇妙な世界だな」
「健康に害があるとされているんです。十代で飲酒するとハゲるとか」
グラスを傾ける手が止まったのに「うそです」と史朗はくすくす笑う。
「でも飲み過ぎるとよくないのは本当ですよ」
「それはこちらの世界でもそうだな。なにごともほどほどだ」
この人なら過ごしすぎるなんてなさそう……というより、すごく強そうと思いながら、グラスを傾ける様も、イイ男は絵になるなぁ、なんて眺めていたら。
「俺の実の父親はジグムント七世だ。母は騎士の娘で宮殿に侍女として仕えていた」
無駄な前置きは省いて、ずばりと言ってくれるのはいいけど、今回は思わず史朗は息を呑んだ。
「僕に話していいんですか?」
「ん?今日の王宮で気付いたのだろう?」
「なんとなくですけど」
いや、なんとなくどころじゃなく、あの肖像画はヴィルタークに似ていた。彼にさらに年相応の重々しさをのせて、髭をはやしたら、あの大王様そっくりになるはずだ。髪と目の色もそのままだし。
くわえて、こちらの先代当主と夫人の髪と目の色と顔立ちが、すこしも似てないのだから。
「僕が異世界人で、元の世界に帰るからって、気楽に話してません?」
「帰るのか?」
なぜか真顔で聞かれて「今は帰る方法ありませんけど」と返せば「そうだな」となぜかホッとしたように息を吐かれた。
「それってみんな知っているんですか?」
「俺がこれを話したのは、お前が一人目だ」
あのうさんくさい伯爵様にも話してないのか……と史朗は息を吐く。
「だから、なんでそんな重いこと」
「あの肖像画を見ていれば大概の者は口に出さずとも、感づいていることだ。誰もなにも言わないがな」
公然の秘密という奴かな?と思う。いや、確証も証拠もないけど、なんとなくの雰囲気か。
それは大王と呼ばれた男の老いらくの恋というべきか。侍女である騎士の娘と王との関係は、宮廷内でもごくごく近しい者しか知らない、秘密の恋だったという。
「が、俺の母が身籠もったと知って、ベルント陛下に近い者達が不穏な動きを見せ始めてな」
ジグムント大王のあとを継いだ直孫である五十四代王だ。彼ではなく、彼の周りの親族達は、たしかに若い娘が王の子供を身籠もったなど、寝耳に水だっただろう。
王の孫より、息子のほうが普通ならば王位継承権は高い。
「母の身柄はこの侯爵家に預けられた。母は俺をこの王都から離れた侯爵領の屋敷で産んだんだ。そして、そのまま……」
王に愛された薄幸な娘は亡くなり、赤ん坊が残された。
「俺を王宮に引き取るのは危険だと大王は判断した。なんの後ろ盾もない俺が、王族であることも不幸だとな。侯爵家には跡継ぎがなく、俺は養父と養母の実の子として育てられたんだ」
娘の産んだ王の子は死産だったと、王宮の者達には知らされた。
「よい母と父だった」と彼は懐かしむように微笑んだ。「父は破天荒な人で、母は聡明で華やかな人でな」と。
「俺に生真面目すぎるのは、人生つまらないぞというのが、父の口癖だった」
「それだけでなんかわかります」
本当に良い養父母だったのだろう。彼を実の子として愛した。
「十五の成人の儀が終わった夜に、父が俺の本当の父と母のことを話してくれるまで、二人の子だとみじんも疑っていなかった。
酷く動転してな。俺も未熟だった。衝撃のあまり、魔力の制御が一瞬できず、屋敷中の窓ガラスを割ってしまってな……」
「え?それが、あの昼間の馬車で話した?」
あれって笑い話でもなく、かなりシリアスだったんじゃないか?と史朗は、あの細目のうさんくさい伯爵のしたり顔を思い出した。今度会ったら、なんて言ってやろう。
「屋敷を飛び出して、がむしゃらに馬を駆って、オンハネス山に向かっていた。頂を目指してな」
そこで聖竜騎士は己の竜を得るのだと言う。しかし、魔獣の巣窟となっている霊峰は禁足地となっていて、通常はその麓の神殿で祈りを捧げると、己の竜が降りてくるのだと、あとで教えられた。
だが、十五のヴィルタークは頂を目指した。途中、襲ってくる魔獣を剣と聖魔法で退けて。十五にして彼はすでに、一流の剣技にも魔法にも長けていた。
「なぜ山の頂上を目指したのかは、あえて言うなら呼ばれている気がしたんだ。実際、そこでギングに出会ったわけだしな」
白く大きな黄金の瞳の、王の竜。聖竜騎士団の厩舎を昼間ちらりとみたが、赤や青、緑の色とりどりの竜がいたけれど、白はギングただ一頭だという。
そして、その王者の竜に選ばれた者は、初代聖竜騎士王以外には、彼だけだとムスケルはこのあいだ話していた。
「半月後に戻ってきた私に、父は『大冒険だったな』と笑ってすませた。母は心配して泣いて怒ってくれたよ」
「素敵ですね」
温かな家族だと思う。そのご両親がすでに亡くなっているとクラーラには聞いたけど、今はそれを口に出すのはためらわれる。
「お前の父と母はどうなのだ?今頃ご心配なされているだろうな」
「……心配はしてると思います」
嘘をついた。だけど、これは言うことじゃない。すべての力を取りもどしたら帰るつもりなのだから。
元の日本へというのはどうなのか?と思う。ノリコを戻したなら、いっそ別の次元にとんでもいいなと、史朗は考えた。
自分を引き留めるものはあの世界にはなにもない。
両親は自分を愛していてくれたのだと思う。一人っ子の息子の引きこもりを心配して見守っていてくれていたのはわかる。
ただ、史朗だけが、なぜか疎外感を感じていたのだ。常にある自分の居場所はここではないという感覚。それは、おそらく己の中に眠っていた賢者の前世のせいだろう。
思い出さなきゃよかった……とは考えない。なにしろ思い出さないまま、異世界に放り出されたら、言葉もわからず、ヴィルタークに出会わなかったら、詰んでいただろうし。
「ごくごく普通の家庭でしたよ。こっちの世界でなにが普通なのかわかりませんけど、田中さんのところもそうなんじゃないかな?」
いや、今頃消えた娘をご両親は血眼になって探しているかもしれない。だが、それも彼女を元の世界に帰すときに、元の時間軸に合わせれば問題はないと史朗は考える。次元を越えるのと時を超えるのは、同じことだから。
深夜のお茶会は史朗がふわりとあくびをしたことから散会となって、ヴィルタークは史朗を私室の扉まで送ってくれた。
「良い夢を」
「…………」
長身を屈めて、ちょんとやわらかなものが唇に一瞬触れて離れていった。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
ぼんやりしたまま、居室を通り抜けて寝室へと。ベッドにはいって、史朗は思った。
今のなんだ?キスだった?
考えるとまた眠れなくなりそうなので、目を閉じた。ホットミルク効果なのか、すぐに寝てしまったけれど。




