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 スキュブの寝息が聞こえはじめ、寝室に静かな夜の空気が漂いはじめたころだった。

 後ろで部屋の扉が開く音がした。静かに開けられた扉が床に光の線を広げ、二人分の影を浮かばせる。

 

 それが誰か、などと説明する必要はない。

 ここに入ってこられる者は身内しかいないのだから。

 

「……スーちゃん、寝た?」

 

 慈愛のぬくもりを感じる声だった。ふと、カヨの家で過ごしていた日を思い出す。

 悪夢にうなされる日々に、カヨの優しい声がじんわりと沁みた、あたたかな記憶だ。彼女も同じことを思っているのかもしれない。

 

「ついさっき寝たよ。暫くしたら、起きると思うけど……」

 

「あーちゃんもそうだったよね。なかなか眠れなくて、眠ったら悪夢にうなされて」

 

 カヨは懐かしそうに呟いた。卒業アルバムを一緒に捲るように、瞼を軽くおろす。

 

「……いつもごめんね、面倒かけて」

 

「何言ってるの?助けるのは当然でしょ、わたしたちはあーちゃんとスーちゃんのためなら、なんだってできるんだから」

 

 足音が近づいてくる。

 カヨはアヤネの後ろに、ディートリッヒはスキュブのベッドに。

 ディートリッヒは心配そうな顔で、スキュブの寝顔を覗き込んでいた。

 

「……お兄様」

 

 ディートリッヒは目を細め、スキュブの髪をそっと撫でる。

 

「夢の中まで一緒にいられたら、どんなにいいことでしょう。悪夢など、私が一飲みにしてしまうのに」

 

 囁くような声が、夜の空気に溶けていく。

 両手をきつく組んで、祈るような光が、俯き気味の睫毛から覗いた。

 

「あーちゃん、手紙読んだよ」


 声にぴり、とした緊張が混じる。

 

 スキュブを寝かしつけた後に書いた手紙に目を通してくれたようだ。

 こういうときのカヨは仕事がはやい。凄まじく頭の回転がはやいのだ。

 

「あーちゃん、今回はもう我慢できないからね」

 

 武器を手にしていないのに、闇で刃が閃いたような気がした。

 何度も聞いた、聞き覚えのある声だ。他者に向けた殺意をむき出しにしている。

 

「この前のは特別。あーちゃんからのお願いだったし、そいつがあーちゃんの知り合いの大切なひとだったから。

 今回はそうじゃない。もう許せないよ」

 

 カヨの言う通り、ユウの件に関しては特別だ。本来であれば、ユウはカヨにばらばらにされている。今頃家畜の餌にでもなっていただろう。

 カヨはそういうひとだ。アヤネが傷つくことをひどく嫌う。

 

「……知ってる。手紙にも書いたでしょう、申し訳ないけど仕事を代わってくれないかって」

 

「絶対に殺すから、ちゃんと言っておいただけ。

 例え、依頼内容に変更があっても、何があっても殺す。だって、スーちゃんの引き金を引くんでしょ、そいつ」

 

 スキュブの発言に、それを疑う内容があった。

 お母さんと手を繋いで、というのはおそらく、スキュブのこころが砕けたときの記憶のことだろう。

 

 スキュブは母に酷く傷つけられ、出ていくように言われた過去がある。

 母は酷い飽き性で、自分の理想のこどもを作っては捨てを繰り返していた。

 どういう技術なのかは知らないが、二つの生き物を合成した生物を作ることができたようだ。スキュブもディートリッヒもそれで産まれたいのちで、二人は短い親子生活を送った後、捨てられた。

 

 ――恐らく、あの人魚も。

 

 自分はいけないことをしたのか、何が悪かったのか、教えてくれれば直すからどうか捨てないでと泣きじゃくりながら、目もあてられぬほどの虐待を受けたスキュブに刺されたとどめは、新しいこどもと手を繋いだ母の姿だった。

 そこにいたこどもが、あの人魚だったなら、こうなるのは必然である。

 

 スキュブは十五歳だが、自分で認識している年齢が十歳だというのはこのせいである。

 自分はアヤネと出会ったときに産まれたのだ。それ以前の自分は死んでいる……そう思っている。

 

 こころが砕けるというのは、そういうことだ。

 胸から血を流して死んだ過去の自分から抜け出てくるのか、どこからか発生してくるのか。

 詳しいことは分からない。白く冷たい記憶の中に秘められて、思い出せないようになっている。

 

「……そうだよ。おそらく、出身が同じなんだと思う。

 詳しいことは分からないけど、人魚と何かの混血なんだろうね」

 

 アヤネはカヨの方を振り返った。

 暗い中で、緑色の瞳が光って見える。怒りの炎がその奥でくらくらと揺れていた。

 

「詳しいことなんて分からなくていいよ。どんな理由があったって、どんな出自だって、そいつは死ぬの。」

 

「ええ。だからお姉様は何も心配なさらずに。次ここに来るときには、完了のしらせを持ってきますから」

 

 ディートリッヒはスキュブのもとから離れ、カヨの隣につく。

 二人の表情は似ていた。冷たい顔に、熱くどろどろと怒りを孕ませて、淡々と鋭い言葉を放つ。

 まるで双子のようだった。姿も形も違うのに、寸分違わずぴったりと重なっている。

 

「頼ってばかりで、ごめんね」

 

 アヤネが目を伏せると、カヨはかくりと首を傾げた。

 

「頼ってもらわなきゃ、困るの。こういうときは特に。

 逆に頼らなかったら怒るからね」

 

「そうだったね。お前は、昔からそうだったよ。

 それでも、ちゃんと言わないとね」

 

「知ってるならいいの。あーちゃんは一人で抱え込むんだから、もっとわたしを頼ってよね」

 

 カヨはそう言うと、踵をかえして部屋を出た。

 

「お姉様、お兄様をよろしくお願いしますね。

 家族を脅かす敵は、私たちが始末してきますから」

 

 ディートリッヒは優しい微笑みを浮かべてから、カヨのもとへ歩いていった。

 

 怒りを表に出さず、アヤネに気を遣ってくれる良くできた弟だが、思っていることはカヨと一緒だ。

 カヨは敵に対して演技が上手くて、ディートリッヒはどちらに対しても演技が上手い、というだけである。

 

 アヤネはスキュブの方へ視線を戻した。

 まだ穏やかに眠っている。悪夢はまだ、魔の手を伸ばしていないらしい。

 

 アヤネはそっとスキュブの手を握った。

 自分が悪夢に立ち向かえるわけでもないし、何の助けにもなれるわけではないが、壊れものを扱うように優しく、しかし離さぬようにしっかりと握る。

 

 スキュブの寝顔から目を離さずに、まばたき一つもせず、アヤネは祈った。

 何の夢もみないように。みるならば、家族の夢がみられるように。

 今の家族に囲まれて、微笑んでいるあの時間が、全ての悪夢を払いのけてくれるように。

 

 外で、木々が揺れる音がする。

 強い風が、夜で黒く染まった森をざわめかせていた。

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