52
「わたしもね、よくこうやって夜中に起きちゃったりしてたんだ」
アヤネはホットミルクを一口飲んで、マグカップを静かに置いた。
「一回起きちゃうとなかなか寝られなくてさ。目を瞑っても暗闇がずーっと続くだけ。深呼吸を繰り返して寝られればいいかなってくらい」
アヤネはミルクの表面に映る自分の顔を見つめる。
「でも、寝ると悪夢を見ちゃうでしょ。だから寝るの怖くてさ。
もう外に出て朝がくるまでうろついていたいけれど、夜中に一人で歩けないしね。
横になって、じっと時間が流れるのを待って、外がだんだん明るくなってきて、ああ、やっと夜が終わったんだ……って気持ちと、また朝が来ちゃったんだって気持ちで複雑だったな」
アヤネが懐かしそうに、だけども目にはほろ苦さを浮かべて、ほんの少し笑った。
アヤネも悪夢の被害者だ。今でこそ滅多にうなされることはなくなったが、昔は酷かったらしい。
アヤネはこういうような、同じ経験者として寄り添うときにしかそういう話をしない。だから、いつもカヨからアヤネの昔話を聞く。
昔は目の下の隈が酷く、表情も死んでしまったように無かったようだが、今は笑いもするし、冗談も言えるようになったと、カヨが嬉しそうに話していたのを今でも覚えている。
「……今日の月は、綺麗だね」
アヤネが窓に目をやった。
雲に包まれ、優しく光る月が空に浮かんでいる。
「時間をつぶすのにちょうどいいよね、空は。雲が流れて、星が光ってて、月があるから」
昼の青く、高い空も良いが、夜の静かでささやかに煌めいた空も良い。
スキュブもアヤネの視線の先にある月を見て、両手でマグカップをぎゅっと包んだ。
まだ温かい。冬でもないのに、このぬくもりが恋しかった。
「……アヤネとはじめて会ったときも、月が綺麗だった」
アヤネがはっと、驚いたようにスキュブの方へ振り返った。
スキュブはそれに気付いていたが、そのまま続ける。
「あのときね、どうせだめだろうって思ってたの。また、すてられるんだって。
でも……綺麗な月と一緒に優しく笑って、手を差し伸べてくれたのを見たら、手を取っちゃった。」
スキュブは遠いようで、すぐに手が届くほどに鮮明な記憶を手繰り寄せた。
月の優しい光を浴びたあの日のアヤネは、本当に、本当に綺麗だった。
夜空の深い色をそのまま流したような黒い髪に、見つめたら吸い込まれてしまうほど深く、黒い瞳。
月の光が縁どる顔は、見ただけで滑らかだと思わせるほどやわらかかった。
息をするのも忘れてしまうほどの美しさに、一匙ほどの寂しさが混ざった笑顔は、スキュブのこころを強く引き寄せた。
荒んで翳っていたスキュブの顔を上げ、目を見開かせたのだ。
月の民の美しさに目を奪われただけかもしれない……以前はそう思ったこともあったが、アヤネと共に過ごすうちに、それは間違いだったと確信した。
あの日手を差し伸べた少女は、運命だったのだ。
見えない糸で繋がっていて、あの日に二人を引き寄せたのだ。
そうでなければ、こんなに重なるはずがない。寂しさも、痛みも、負った経緯は違えどこんなにぴったりと重なるなんて。
他人だとは思えない。流れている血が違うとは思えないのだ。
「アヤネはずっと傍にいてくれた。捨てたりなんかしないよって言ってくれたし、嘘じゃなかった。
頭の洗い方も教えてくれたし、身体の洗い方も教えてくれた。あったかいご飯を毎日作ってくれたし、毎朝髪を結んでくれた。
抱きしめてくれたし……頭をなでてくれた。大好きだよって、いつも言ってくれた……
だから……だから、ね」
言葉を続けようとして、目頭が熱くなる。
言うのに勇気が必要だった。だけども、目を袖で拭って続ける。
「だから……最近、ちょっとだけ、おもったの。
どうして……おかあさんはわたしのことを、捨てたんだろうって……アヤネは、いっぱいいっぱい愛してくれるのに、おかあさんはどうしてあいしてくれなかったのかなって……」
言葉にすればするほど、涙が流れた。気持ちを出すと涙が出てしまうなんて、不便だ。
勇気を出したのに雨が降ってしまったみたい。頑張ったのだから、涙が止んで晴れると思ったのに。
「おかあさんが……おかあさんが……夢の中でも、ずっと言ってくる。おまえなんて、おまえなんて……いら、ないって……!
どうしてそんなこというの?あいしてくれてたのに。あたまをなでてくれたのに、ぼくにわらいかけてくれたのに……!」
涙がぼたぼた出てくる。
肩で息をして、しがみつくようにマグカップを握って、それでも続けた。
「アヤネはずっと、ずっと、そうじゃないよ、そんなわけないじゃないって、愛してくれた。ぼくがぼくのままなのに、愛してくれた。
つよくなるまえと、つよくなったあとも、かわらない。
できることがすくなかったときと、おおくなったあとも、かわらない。
おおきくなるまえと、おおきくなったあともかわらない。
それなら、どうしておかあさんはぼくをすてたの?アヤネの愛がほんとうなら、おかあさんはさいしょから愛してなかったの?あれはうそだったの?どうして?どうして?」
アヤネがスキュブの傍に寄って、背中をさすってくれた。
少しだけ、言葉のしこりがほぐれる気がする。
「ずっと、こわい。ずっとこわかった……!じぶんは愛されないって、なんねんたっても、愛されないんだ、いらないんだって、こわい……
アヤネが、愛してくれてる。ディートもカヨも、愛してくれてる。それなのに、ほっとすると急に、愛されないんだって、いらないんだって、あたまのなかでおかあさんがいってくる!わかってるのに不安になって、ずっと……こわい……」
泣きながら言い終えると、アヤネが優しく抱きしめてくれた。
身体をあたたかく包むようなここちが涙を誘う。
悲しいから涙が出ているのではない。悔しいからでもない。
泣いていいのだと許されているような柔らかさが、今まで堪えていた様々なことをほどいて、解いて、流れるようにしてくれたから、涙が出ているのだ。
「……不安は、消えないよね」
アヤネが唇を噛みしめるように呟いた。
「ずっと、ずっとついてくる。ほっとしたときも、影に潜んでいるから。
それは、言葉にするのも辛い。吐き出すのだって、一苦労。
だから……だからね、スキュー」
アヤネの手がそっと、スキュブの頭に触れた。
「よく頑張ったね、スキュー。ありがとう、話してくれて。
大変だったよね。苦しかったよね……
涙がかれるまで泣いていいんだよ、こういうときは。わたしはお前が泣き止むまで、ずっと傍にいるからね。」
アヤネの手がスキュブの頭を優しく撫でる。
髪を指先で流すようで、しっかりと撫でてくれているその手付きには、確かにぬくもりがあった。
スキュブは許されるまま涙を流し、頷いた。
ホットミルクのマグカップより優しいあたたかさで、こころの芯まであたためてくれるアヤネの体温に身を委ねて、静かに泣き続けた。
空に朝の兆しが見え始め、鳥も鳴き始めたころ、スキュブはようやく眠りについた。
安らかなその寝顔は、悪夢の手の届かない場所で眠れているように見えた。
スキュブを起こさないように、自身に身体強化系の魔法までかけてスキュブを寝室まで運んだアヤネは、一睡もしていなかったが、その顔には微笑みが浮かんでいた。
寝返りをうつスキュブの布団をかけなおすアヤネの頬に、やわらかな朝日が注ぐ。
まだ目覚めていないその光は、寄り添うようにアヤネの微笑みを照らしていた。
不安はずっとついてくる
足元にいる影のように
それを振り切れるようになるには、時間がまだ足りないよね
そして、吐き出すということは大変労力が必要なことで、勇気が必要なこと
スキュブはとてもすごいことをやったとわたしは思います
こころの傷を言葉にするのは、本当に大変なことなので




