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気づけば空はうっすら暗くなりはじめていた。
黄昏色が夜を連れてくる。地平線へと逃れた黄昏色が、夜の色を引っ張って、帳を一面にかけていく。
人の行き来もまばらになっていた。そろそろ煮炊きの香りが漂ってくる頃だろう。
ルイスは自宅の近くまで来ていた。
影はうっすらと地面に溶けそうに伸びている。
影の先には女がいた。過去の亡霊かと思えるそれは、亡霊というには輪郭がはっきりとしすぎている。
女は振り向いた。どこか焦点の合っていない目は、あの日の眼差しを彷彿させる。
自分の子を殺したというのに、いつも通りに笑っていたあの目。
返り血を鬱陶しそうに眺めていたあの目。
世界にたった一人のかわいい我が子を殺した女。
ルイスの過去に焼き付いて、染み付いて、決して離れなかった女は、振り向いて口角を上げてみせた。
「あら、やっと来てくれたのね。ようやくその気になったのかしら」
女の口から出るありえない言葉に目眩がしそうになる。
心臓の音がはっきりと聞こえてくる。胸に耳を当てているかのように、速い鼓動がすぐ側で聞こえた。
握り締めた手が汗ばんでいるのを感じた。それでも、息をしっかり吸って、前を見据える。
「いいえ。あなたとはもう、会うことすらしない。
ここに来たのは、それを言うためです」
「どうして?生き別れた姉に会えたっていうのに嬉しくないの?」
「嬉しいなんて……あなたが最初から姉として接してくれていたなら、そうだったかもしれませんね。
でも、そうじゃなかった。だから嬉しくも何ともない。もう二度と会いたくない」
「つれないわね。昔はもっと従順だったのに。離れている間に誰かに毒されちゃったのかしら」
女がこちらへ近づいてくる。
逆光の中、暗闇から這い出てくる魔物のように、一歩、一歩。
「あなたの基準で物事をはからないで欲しい。
もう会わない。早くこの街から出ていってくれ。皆も迷惑してるんだ」
「皆の迷惑なんて、関係ないでしょ。愛し合うことに、他人の目線なんて関係ない」
淡々と語られたそれに、何かが切れるような感じがした。
ルイスは女を睨みつけ、勢いのまま、まくし立てるように言い放つ。
「……あれが、愛だと言うのですか?あれが……?
私から一番大切な存在を……ミシェルを奪っておいてよくそんなことを!!」
長年蓋をしてきた怒りがマグマのように噴き出してくる。
止めどない怒り、その影にある悲しみ。後悔。
言葉にしてもミシェルは帰ってこない。そう思ってずっとずっとこころの奥に閉じ込めていた感情が、堰を切って激流のごとく溢れ出してきた。
「なぜ、なぜ殺した!私の、一番だった!あの子がいるだけで幸せだった!自分の命すら、あの子のためなら擲ってよかった!
あの子の代わりに私が死ねば良かった!何度もそう思った!あの子の太陽に弱い体質を自分が代わりに受けてやりたかった!
あのとき、目を離さなければ、あなたに任せなければ、あの子は今ごろこの街を駆け回る子ども同じくらいになっていた!
なぜ殺したんだ!私に似ていないから?肌の色が薄かったから?それがなんだと言うんだ、あの子はお前の人形じゃない!道具じゃない!なんでそんなことも分からないんだ!」
ルイスは声を枯らすほど叫んだ。ずっと自分の中にしまい込んできた感情が言葉になってとめどなく出てくる。
「……え?何を言ってるの。子どもなんて親の飾りじゃない。
だって、世間体のために結婚して、世間体のために子どもを作るんでしょう。だからわたしもそうするの。
あなたと愛し合ってる証拠の為に子どもを作るの。あなたの模造品を作るために子どもを作るの。
愛し合ってる証拠があれば満足できるし、あなたの模造品があればもっと満足できる。あの子はそれには不足だったの。失敗作ね。
あの子はわたしの人生を彩ってくれなかったわ。だからいらなかったの。だから捨てたの。それだけよ?」
目の前で口をぱくぱくとさせて人間の声を発する異物は、目眩のするような言葉を並べた。
もはやこれは呪文だ。呪いの言葉だ。
平然と言ってのけるあの異物は、人間の皮を被った化け物だ。
「そんなことのためにあの子は産まれたんじゃない!!」
「そうかしら。いや、そうだったからあんな気味の悪い色の肌で産まれたのかしらね。
これは産んだわたしのせいかしら。ごめんなさいね?次はちゃんとしたのを産むわ」
「お前……!!私の子を侮辱するな!!!」
ルイスは異物の方へ向かっていく。手は相手を掴みかかろうとしていた。
どうしても許せない。あの子は確かに太陽に弱かった。だが、それが何だというのだ。たったそれだけであの子を捨てる理由になんてならない。
自分の元に産まれてきてくれた。ただそれだけで、どんな壁も乗り越えていく覚悟が持てる。我が子にふりかかる困難がどんなに暗く、重くても、払いのける覚悟ができる。
その覚悟があったから、ミシェルを授かることを決めたのだ。
あの子の未来を誰よりも願っていた。幸せになってほしかった。
生きて、幸せになってほしかった。
「……そこまでだよ」
突如、異物の背後に人影が現れる。
人影は見慣れた姿をしていた。へカテリーナだ。
へカテリーナは異物を睨みつけ、杖を頭に突きつけている。
「……誰?わたしたちの邪魔を――」
「そんなの関係ないよ。あなた、さっさとこの街から出ていってくれない?
皆、不気味な奴がうろうろしてるって迷惑してるの。」
へカテリーナは杖の先で異物の頭を軽く押した。
「ここで頭を縦に振らなきゃ、あなた大変な目に遭うよ。
わたしは長年この街で魔法使いをやってるの。だから色んな伝手がある。
……年寄りの言うことは聞いておいたほうが良いって、誰かに教わらなかった?」
異物は黙って暫くそのままでいた。やがて、ため息をついてから口を開く。
「……そう。また来るわ」
「もう二度とこないでって言ってるんだけど」
「そう。」
異物はしぶしぶと歩き、ルイスの横を通って街の外へと向かっていく。
青い夜が始まり、異物の影はよく見えない。姿すら、薄闇の中へ紛れていきそうだった。
「……ごめんね、口出しちゃって」
へカテリーナは杖を下げ、申し訳なさそうに俯いた。
「いえ……その。私も冷静ではありませんでしたし……」
ルイスは自分の手を見た。汗ばんで、熱の跡がまだ残っている気がする。
「今夜は念の為にアヤネのとこにまた泊めてもらいなよ。
わたし、アヤネに貰ったアイテムがあるから連絡しておくね」
へカテリーナはポーチから便箋のようなものを取り出した。
アヤネが持っている謎の手紙だ。書くと相手の元へ飛んでいく不思議なアイテムだ。
「……そう、ですね。何だか……何も解決できていないような気がしますし……」
振り返ってみれば、言いたいことを言っただけで説得なんてしていなかった気がする。
あれではまた来るだろう。根本的な解決にはなっていないのだ。
「……それでも、言いたいことが言えたなら、それでいいんじゃないかな。
……ずっと我慢してたんでしょ。ルイスがここに来てからずっと見てるんだよ、わたし。」
へカテリーナは便箋に文字を書く手を止めて、ルイスをじっと見つめる。
青い夜と同じ色が浮かんだ目だった。深いけれど、どこか優しい。
「あの日言えなかったことをちゃんと言えたって、楽になれる子もいたよ。ルイスがそうかは分からないけれど、言えたことで楽になることだってある。
自分を過去から解放できたんだろうね、その子は」
ルイスは視線を俯かせてから、ゆっくりと空を見上げた。
青い闇に、柔らかな色の星がまたたいている。月明かりも優しく、空を仄かに照らしている。
そよ風がルイスの側を駆け抜けていった。その風が自分の何かを洗い流していってくれたように思えて、ルイスは目を細めた。




