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 はっと目が開いた。

 辺りは嫌に暗く、周囲に何があるかも分からない。

 目の前を真っ黒に塗りつぶされたようだった。まばたきをしてもどちらが瞼の裏なのか分からない。

 はっきりしているのは、床の冷たい感触だけで、氷に触れているかのようだった。

 身体が芯から冷える。身体の動きが鈍ってしまいそうだ。

 

 身を起こすと、暗澹の中でじめじめとした空気とカビ臭いにおいが漂っているのを感じる。

 おそらく地下室のような場所だろう。床のざらつきに何故か覚えがある。

 もちろん、アヤネの家にある地下室ではない。あそこはこんなに冷たくない。

 それに、もしもここがアヤネの家にある地下室ならば、すぐに明かりがついて、アヤネが迎えに来てくれるはずだ。

 優しい光に照らされて、こんなところにいたの?と微笑み、手を差し伸べてくれる。

 アヤネがいて、アヤネと一緒に集めたものがたくさんあって、あの地下室はできている。だから、あそこはあたたかいのだ。

 

 ならば、ここはどこか。

 地下室なんて、アヤネの家以外だとカヨのところにしか行ったことがない。

 だが、それならここはカヨの地下室か、と問われれば違う。

 あそこは血の香りがする。ディートリッヒが大切に育てている家畜がいるから、餌の香りがするのだ。

 それに、地下室に行くときはいつもディートリッヒが付き添ってくれる。ディートリッヒがいないときは、必ずカヨがいてくれる。

 だから、こんなにも孤独な地下室なんて、知らない。知らないはずだ。

 

 そう思った瞬間、胸の奥がざらりとしたものでこすられたような……いや、心臓の表面をやすりで撫でられたような気持ち悪さが走り、血の気が引く。

 そのせいなのか、身体を動かすのが怖い。

 億劫という言葉では足りない。指を動かすのにも勇気がいる。

 

 ここがどこなのか、自分がどうなっているのか、頭が既に理解していそうで、こころはそんなはずはないと否定している。

 これからなにが起こるのか、うっすらとした予感が脳裏に居座っているのが今にも震えそうで、吐きそうだ。

 

 知らぬ間に、息がきれているのに気づいてはっとした。

 心臓が蠢くように鳴って、皮膚の中で血が這いずり回っている。

 気分が悪い。この症状はいつも突然襲いかかってくる。

 いつも、あれが原因で……あれが、目の前に出てくると、くるのだ。

 

 あれは……あれは、なんだっけ。知っている。知らない。知らない、覚えてない。

 

 頭の中で凍りついた白い記憶の中から答えが出ている。

 だけども、そんなものは知らない。わたしは、ぼくは、そんなもの、しらないはずなんだ。

 おぼえていないし、わからない。

 

 ここがどこで、なにがおこるのか、おぼえてない。いいや、おぼえている。

 おぼえていなくて、おぼえている。しらないのにしっている。

 わからない、そこにあるのに、ふれられないから、わからない。

 

 ただ、ただ、こわい……

 

 来るのが分かる。音と光を連れた恐怖が、自分を刺しにくるのだと分かる。

 『あれ』がくる。扉を開けて、████████と言いにくる。

 あれ、思い出せない。思い出せないのになんて言われたか知っている。ああ、いやだ。やめて。おもいださせないで。あたまが、しろくて、割れそうだ。

 

 むこうで、音がする。

 かかとの音を覚えているから、近づいてくるのが分かる。

 かかとの音だけだったから、ひとりだけだとおもっていたのに。

 きてしまう。恐怖が足を止め、ドアノブに手をかけた。

 

 扉の開く音がした。

 白い光が闇を裂き、恐怖が地下室へ歩み出る。

 

 見たくないのに、視線は強制的にそちらへ向いた。

 

 二人の影が光で黒く浮き出ている。

 小さい影と、大きな影が、手を繋いで……こちらを、見ている。

 

 大きな影が、口を開いた。

 

 恐怖が、口をひらいて……『おかあさん』が、あの、ことばを――

 

 

 

「スキュー!」

 

 アヤネの声が悪夢を裂いて、聞こえてくる。

 はっと目を覚ますと、見慣れた風景にアヤネの姿があった。

 

 いつもの天蓋つきのベッドと、ぬくもりのある香り。

 手を伸ばせばすぐそこに、安心があった。

 

 アヤネは心配そうな顔をして、こちらを見ている。

 昔、大怪我をしたときも、こんな顔をして駆けつけてくれた。

 すぐに傷を癒やして、抱き締めてくれたのを覚えている。

 

「スキュー、大丈夫?」

 

 アヤネは汗で額に張り付いた髪を指でそっと流してくれた。

 その心地が、どくどくと鳴る心臓の音をだんだんと鎮めてくれる。

 

「だい……じょうぶ……じゃ、ない」

 

 ほっとしたのに、怖さがまだ残っていて、涙が出た。

 どうにもできず、涙が溢れて枕を濡らしていく。

 

 スキュブはすがりつくようにアヤネの手首を掴んだ。

 まだ触れていてほしいのに、離れてほしくなくて、耐えられずに髪を流してくれている手を掴んでしまった。

 

「大丈夫だよ、スキュー。わたしはどこにも行かないからね」

 

 アヤネは優しく微笑んでくれた。

 春に咲く、ささやかで小さな花のようなその笑みは、あたたかさそのものだった。

 冷たさも、寒さも、全て遠ざけてくれる。孤独などこの世界にはないのだと語りかけてくれるようだった。

 

 悪夢のなかで一番欲していたそれに、こころがはちきれそうになった。

 冷えていた胸の奥が溶かされて、感情がとめどなく流れ出してくる。

 涙が出るのは、この感情の濁流のせいなのだろう。あふれて、弾けて、火花のように燃えて、光る。

 

 何て例えたらいいのかわからないほどのそれは、身体を勝手に動かした。

 スキュブはすぐさま起き上がり、アヤネの身体を強く抱き寄せる。

 ふらりとアヤネがのけぞる感覚の後に、薄い肉のやわらかさと、肋骨が微かにたわむ感触がした。

 

 やさしいにおいが胸いっぱいに広がって、あたたかく、あたたかく……熱が徐々に伝わっていく。

 物語の旅人が久しぶりに故郷に帰ってきたときに、目頭が熱くなる理由が分かる気がした。

 故郷というのは、このような場所を指すのだ。

 自分が帰る場所。どんな恐怖も遠ざけてくれる場所。

 アヤネそのものが、スキュブにとっての故郷であった。

 

「アヤネ……いかないで、お願い……」

 

「どこにもいかないよ。ずっとお前の傍にいるからね」

 

 アヤネはスキュブの背中を優しく擦った。

 それだけで、呼吸が楽になるような気がする。

 

「こわい……」

 

「うなされてたもんね。今、明かりをつけるからね」

 

 ベッドの近くにあったルームランプがつくと、あたたかな明かりが広がった。

 悪夢を見たときはよくこれをつけてくれる。オレンジがかった色が白い明かりよりやさしくて、どこか安心できた。

 

「アヤネ、わたし……ねたくない」

 

「怖いもんね。寝たくなくなっちゃうよね」

 

「こわい……また……おかあさんが……」

 

「怖いよね……もう大丈夫だからね。ここにはもう来ないよ。わたしが傍にいるからね」

 

 アヤネはスキュブの背中をとんとんとしてくれた。

 スキュブはこくこくと頷いて、流れる涙をそのままにする。

 

「……夢の中まで、ついていけたらいいんだけどな」

 

 アヤネは目を細め、ほろ苦い笑みを浮かべた。

 あたたかな明かりでできた影が、どこか青がかって見える。

 

「悪夢も、何でも、振り払ってやれたらいいのに……代わってやりたいのに。

 何より、お前が苦しむ必要なんて、ないのにね……」

 

 アヤネの抱きしめる力が強くなるのを感じた。

 静かな語り口は、部屋と同じで仄暗い。

 

「……スキュー、なんかあったかいのでも飲もうか?夏だけど、ほっとするのが飲みたいでしょ?」

 

 スキュブが頷いて腕をほどくと、アヤネは手を繋いで、ベッドから降りるのを手伝ってくれた。

 

 アヤネに手をひかれて廊下を歩く。

 歩幅はスキュブの方があるけれど、合わせてくれているのはいつもアヤネの方だ。

 怖くないときも、怖いときも、自然と歩けるようにしてくれる。

 カヨの隣をずっと歩いていたからできることなのかもしれないが、おいていかないという約束を守ってくれているのは、どうであれ嬉しい。

 

 カーテンの隙間から、月が見えた。

 空には暗い雲が浮かんでいたが、そこだけは月明かりで照らされていて、月の輪郭がはっきりと見える。

 うっすらとした淡い虹色の繭に抱かれているようだった。

 雲ひとつない夜空に満月が浮かんでいるのも良いけれど、こういう月もいい。

 

 月はいい。自分から光っているわけではないらしいが、アヤネみたいにやさしく光っている。

 太陽もきれいだけど、やっぱり月が好きだ。

 

 あの日のことを思い出す。

 アヤネが手を差し伸べてくれた夜のことを、今でもはっきりと覚えている。

 あの日もこうして、やさしく手をひいてくれた。月明かりのしたを、ゆっくり歩いてくれた。

 

 リビングにつくと、アヤネは椅子をひいて、座るよう促してくれた。

 スキュブが椅子に座ると、アヤネは部屋の明かりをつけ、キッチンの方へ向かう。

 いつも使っている手鍋に牛乳を注ぎ、火にかけているのが見えた。泡だて器でかき混ぜる、しゃかしゃかという音を聞くと少し落ち着く。

 

 アヤネも目が冴えてしまったときは、カヨにホットミルクを作ってもらっていたらしい。

 親に黙って、夜中に火を使うのはカヨにとってちょっとした楽しみだったらしく、そのうきうきな笑顔は、夜中にカヨを起こしてしまったアヤネの罪悪感を和らげてくれたそうだ。

 

「おまたせ」

 

 アヤネはホットミルクの入ったマグカップを二つ運んできた。

 

「こうするのもなんだか久しぶりな気がするね」

 

 アヤネも夜中に火を使うが楽しいのだろうか。

 懐かしそうに、それでもやはり悲しそうに、静かな笑みを浮かべている。

 

 その唇はこれから何を語るのだろうか。

 季節も関係なしにやってくる悪夢のあとの夜長には、いつもアヤネの話が添えられた。

 

 寝る前の読み聞かせのようで、夜の長さを短くしてくれる魔法のような、さりげない語り。

 スキュブはマグカップを両手で持って、アヤネの言葉を待った。

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