7
人によってはショックな表現があります。
この日の悪夢は、一際酷いものだった。
あたたかな日だまりで、抱いた息子の睫毛がきらきらと光っている。
透き通るような白い肌は日光に弱い。私は窓のカーテンを閉めて、太陽に背を向けた。
しかし息子はそれがお気に召さなかったらしい。自分はお日さまに弱いと分かっているだろうに、まだそのあたたかさを感じていたいとぐずりはじめた。
心地よいのは分かるが、後から痛んでしまってはいけない。
わがままを言ってはいけませんよ、と言ってあやしながら、代わりに自分の体温をわけてあげようと、息子をぎゅっと抱き締めた。
確かな質量。愛しき重さ。けろっとしてころころ笑う声が聞こえる。
その笑顔を見たくて、息子の頭が肩のあたりにくるように抱きなおした。
悪夢はいつも、ここからはじまる。
腕から重みが消え、そのかわりに網膜を焼くような赤が目に飛び込んでくる。
綺麗な白い肌はもう、そこにはない。
すみれいろがかった、宝石のような目も、そこにはない。
ただ、柔らかな白い髪に血がべっとりとついたものがあるだけだった。
頭が割れて、裂けて、ただの肉になった、息子だったもの。
泣いて、震える手でかき集めた、息子が生きていた証拠。
指に当たったかたいものは、歯だったものだろうか?それとも骨だったものだろうか?
きらきら光って綺麗だった睫毛も髪も、血でくすんで、いのちが抜けて――
耳にこびりついた最後の笑い声が、悲鳴に塗りかわっていく。
――ねえ、おとうさん――
――どうして、ぼくを守ってくれなかったの?――
息を飲んで頭を上げた先にいたのは、うらめしそうな目でこちらを見つめる、生き写しの――
そこで目が覚めた。
どうやら机に突っ伏して寝ていたらしい。枕がわりにしていた腕が痺れているのを感じた。
身体を起こして窓を見ると、そこには一面の闇が広がっている。
今夜は星ひとつないらしい。月も姿を隠しているのだろうか、妙に暗い夜だった。
私はふと、上着の内ポケットに手を伸ばし、常に身に付けている小さな袋を取り出した。
あけると、中には渇いた血で汚れた白い髪が入っている。
私はそれにそっと、鼻を寄せた。
もう何の匂いもしない。その行為は無駄なものだ。
だが、一瞬だけ、あの子が生きていたときの匂いがするような気がして。
私は気がつけば泣いていた。
もう枯れたと思っていたのに、それはとめどなく溢れてくる。
「ああ……ミシェル……」
声は闇に溶けていく。
そこに寄り添う妻も子もいなくなった男の影は、ひとり、夜に吸い込まれていった。
・ ・ ・
時を同じくして、森の奥にあるアヤネの家では、寝る準備を整えていた。
お風呂からあがって乾かしたスキュブの髪の毛はおろした状態になっている。
いつもの三つ編みもかわいいしかっこいいのだが、この髪型もなかなか良い。真っ白な髪が真っ直ぐおりていて、それは花嫁のベールより綺麗だ。
指ですくとさらさらしていて心地よい。手持ちぶさたになっていたときに、小一時間スキュブの髪の毛を触っていたこともあった。
因みに彼はそうされるのが好きらしい。でも、頭を撫でられるほうがもっと好きだ。
「……アヤネ」
寝間着を着て、ベッドの上に座るスキュブがアヤネの名前を呼んだ。
寝る前のなでなでタイムが待ち遠しいのだろう。アヤネは早足でスキュブのもとへ向かった。
スキュブのベッドはとてもふかふかしている。いいところのホテルくらいには寝心地が良い。
しかも天蓋がついているのでどこかリッチな雰囲気まである。
やはり大枚をはたいて買った価値はあった。スキュブの魅力を最大に引き立てる上に、良い眠りまで約束してくれるのだ。
薄い天蓋の中にねだるような目でこちらを見つめてくる彼はどこか妖しい美しさを帯びていた。
蜂や蝶が花に集うのは、こういうここちなのかもしれない。足が自然とそちらへ向かってしまうような引力、これがその正体なのだろう。
アヤネはベッドにあがってスキュブの隣まで寄る。
「おいで、スキュー」
両手を広げると、スキュブは惑うことなく胸へ飛び込んできた。回された腕がぎゅっと、肺の空気を少しだけ追い出す。
強めの抱擁だが、彼にしては優しいほうだ。抱き締めた勢いで、脊髄及び肋骨等の粉砕と内臓破裂を引き起こすことが可能な彼だ。その上、大好きなアヤネを力一杯抱き締めたいのを我慢してのとなれば、彼の優しさがどれだけのものか分かるだろう。
「よしよし、今日もありがとうね、お疲れさま」
触り心地のよい頭を優しく撫でると、スキュブはアヤネの胸の中心に頬擦りした。
二人きりのとき、彼はこういう反応をする。
嬉しいと身体のどこかをすりすりさせたくなるらしい。どうしてかはわからないが、そうすると胸がぽかぽかしてくるのだという。
言葉では表しきれない分をこうして伝えているのかと思うと、こころの底から彼のことを愛おしく思った。
だって、かわいくて仕方ないではないか、最愛の相手が嬉しさのあまり頬擦りしてくれるなんて。
因みに、彼はアヤネの胸の中心に頬擦りしていると記述したが、これは胸に顔を埋めているとか、胸の谷間で感触を楽しんでいるとか、そういった意味ではない。
そもそもアヤネの胸は悲しいくらいになかった。ぺたんこなのである。友人にも「台風が直撃しても揺れない胸」「虚しい胸と書いてきょにゅうだねwww」と言われたことがある。(友人のことは後でシメた。)
事実、下着をつける必要がない。そのため、彼は一切卑猥なことはしていない。埋められるだけの胸がないのだから、当然セーフだ。
「アヤネから、アヤネの匂いがする……」
スキュブのくぐもった声が聞こえた。
どちらかといえば石鹸の匂いじゃなかろうか。先ほどお風呂からあがったばかりである。
いや、寝間着に匂いがついているのだろうか。それにしては今まで違う匂いがしていたみたいではないか。
「そりゃそうだろう、なになに?浮気でも疑ってるのかい?」
「……違う、けど……この前、こどもにたかられていたときは、こどもの匂いがついてた」
「ああ……あのときか……」
そういえばそんなことがあった。特に女の子からの熱視線がすごかった。おひめさまみたいとか、どこからきたの、とか質問攻めにあったのだ。
そのうち複数はスキュブにも向けられたものであった。そのときの彼は嫌そうな顔をしながら適当に一言程度で答えていたのを覚えている。
無視したり追い払ったりすればいいものの、彼はそうしない。
だからいつまでもおいかけられたり、毎度話しかけられたりするのだ。その度に嫌な思いをするのに。
「……こどもは、きらいだ」
スキュブの声に影が見える。捨てられたこどもみたいだった。
「……知ってるよ」
「あんなに、むじゃきに……優しさが当然のように……」
スキュブは苦しみから逃れるように、アヤネの左胸に耳を押し当てた。
彼はこうすると落ち着くらしい。アヤネの匂いを嗅いでいるのにも拘わらず、興奮状態になっていないのがその証拠だ。鼓動の音を聞いていると、こころが安らぐのだろうか。
人間誰しもそうかもしれない。鼓動の音というのは胎児のときから縁のあるものだ。
産まれたときからある音、産まれてから傍にある音。それは自分が誰かの保護下にあって、産まれた後は誰かの愛を受けている証明だ。
自分は産まれ、当然のように愛され、当然のように守られる。
産まれただけで、お前には愛される資格があるのだということを教えてくれる、非言語のメッセージ、それが鼓動の音である。
そしてそれを今、アヤネに求めている。
「きらいだ、きらいだ……今持ってるものが当たり前みたいに振る舞うのが、きらいだ。
それなのに、アヤネにまで手をのばそうなんて……欲深い。ひどい。わたしの……わたしのアヤネなのに……」
……こどもが妬ましいのだろう。自分にはないものを当然に持つ存在が妬ましいのだ。
両親がいることが普通であるような、愛されるのが普通であるような者に嫉妬せざるを得ない。
抱き締める力が強くなって、アヤネの肋骨が微かに歪む。肺は苦しさと痛みを訴えたが、アヤネは気にしなかった。
この程度の痛みが何だというのか。
彼のこころはもっと痛いに違いない。それを受け止めてやれないなら、パートナーとして失格である。
「……大丈夫だよ、スキュー。わたしはお前を置いていかないから。」
スキュブの頭をそっと撫でる。
ふわり、羽毛より触り心地のよい髪の毛。
いつまでも撫でていたい質感。
もう手ばなすことなどできぬ、愛おしい感触だ。
「他のやつのとこになんて行くものか。わたしとお前はずっと一緒だよ。」
「……ほんとう?」
「勿論。」
「うそじゃない?」
「嘘なものか。」
「……うれしい」
スキュブは身体を起こし、鼻と鼻がくっつくくらいに顔を近づけた。
桃色がかった赤い目が真っ直ぐにアヤネの目を見つめる。
安堵と不安が混じって、今にも壊れてしまいそうな目だった。
潤んで、いまにも溢れてしまいそうだ。
言葉と行動がどこか矛盾している。おそらくその言葉には続きがあるのだろう。そしてそれは逆接の言葉で繋がれる。
抱き締めた手がアヤネの寝間着をぎゅっと掴んで皺をつくる。
「……アヤネ」
スキュブはゆっくりと、おそるおそる、アヤネの唇に自分の唇を押し当てた。
口づけと呼べるかどうか分からないほど幼いその行為は、ただ自分と相手の境界線をほんの少しだけ溶け合わせるだけのものだ。
情熱と愛欲で互いを溶かしあって一つになるものとは程遠い。一夜の夢へと果てる行為とはもっと遠い。
そんなものでなくてもいいから……ただ、胸の内が通じあって、溶け合って、一つの解へとたどり着けば良い。愛を確かめあうにはそれでよかった。
「アヤネ、今からわたしが言うことに、嘘をつかないで。
もし……嘘をついたら……」
唇を離してアヤネの目を見つめるスキュブは、アヤネの首へ手をのばした。
「……砕いてしまうから。壊してしまうから……この首を、へし折ってしまうから」
喉にスキュブの指が食い込む。脳はいのちの危機を察した。身体に逃げろ、という信号を送ろうとしている。
だが、アヤネは絶対にそうしなかった。
ここで逃げるなんて選択肢は自分にはないのだから。
「……わたしは、お前のことが好きだ。大好きで、大好きで堪らない。ずっと抱き締めていたいほど……糸で巻いて、離れなくしたいほど……
ずっとずっと一緒にいたい。ずっと、毎日、おしゃべりをしたり、ごはんをたべたり、こうして寝る前のじかんをすごしたり……」
アヤネの額にスキュブの額が合わさる。
「ねえ、アヤネは……わたしのこと、すき……?
まいにち、こうしたい?抱きしめたいっておもう……?」
勇気をふりしぼって出したのが分かる、か細い声だった。こうして間近にいたから聞き取れたといっていい程、今にも泣き出しそうに掠れていた。
なんて悲しいことだろう。
彼はこんなことに嘘をつかないでと念をおさねばならないなんて。
「そんなの……当たり前じゃないか」
アヤネはスキュブをきつく抱き締めた。
「大好きだよ、スキュー。出会ってからずっと、お前のことが大好きだ。
なんともない話をしたい。くだらない話だって、今日あった些細なことだって……何かを食べてるお前を見たい。最近は、わたしもちゃんとしたの食べるようになったし……お前と一緒だと、ご飯の味がちゃんとするんだ……
寝るまで何か語り合ったり、夢の話をしたり、明日の話をしたり……こうして抱き締めたりしたい。
当たり前のように、それが日常であるようにしたいんだよ、スキュー。わたしは……それくらいに、お前のことを想っているんだよ……」
スキュブの深く息をのむ音が聞こえる。
きっと目を閉じて、この言葉を飲み込んでいるのだろう。
必要だったのだ。こうするまでに、嘘をついたら傷つけると言うまでに。
毎日過ごしていれば当たり前に感じあうそれを、伝えあうことも必要ないくらいに当然のそれを、彼は確認する必要があった。
これはアヤネを疑うからそうするのではない。むしろ疑ったことなど一度もなかった。その言葉を信じ、その行動を信じている。だからこんなにも長い間一緒にいることができるのだ。
それなら何故、愛を試すようなことをしたのか。
答えは簡単だ、自分を疑っているのだ。
自分の愛される資格を疑っている。自分の存在価値を疑っている。
そんなことを疑っているのか、愛される資格など誰しもが持っているものであるし、存在価値などあってもなくても人は生きていける。そう思う者もいるだろう。
それはそれで真実だ。人はその存在そのものを愛される。これを読んでいるあなたもそうだ。誰よりも優れた力があるから愛されるのではない。顔を合わせれば一言二言話し、どうでもよいことを話してくれるだけでいい。身内であれば生きて、そこに在ってくれればそれでいい。
存在価値など疑う必要なんてない。その存在に価値があろうがなかろうが、そんなことはどうでもいい。そこにいのちがあれば良いのだから。
そして、自分のいのちの価値など他人が決めるものではない。自分で疑うものでもない。そこにいのちがある限り、終わりまで走らねばならないだけなのだから。
産まれて、生きて、死ぬために価値がどうこうなど関係あるものか。そこに在るために価値などいるものか。
理由などさらに関係ない。理由なんてなくてもいのちは生きていける。強いていうなら生きるために生きているのだから、そこに付加する理由なんてなくていい。
誰かと接し、社会の歯車となることで、自分の存在価値を疑うこともあるだろう。でも、本当に大切なところは、そこではない。
確かに社会の歯車にならねば生活することはできないだろう。だから必死でもがいて誰かの役にたとう、誰かの必要なものになるために、違う何かになろうとする。
そしてそう教育される。こどものうちから社会の歯車になるために、矯正、整形され、わたしたちは製品として社会に出荷される。
でも、そればかりがあなたではない。そればかりが人生ではない。
だって、あなたもわたしも、他の誰かも、本当は歯車ではなくて人間だ。金属でできているわけじゃない。油をさして動くわけじゃない。肉を持っていて、こころを持っている。血が通っていて、精神は陰と陽を繰り返す。
それは彼にだって当てはまるはずだ。
アヤネの役にたつから愛されているのではない。
毎日を共に過ごして、当たり前に互いを想いあって、自然と互いを愛し合っている。それだけのことなのだ。
役にたたないから母親に捨てられたのではない。
彼女は飽きたから捨てた。飽きて、エサをやるのも面倒になって、新しいのにのりかえたから捨てたのだ。そもそも愛してなどいなかったのである。
そんな当たり前のことが彼には分からなくなってしまったのだ。
おかあさんだと思って、愛し合っているのが当然だと思っていた相手に裏切られたから。
そのせいで自分の年齢を十歳だと思い込むくらいにショックを受けてしまったから。
本当は十五歳なのに。おかあさんとの日々があった五年間を思い出すのが痛くて痛くて、記憶を封印している。
そのため、おかあさんが与えてくれるはずだった愛を注いでくれる存在と出会った日から、彼の記憶ははじまるのだ。
アヤネの胸は刃物が突き立てられたみたいに痛んだ。
こうしてすがる相手が自分しかいないなんて、寂しすぎる。孤独すぎる。
本当は誰にでも愛される子なのに。本当は友達にだって囲まれて、笑いあっていい子なのに。
かつて自分もそうだったから余計に痛んだ。
他界した父の遺影がある仏間で、ひとりぼっちで泣いていた。
居間では新しい父親と母親、宝物のように可愛がられる、父違いの弟が笑いあっている。
爪先から頭までをなめるような視線で見てくる新しい父親。
他界した父親に似た顔つきのアヤネを何ともいえぬ眼差しで見る母親。
そんな事情などまだ知る由もない弟。
そこに居場所などなかった。
すがることができるのは過ぎ去った日の、色褪せた愛の記憶だけだった。
「アヤネ……うれしい……わたし……うれしくて……うれしくて……!」
アヤネの身体が後ろへ倒れ、ベッドに沈む。
スキュブはいつの間にかアヤネに覆い被さるようになっていた。
押し倒された状態になっている。それでも胸のどこかが恋をすることも、心臓が鼓動をはやめることもなかった。
「アヤネ……わたしたち、想いが一緒なら……ひとつになろう。
わたし、アヤネを食べたい。お前の肉を、血をお腹につめて、やがてお前が血へとけて……わたしのなかを巡る。お前の愛が、わたしの全身を巡って……わたしの内臓をも全部、愛してくれる。
だからアヤネもわたしを食べて……?お前のなかに入り込めたら、わたしの愛もお前のなかを巡る。皮膚の下まで愛し合って、互いに同じになれたら……血なんて繋がってなくても、一人じゃない。
だからひとつになろう。一緒に食べよう。わたし……お前と溶け合ってしまいたい……!」
興奮した彼から語られたのは、夢へ漕ぎ出すための睦語でもなく、身体を開きあうための誘いでもなかった。
彼がそれを知らないわけではない。こどもを授かる儀式を、快感をもって互いの境界線を溶かし、ひとつになるために行うこともあるというのを、彼は知っている。
普通の恋人たちであればそれで満足するのだろう。愛を試しあうことになるのだろう。
しかし、アヤネとスキュブの関係は恋人ではなかった。夫婦でもなかった。
更にいえば、彼はその程度では満足することはできなかった。
皮膚の境界線が無くなった程度ではもう満たされない。愛する相手を味わい、腹に流し、それが血にのって巡っていく快感を知っているから。
愛を確かめあうために言葉を交わし、語られた内容が真実であるのなら、境界線が溶けた程度では事足りぬ。
それが巡り、愛が全身に染み渡らなければいけない。
だが。
それを容易に許してはいけない。
「……そんなこと、しちゃダメでしょ」
アヤネはスキュブの頬を両手で包んだ。
「……どう、して?否定するの?わたしを……?拒むのか……?!」
「違う、違うよ……スキュー。お前は痛みが分かるやつだ。わたしがお前に食べられて、痛いと言ったら、お前の胸は痛むだろう?きっと後悔する。わたしが何も言わなくたって、笑ったって後悔する。
わたしも一緒さ。お前が傷つけば痛い。お前のどこかが痛んだら、わたしのどこかも痛むんだ。」
アヤネは語り聞かせるようにそう言った。
こういうときはいつも鎮静剤を使っていたが、本来はこうするべきだったのかもしれない。
愛されたくて堪らなくて、大好きで堪らなくて、匂いを嗅ぐだけでそれが爆発してしまうのは、甘えたい衝動のあらわれなのではないのだろうか。
十五歳だ。そしてこころは十歳だ。自分が何者かも分からず、悶え苦しむ時期であり、まだ甘えたい時期である。
胸へ飛び込んで、こころのままにたくさん甘えて、自分という存在をそのまま受け入れて欲しい。自分でも分からない、不安定な自分を許して欲しい。そう思って当たり前の時期なのだ。
この子には頭から浴びせるほどの、バケツ一杯では足りないほどの愛が必要だった。
それならアヤネがやることは自ずと決まってくる。
「スキュー、食べあう代わりの提案があるんだ。聞いてくれるかい?」
アヤネが微笑むと、スキュブは不安げな表情ながらもこくりと頷いた。
「……一緒に寝よう。お前が眠るまで頭を撫でてあげる。朝までずっと傍にいる。……どう?」
スキュブは目を見開いた。頬はほんのり赤みがかっている。
「ほんとう……?いいの……?」
「本当だよ。ほら、おいで」
アヤネはするりと枕のあるところまで向かい、すぐ隣のシーツをぽんぽんと叩いた。
スキュブは四つん這いでそのあとを追い、下半身をベッドへ潜り込ませる。
「ちょっと待ってね」
寝間着のボタンをいくつかはずし、胸元をあらわにした。
「よし。おいで。ほっぺつけてもいいぞ。」
とけあうならこれでいい。素肌と素肌がくっつけばあたたかいし、鼓動の音も聞こえやすいはずだ。
スキュブもそう思ったらしい。ゆっくりとアヤネの胸元に頬を寄せると、目を閉じて耳を澄ました。
もにもにとした頬の感触と、柔らかな吐息のここちが、肌を通して伝わる。
胸の奥からじんわりとあたたかいものが広がっていくのを感じた。
食べちゃいたいくらいにかわいい。その言葉の意味が今ならよく分かる気がする。それではスキュブと一緒だが。でも、思うだけならそれはそれで良いのだろう。
「あったかい……アヤネ、ふわふわしてる……」
スキュブはそう言いながら頬擦りした。
ほんの少しくすぐったい。
そのまま寝転んで、スキュブに布団をかけてあげる。
「ふふ、そうでしょ。こうするとあったかいんだよ」
スキュブの頭を胸へ抱き寄せるようにしてから撫でてあげると、スキュブは穏やかな微笑みを見せた。
下手くそじゃない、安心しきった幼子のような微笑みだった。
この笑顔は、朝になったらもう見ることができないだろう。安堵に包まれて怯えをほんの少しの間だけ忘れることができる、この時間だけのものだ。
「きもちいい……むねが、あたまが、ぽかぽかして……とろけるみたい……」
ね、食べあわなくてもひとつになれるでしょう。
そう言うかわりに髪に唇を寄せた。お風呂あがりのいい匂いがする。使っているものは一緒なのに、スキュブのほうがずっといい匂いに思えた。
彼もこういう気持ちなのだろうか。どこか落ち着く匂いとはこういうものをいうのだろう。
それから暫くたったころ、スキュブは静かに寝息をたてはじめた。
気持ちよくて寝てしまったのだろう。その寝顔は年相応のこどものそれと同じものだった。
「……かわいいな。睫毛めっちゃ長いし。」
睫毛を指先でちょんとつつくと、スキュブはくすぐったそうに頭をもぞもぞと動かした。
「へへ、どんな夢を見てるんだろう。夢でもわたしと寝てるのかな」
そうだとしたらかわいい。彼には夢の中であっても幸せであってほしかった。
「……スキュー、愛してるよ」
聞こえるか分からないくらいの囁き声でそう言うと、スキュブが小さなうめき声を出した。
起こしてしまったかと思って、急いでスキュブの顔を見ると、彼は眉をひそめて苦しそうにしている。
魘されているのだろうか。夢で誰かにいじめられているのだろうか。
正体は次の言葉ではっきりする。
「……おかあ……さん……」
閉じた目から涙がひとしずくこぼれた。
その瞬間、アヤネの胸に鋭い痛みがはしる。胸の中心を鷲掴みにされて、潰されそうになっているのではないかと思うくらいだった。
いてもたってもいられなくて、アヤネの口が、身体が、勝手に動く。
「ああ、スキュー、だめ、そっちに行っちゃだめ……」
腕はスキュブの頭を抱き、胸へ寄せた。
「ここにいるよ、スキュー……わたし、傍にいるから……」
どこか暗い場所へ落ちていきそうなスキュブを繋ぎとめようと、いつもより強めの力で頭を撫でる。
頭を撫でられたときの彼はいつも穏やかだった。安心と、幸福に満ちて、口元がほんのりほころびるくらいに。
きっと彼はおかあさんに置いていかれる悪夢を見ている。
手を伸ばしても追いかけても届かない、どんなに罵られても嫌いになれない存在に、どうにかして振り向いてもらおうともがいている。
忘れたくても忘れられないのだろう。どんなに記憶を封印しても、ふとした拍子にフラッシュバックするのだろう。
だから、彼のこころの拠り所になりたかった。もたれ掛かることのできる柱となりたかった。
その想いが通じたのだろうか。頭を撫でているうちに、スキュブの表情はだんだんと穏やかなものへと戻っていって、また静かな寝息をたてはじめた。
「……あや……ね……」
小さな寝言がアヤネの名前を呼ぶ。
よかった、夢の中でも一緒になれたようだ。アヤネはほっとして一息つき、自分もそろそろ寝ようと目を閉じた。
・ ・ ・
この日の悪夢は救いのあるものだった。
おかあさんが新しいこどもを連れ、わたしに何か言っている。
『█████、██████████』
何て言ってるかは分からない。言葉が耳に届くまえにノイズが混ざる。
しかし、おかあさんが新しいこどもと手を繋いで去っていくのは分かった。
無意識に、いかないで、置いていかないで、ひとりにしないで、と手を伸ばす。
だが、その背中はちいさくなっていくばかりで、おかあさんはこちらに振り向きもしない。
胸がじくじく痛んだ。
あの日、かわいいと言ってくれたのは嘘だったのだろうか?
あの日、きれいと言ってくれたのも嘘だったのだろうか?
笑顔も、かけてくれた言葉も、一緒にごはんを食べた時間も、寝かしつけてくれた時間も、全部嘘だったのだろうか?
こころがわれる、おとがする。
胸にぽっかりと穴があいて、苦しくて、痛くて、自分の中身が全部なくなってしまったような虚無感が襲ってくる。
「……おかあ、さん……」
どうしていってしまうの?
こんなに痛いのに、どうして振り向いてもくれないの?
こどもがこんなに苦しんでいるのに、どうして駆け寄ってくれないの?
いっそのこと全部憎めてしまえたらよかった。
でも、こころのどこかが、まだ振り向いてくれると言ってきかない。
くるしい。誰かたすけて。
だれか、ぼくをこのあくむからすくいあげて。
涙があふれて、ぽたぽた頬を伝っていく。
そのとき、誰かの声がした。
――スキュー……――
聞き覚えのある、優しい声だ。
顔をあげてみれば、そこには最愛の人が立っている。
それは太陽みたいだった。きらきらしていて、あたたかくて、暗いのを吹き飛ばしてくれる。
――ここにいるよ、スキュー……わたし、傍にいるから……――
アヤネは優しく抱き締めてくれた。
胸の痛みがだんだんと和らいでいく。ぽかぽかで、ふわふわで、とろけそうで、何かが少し埋まっていくような気がした。
「アヤネ……だいすき。だいすきだから、ずっとそばにいて……ぼくをみすてないでいて……」
抱き締め返せば、もっとぎゅっとしてくれる。
こころの穴にぴったり寄り添ってくれるのはやっぱりアヤネだった。
このひとを離したくない。
誰かにとられてしまうなら、糸で巻いて家に閉じ込めてしまいたい。
みんながアヤネをいじめるのなら、みんなを殺してしまえばいい。
このぬくもりがずっと続けばよかった。
アヤネのそれに身をまかせて、目を閉じれば、身体もこころも夢へとけていく。
ふわり、ふわり。春の花園のようなここちよさ。
お腹が空かなかったのは何故だろうか。
不思議だったけど、アヤネと一緒にとけていくのが嬉しくて、こたえを見つけることはできなかった。